『T・Pぼん』とF作品の魅力とは

先日の放送「『T・Pぼん』と藤子・F・不二雄コンテンツの現在」は如何だったでしょうか?

放送で触れた『T・Pぼん』とF作品の魅力について、改めて文章でまとめることにします。

ネトフリ版『T・Pぼん

Netflixで二度目のアニメ版『T・Pぼん』がシーズン2まで配信されましたが、いや良いですね良いですね。
何が良いかって、まず安川ユミ子が可愛くなっているのが良いですね。
原作での第一部、アニメ版ではシーズン1でぼんとコンビを組む先輩タイムパトロール、リーム・ストリームはF作品の中でも一、二を争う人気のヒロインで、自分も大好きでした。放送の中でも言及しましたが、「バカンスは恐竜に乗って」と「超空間の漂流者」で、同じシチュエーションなのに意味合いが変わることにドキドキしました。藤子・F・不二雄には「人類絶滅を前に美少女が裸になりがち」という性癖があると思うのですが、それを別にしても絶対この二人はヤってるね!

シーズン2の配信に合わせて「Fライフ増刊 T・P本 アニメ「T・Pぼん」と藤子・F・不二雄の世界」というムック本が発売されたのですが、スタッフの間ではリームが大人気で、特にメインライターの佐藤大は、打合せで「初恋の人」と表現したらシリーズ構成の柿原優子に「ずいぶんいじられました」、とインタビューで答えていたのには噴き出してしまいました。皆、「年下の先輩」なリームが大好きなんだなあ。


一方で、第二部から登場するユミ子は、藤子ヒロインとしては普通というか、優等生で正義感が強くてそれ故にピンチに陥ることもあるのだけれど、他のF作品に出てくるヒロイン的女性キャラと比べて違いを見出し難いという意味で平凡なキャラクターでした。
これがアニメだと、学校では美少女扱いされていて(原作とは違い主人公ぼんと同じ学校、同学年で他のクラスという設定になっています)、自分でもそのように扱われていることは自覚しているのだけれど、そのような扱いに飽き飽きしていて棚ボタ的に転がり込んだタイムパトロールの仕事にわくわくしている――というような内面を持っていることがより明確に描写されるのです。これが可愛い。アニメの向こうに人間臭い魅力があるわけです。
演じる黒沢ともよが上手いのもあるのですが、明らかに脚本・コンテ段階からの演出です。ムック本のインタビューでは、柿原優子が「世の男性はリームがスペシャルな存在だと実感」「女性としてはユミちゃんの魅力を推していかなければ!」「リームという華やかなキャラの対向にいるユミちゃんに肩入れしました」と答えていて、頷いてしまいました。


シーズン2の最終2エピソードはオリジナルで、ぼんを含めたこの3人が活躍するのは最高でした。原作漫画の第2部で、過去のリームとぼんとの活動をぼんとユミ子が目撃するシーンがあるのですが、Fがいつか描こうと思うもついに描けなかった最終回は、これを伏線として3人が活躍するものだったのかもしれません。

F作品における視点・価値観の対立

ネトフリ版『T・Pぼん』のもう一つの良いところ、というか一番大事なところですが、歴史や人類についての視点や価値観を、原作漫画のみならずF作品全般から受け継いでいるのが良いと思うのですよ。
ぼんやユミ子は、タイムパトロールとしての任務――過去に不幸な死を遂げた者の中で、生存させても歴史の流れに影響しない者を助ける――の最中、人間の残酷な行いを目にします。魔女狩り、拷問、戦争、生贄、暗殺、差別、奴隷制度……しかもそれらのほとんど(事故や通り魔殺人等を除いて)は、単に個人としての人間が残酷なのではなく、その時々の社会背景――人間の営みが生み出した残酷さです。人間の営みが歴史――人類史を作ります。故にタイムパトロールになりたてのぼんが「戦場の美少女」で主張するように「誰も彼も助ければ良い」というわけにはいきません。作品内では「歴史の流れを変えてはいけない」というタイムパトロールの掟に背くことになりますし、作品としては人類史を否定することになるからです。人の性は悪なり。


ただ、人類全体としては悪で残酷であっても、人間個人としては違います。
ぼん達が過去世界でドジを踏み、行き詰ってしまった時、かなりの確率で助けてくれる人たちがいます。なによりも、お互いを助け合うタイムパトロール――目の前にいるリームやユミ子は好人物でしかないし、「歴史の大きな流れに影響を与えない範囲で人命を救う」タイムパトロールという組織自体が人の善性から設立されたとしか思えません。「奴隷狩り」でぼんが言ったように「人類の歴史は少しずつだけどいい方向に向かっている」のであり、少なくともこの漫画の読者である少年少女たちにはその心持ちでいて欲しい――とFは考えているのです。人の性は悪、其の善あるものは偽なり。


これらは幾つかの価値観の対立を表しています。

  • 冷徹な論理性と、どこかほっとする怠け癖や見落としからくるドジさといった人間性の対立
  • 人類は愚かであり歴史(人類史)は残酷の集大成であるというマクロな視点からみた絶望と、個人としての人間の中には良い人もいるというミクロな視点から見た希望との対立
  • 残酷な利己性と、他人を救おうとする利他性という人間性の側面同士の対立
  • 論理あるいは(時空含めた)自然と人間性ヒューマニズム)の対立

……等々
これらの対立はF作品の多くに共通するテーマです。のび太出木杉のび太としずか、魔美と高畑くん、パーマン1号・2号と4号・バードマン……こういった立場や価値観がことなる二人の間での対立と対話で話を進め、四畳半からは馴染まった話が人類や人類史、「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」に至るのがFのスコシフシギの醍醐味といえるでしょう。
また、「冷徹な論理性」「マクロな視点」で話を始め、別の視点があることが提示される……というのが『征地球論』『ウルトラスーパーデラックスマン』『宇宙船『老年期の終り』等々のSF短編なのではないでしょうか。『モジャ公』『流血鬼』『絶滅の島』等々、完全に絶望と諦念が開き直った作品もありますが。


もう一つ、見逃せないのはぼんの成長です。ぼんは自身が正隊員になりユミ子が相棒になってからも(話の都合上)ドジを踏み続けますが、ぼんの歴史観は成長していきます。第一部では人類の残酷さを目にして憤っていたぼんですが、第二部ではユミ子にタイムパトロールの掟の大事さを教える立場になります。歴史を積み重ねたブロックに喩えたり、戦争を「歴史の上で避けられないもの」として諦観めいた立場をとるのです。「シュメールの少年」で救助対象の一族が戦争の準備に間に合うのをハッピーエンドと捉えたり、「武蔵野の先人たち」で実は隣国のスパイだったヤタヒコを救わなくても代わりの人間が送られてきて、戦争が起こるという歴史の流れは変えられないのだという台詞など、第一部と同じキャラクターとは思えないほどです。きっと、歴史の中で沢山の人間の生死をみて、自身も生死を潜り抜けた経験(何度か実際に死んでいます)が、ぼんを変えたのです。ヒューマニズム人間性)とはエゴイズムであるという諦念に行きついたのかもしれません。話の都合上、Fの諦念がダダ洩れになっているともいえますが。

T・Pぼん』と『大長編ドラえもん』の関係性

そのようにF作品の魅力が詰まった『T・Pぼん』ですが、Fの作家史を考えると、一つの岐路に居合わせた作品と言えるのではないかと思います。Fの人生を変えた『大長編ドラえもん』と深い関係性がある、というか『大長編ドラえもん』の発想の原典となった作品だと思うのです。
T・Pぼん』の第1部は1978年7月~翌79年8月まで、雑誌「少年ワールド」に連載されました。完全月イチ掲載、約一年間の連載です。
その後、ぼんが正隊員となりユミ子とコンビを組む第2部と第3部は「少年ワールド」を引き継ぐ形で相関された「コミックトム」に1980年4月から83年5月まで不定期連載されました。
この間、Fは何をやっていたのかというと、SF短編や『エスパー魔美』(1979年5月~)を書きつつ、コロコロで大長編版『のび太の恐竜』を連載(1979年12月~1980年2月)していたのでした。


そう考えると、「バカンスは恐竜に乗って」で描かれた1億9000年前の一泊二日の旅や時間犯罪者、「超空間の漂流者」で描かれたタイムマシンが壊れた時の頼りなさ、などが、『のび太の恐竜』に直接的な影響を与えている、というか同時期にFの頭の中から出てきた発想であるのが分かります。「戦場の美少女」の沖縄近海での空戦シーン等、ここぞという時に見開きで描かれる大スペクタクルシーンはプテラノドンの谷を抜けるシーン等で引用していますね。
T・Pぼん』でシリーズ作として描かれ、『のび太の恐竜』で手ごたえを得た「異世界での冒険と(それなりの)成長」というFらしい教養小説的冒険譚が、この後『宇宙開拓史』『魔界大冒険』と続いていく『大長編ドラえもん』の基礎となったが、同時にFの作家としての命運も決まってゆくのであった……という文章を書こうとしたら、先のムックで瀬名秀明がしっかりそのようなコラムとしてまとめていたので、この辺で辞めておきます。