小人症というミュータント:『X-MEN フューチャー&パスト』

X-MEN フューチャー&パスト』観賞。『ウィンター・ソルジャー』といい本作といい、最近のアメコミ映画はどうかしてる。「サブカルチャーとしてのアメコミと近代アメリカ史を重ね合わせる」という、SFテクニックというか文芸魔改造みたいな手法を発見したおかげだと思うのだが、すぐ傷が治ったり空を飛んだり超高速で動けたり獣に変身したりする人外魔境なジャリ向けヒーローがガッツンガッツン殴りあう話が、こんなに出来のいい映画ばかりになるなんて、本当にどうかしてるぜ!


もっといえば、『フューチャー&パスト』は『ウィンター・ソルジャー』に比べて、数倍どうかしてる。なにがどうかしてるかって、悪役を小人症の俳優にやらせてるんだよね。CGでもSFXでもない、本当に小人症の俳優だ。
これはかなり凄いことではないかと思う。『X-MEN』に小人症の俳優が出演するというのは、R2-D2やイウォークの中に小人症の俳優が入っていたり、『ウィロー』に小人症の俳優が大挙して出演していたりするのとは、次元の違う凄さだ。



X-MEN』といえば、90年代に邦訳版を読んでいた自分としては、カラフルなスーツを着たヒーローたちが宇宙人やら未来人やら異次元人やらと戦いつつ、チーム内で恋の鞘当てを繰り広げまくるという印象が強いのだが、作品がテーマとしているものは明確に「差別」や「偏見」との闘いであるわけだ。
同じような特殊能力を持っているファンタスティック・フォースパイダーマンが社会から憧れやレスペクトを受ける存在であるのに対し、X-MEN(やその敵)たちミュータントは社会から奇異の目でみられ、危険視され、差別される。いかに荒唐無稽なバトルやドロドロ恋愛合戦が繰り広げられようとも、『X-MEN』という作品の根底には、アメリカという国が建国から現在まで抱えている、黒人やユダヤ人やゲイやヒスパニックといったマイノリティ差別問題や、それに抗する社会運動の反映がある。
特に映画版はそういったテーマをよく受け継いでいて、スピンオフ作品である『ウルヴァリン: SAMURAI』ですら「ガイジン! ガイジン!」と呼ばれたウルヴァリンがちょっと哀しそうな顔をしたりするし、皆が『X-MEN2』を褒めたのに対して『3』にガッカリしたのは、そういったテーマが表面的なものになってしまっていたからだろう。


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マカヴォイとファスベンダーが60年代にブロークバックする『ファースト・ジェネレーション』は誰しもが認める名作だったが、やはり根がリア充だったマシュー・ヴォーンのX-MENがどこまでもイケメンだったのに比べると、ゲイでユダヤ人で心にGジャンを着込んでいるブライアン・シンガーX-MENはどこかしらガキっぽくて泥臭いところがいい。もし監督がマシュー・ヴォーンだったら、未来のX-MENたちの戦いはあんなに派手にならなかっただろうし、マグニートーがわざわざ野球場を持ち上げるなんてこともしなかったのではなかろうか。
一方で、ボリバー・トラスクに変身したレイブンの妙にジェントルメンな態度に秘書が訝しんだり、ハーヴェイ・ミルクの演説を引用していたりするところに、ブライアン・シンガーの演出家としての成熟を感じたりもする。


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さて、そのボリバー・トラスクのいう「ミュータントは人類の脅威だから戦闘ロボットを使って排除しなくてはならない」という論理は、いかにもマンガチックに思える。だが、『ミルク』をご覧になった皆さんならご存知の通り、ハーヴェイ・ミルクが戦っていたのは「ゲイの教師は社会にとって脅威だから排除しなくてはならない」という「条例6」であり、「ゲイ教師の存在はアメリカの基盤である家族の価値観を崩壊させる」と公言し、反同性愛キャンペーンを展開するアニタ・ブライアントであった。「何もしなかったら抹殺されるかもしれない」というマイノリティにとっての不安は、帝政末期のロシアやナチス政権下のドイツといった大昔の話ではない。『ファースト・ジェネレーション』や『フューチャー&パスト』が舞台としていた60、70年代に実際に起こった話であり、現在まで引き継がれているリアリティのある不安なのだ。



本作におけるボリバー・トラスクの恐ろしさは、大きく分けて二つある。
一つは、ミュータントを探し出し抹殺する兵器を開発し、政府に働きかけ、運用しようとしているにも関わらず、自分が社会にとって良いことをしていると心の底から信じている点だ。「おれたち」と異なる「あいつら」は人間ではない。少なくとも「おれたち」のような人間ではない。だから「おれたち」の社会から排除されて当然だ。何故なら「おれたち」は多数派であり「あいつら」は少数派であるからだ――これを第一段階としよう。この考えは、<こととしだいによっては、「あいつら」が殺されることになっても致し方あるまい>という第二段階や、<もっといえば、「おれたち」は「あいつら」を殺したって構わない>という第三段階に、容易にスライドするのだ。ヒトラーのような「普通じゃない」有名人だけではない。アニタ・ブライアントや前都知事や元航空幕僚長といった「普通」の人間も、同じ第一段階にある。これが『鈴木先生』のいう、「普通の人同士で不幸が起こる」恐ろしさだ。
だが、この恐ろしさは『1』や『2』の悪役であるケリー上院議員やストライカーも同じだった。


もう一つの恐ろしさは、そのボリバー・トラスクが小人症という点だ。

原作におけるボリバー・トラスクは小人症でもなんでもない。いかにもアメリカのコンサバティブで共和党主義者でエスタブリッシュメント然としたキャラクターに過ぎない。
だが、『フューチャー&パスト』のボリバー・トラスクは小人症だ。実際に小人症の俳優であるピーター・ディンクレイジが演じている。『フューチャー&パスト』のボリバー・トラスクはおそらく自分が小人症であることにコンプレックスを持っていて、それをバネに猛努力して、軍事科学者であり経営者である今の地位を手に入れたのであろう――ということが、映画の端々からわかる。ボリバー・トラスクに変身したレイブンに秘書が違和感を持つシーンは重要だ。つまり、普段のボリバーは秘書に「ありがとう」なんて言わない人間なのだ。
本作はX-MENやミュータントたちが主人公である映画だ。観客である我々は、X-MENやミュータントたちに感情移入することになる。当然、悪役であるボリバー・トラスクを憎むことになる。ボリバー・トラスクは外見的に普通の人間と異なる小人症だ。なんて気持ち悪いんだ。こんなやつ、X-MENやミュータントたちに倒されて当然だ。こととしだいによっては、殺されることになっても致し方あるまい――そう感じてしまった途端、おれたちは映画の中でX-MENやミュータントに偏見を持ち差別する悪役と変わらない、「普通」に不幸を起こす人間になってしまう。これが本作が内包する二つ目の恐ろしさだ。


「普通」の憎しみを棄て――銃を棄てることで将来の「不幸」を回避する、そんな本作のストーリーを鑑みるにつけ、ボリバー・トラスクが小人症であることに恐ろしさを感じずにはいられない。イアン・マッケランがゲイであり、エレン・ペイジレズビアンであること以上に恐ろしい。



『ミルク』で最も印象的だったのが、ゲイだらけの選挙事務所にアリソン・ピル演じるレズビアンの選挙マネージャーが初めて入ってくるシーンだ。(恋人だった)前任者が辞めてしまったので彼女に頼んだんだ、とハーヴェイ・ミルクが笑顔で紹介するも、ほとんどのスタッフは戸惑う。ゲイに対する差別や偏見と戦っている彼らも、心の奥底にはレズビアンに対する生理的な差別心や偏見があったのだ――ということを示す名シーンだ。
だが、スタッフの中で最も若い、エミール・ハーシュ演じるクリーブだけが彼女を歓迎する。「僕たちに必要なのはタフなレズビアンだ」と握手する。後のシーンでは、親愛のキスまで交わす。勿論、クリーブはゲイで、『ミルク』にはクリーブが恋人にフェラするシーンもある。クリーブは「普通」じゃない。クリーブならきっとボリバー・トラスクを憎まない。