追悼 田中敦子

追悼 田中敦子

声優の田中敦子さん(以下敬称略)が20日、亡くなったことが所属事務所により発表されました。61歳。同日、声優の田中光がXを更新し、田中敦子の息子であること、田中敦子が1年に及ぶ闘病生活を送っていたことを明かしました。


田中敦子といえば、つい数ヶ月前に『勇気爆発バーンブレイバーン』でクーヌスの声を担当していました。現役バリバリの一流声優だったわけで、訃報に驚きました。
それ以上に驚いたのは、結婚していて息子がいて、その息子も声優だったことです。
自分は、というか我々は、田中敦子のことを何も知らなかったのかもしれません。

自分が初めて田中敦子のことを認識したのは95年の東京ファンタスティック映画祭でした。その頃から押井守のファンだった自分は、どうしても『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』をいち早く観たく、ぴあでチケットを予約して、今は亡き渋谷パンテオンに観に行ったのです。

上映の前か後、正確に覚えていないのですが(おそらく上映前)舞台挨拶があり、押井守と主演の田中敦子大塚明夫が登壇していました。その頃から大塚明夫は大人気で、グラサン着用に凝った衣装とスター声優としての華があり、客席から黄色い声援が飛んでいました。
一方で、それまで洋画の吹替を中心に活動していた田中敦子知名度は低く、地味なロングスカートも相まって、どこかのOLみたいという印象を受けたものです。確か「マテバとかセブロとかいった普段使わない劇中専門用語の発声が難しくて困った」みたいな話をしていて、それもOL感をいや増していましたものです。
その後の田中敦子の活躍は、皆さんご存じの通りです。草薙素子は当たり役となり、以後アニメでも洋画吹替でも存在感を発揮して、ゼロ年代には名実共に一流声優となりました。
これははっきりと覚えているのですが、ステージを降りて控室に戻ろうとする田中敦子に一人のオタクが駆け寄り、サインをねだったことを今でも覚えています。自分はその頃からTPOを考えずに著名人にサインをねだるファンを心の底で馬鹿にしていて、その時も迷惑なオタクだなあと思ったものですが、田中敦子神対応で嬉しそうにサインをしていました。今考えれば、おれもあの時サインを貰っておけばよかったなあ。
あれから約30年が過ぎ、その間に田中敦子は一流声優になり、プライベートでは結婚して、子供を産み、その子供も声優になったわけです。対して、おれはなにをしているのか……みたいなことも考えたりもしてしまいます。

田中敦子による草薙素子

田中敦子が凄かったのは、この時点で彼女独自の草薙素子像を確立していたことです。

度々SNS等で話題になるのですが、原作漫画『攻殻機動隊』はかなりの割合でギャグが入っています。少佐は自分が死んだと思ったかどうかを部下に確認しておどけてみたり、「私に有給をー」と大袈裟に嘆いてみせたり、女友達とバーチャル空間でエロいことをやりまくったりしています。数話の例外を除いて、どんなにシリアスなことをやっていても最後のコマは必ず笑いで落とす構成になっています。『アップルシード』や『ドミニオン』と同じように、80年代のオタク系SF漫画の流れを引き継いでいる士郎正宗の作風がそういうものであるといわれればそれまでなのですが、「恨み辛みのようなネガティブで強い感情は描きたくない」「どんなにシリアスなネタを扱っていても漫画とは明るく楽しいものでなくてはならない」というシロマサの80’s哲学が垣間見えるようです。(こちらで比較として『銃夢』が言及されていることにも納得です)
ところが映画『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』は、原作にある台詞やエピソードを極力そのまま使っている一方で、キャラクターの性格をアレンジし、全ての事件に黒幕である「人形使い」が絡んでいるよう再構成し、お得意の聖書からの引用を使いまくり……と、完全にハードでシリアスな映画になりました。原作漫画でマスコット的に登場しギャグの多くを担うフチコマは完全にカットし、原作では最後にギャグシーンで救ってみせたゴミ回収の男の末路は人生の終りのように演出する、という徹底ぶりです。「物語・台詞はほとんど変わらないけど、キャラクター・世界観を微妙に変化させることで全然違う方向に持っていく」という改変ぶりは、今だったら「原作レイプ」と呼ばれるかもしれませんが、95年当時はそういった日本製アニメ――後に(国内でのみ)ジャパニメーションと呼ばれることになる「世界で通用する(ように思える)日本のアニメ」が求められていたのです。
そして田中敦子は、この原作とは異なるが映画が求める草薙素子――一言たりともおどけないしギャグシーンは皆無だが、皮肉や自嘲は時たま口にする、外見は若い女性にみえるが内面はより老成した、男か女かも分からないサイボーグ――をこの時点で完璧に演じてみせました。

この改変ぶりは、二年後にPlayStationのゲームソフト『攻殻機動隊 GHOST IN THE SHELL』内のムービーとして作られたアニメと比較すると、より分かりやすいです。鶴ひろみ草薙素子を演じ、フチコマに乗り、ギャグもそれなりにあるこのアニメパートは、原作の雰囲気そのままです。
攻殻機動隊』の映像化はこの後、テレビアニメ『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』『S.A.C. 2nd GIG』『S.A.C. SSS』『SAC_2045』……と続いていったわけですが、前日譚である『ARISE』を除いて全て田中敦子が担当してします。アニメ版フチコマであるタチコマが登場し、時にはコメディパートもある『S.A.C.』、3DCG作品となった『SAC_2045』、ハリウッド製実写映画『ゴースト・イン・ザ・シェル』の吹替と、よく聴き比べると田中敦子は作品の特性に合わせてそれぞれの「草薙素子」を全て演じ分けており、流石と言うほかありません。

田中敦子と闘病

田中敦子の訃報のニュースの後、2023年11月に行われた『攻殻機動隊 SAC_2045 最後の人間』の舞台挨拶が話題になりました。

約一年間闘病してたそうなので、田中敦子が死期を意識していた時期です。「最後の草薙素子になるかもしれません」と涙ぐんでいたのは、2026年に予定されているサイエンスSARU製作のテレビアニメ『攻殻機動隊』は作風を(おそらく原作寄りに)変えるため、自身が声優を務めるのは最後になるかもしれないという意味だと皆思っていたのですが、まさか闘病中で死を覚悟していたという意味だったとは。

もう一つ気になるのは、前記したとおり『勇気爆発バーンブレイバーン』で悪役の一人クーヌスを演じていたことです。
『バーンブレイバーン』についてはニコ生でも特集しましたが、2024年上期に大ヒットしたロボットアニメです。敵は「デスドライヴズ」と呼ばれる機械知的生命体で、地球を侵略するために宇宙の彼方からワープでやってきます。
で、地球を侵略する理由というのが、この手のロボットアニメとしては凝った設定になっています。デスドライヴズ達は永き進化の果てに知性を獲得したのですが、機械知的生命体であるため寿命がなく、「死」という概念を持っていません。故に、自らが望む形での最上の「死」を遂げるため、自分たちを滅ぼしえる生命体を求めて宇宙をさすらっており、侵略行動も最上の「死」を遂げるためのものでしかないのです。
指揮官はそれぞれ七つの大罪のうち一つを由来として名前を持ち、「強欲」担当のクピリダス(ラテン語で貪欲を意味する)なら「滅茶苦茶でハチャメチャな死」、「虚栄」担当のヴァニタス(ラテン語で虚栄心)なら「まばゆい光に照らされた死」を求めて目的に行動している、という設定です。早い話、変態ロボット生命体を敵にしたわけですね。
「淫蕩」担当のクーヌス(ラテン語で女性器)は「宇宙一の快楽の果ての死」を求めている、と設定されているのですが、時期的に田中敦子が闘病生活を開始した後に声を収録した可能性が高いことを考えると、複雑な気持ちになってしまいます。デスドライヴズ幹部たちは全員一流声優が声を担当し、ノリノリのコメントを寄せているのですが、田中敦子だけそっけない感じなのも、また複雑な気分になってしまいます。

しかし、だからといってクーヌスの演技が微妙だったということはなく、性癖が歪んだロボットアニメの敵として100点満点の演技だったのです。
「強い女性」「戦う女」を得意とする田中敦子ですが、『銀魂』のフミ子とか、『ビーストウォーズリターンズ』のボタニカとか、下ネタ満載の役も得意なのでした。


田中敦子さんのご冥福をお祈り申し上げます……と書いてクールに締めたいところですが、『文芸あねもねR』の追悼回を聴いたら泣いてしまうかもしれない今日この頃です。

『デッドプール&ウルヴァリン』は『Over Quartzer』パクリ説

デッドプールウルヴァリン』はメタフィクション

先日の町山さんとのニコ生じゃなかった Youtubeライブでもお話しましたが、『デッドプールウルヴァリン』、面白かったですね!
20世紀FOXがディズニーに買収され、デッドプールのみがMCUに参入する、一方でヒュー・ジャックマンというスターがいないFOXのX-MENシリーズは終わる――という話を、TVAがデッドプールのみをスカウトし、一方でウルヴァリンというアンカーがいなくなったアース10005(TRN414かもしれません)は崩壊する、という話で表現してるわけです。メタな話が上手いとしか言いようがありません。第四の壁を破るデッドプールのキャラクター性と、TVAというタイムパトロール隊ならぬマルチバース・パトロール隊をメタ的な要素をまとめるために組み合わせる上手さ! 豪華すぎるカメオ出演の数々! 「ヒュー・ジャックマンウルヴァリン役再演を決意しなかったら断念していた」「作品の核は友情」といった作り手のコメントにも納得です。
巷では「ストーリーがよく分からない」などと言われてますが、完全に「メタフィクションをやる」という方向にリアリティラインを振り切っているせいか、自分は素直に楽しめました。「メタフィクションを素直に楽しむ」なんておかしいだろと思われるかもしれませんが、最近の仮面ライダー、特に一時期の平成ライダー劇場版は、こんな感じのメタな話ばかりやってたんですよね。

『劇場版 仮面ライダージオウ Over Quartzer』とは

その中でも『仮面ライダージオウ Over Quartzer』は『デッドプールウルヴァリン』によく似ています。
仮面ライダージオウ』は平成ライダー20作目であり、「平成ライダー」の最終作です。2018年9月から翌2019年8月――平成最終年(30、31年)から令和元年にかけて放送されたテレビドラマです。平成ライダー10作目である『ディケイド』と同じくシリーズの節目となる作品であり、歴代平成仮面ライダーレジェンドライダー)たちが何らかの形で登場するクロスオーバー作品です。
で、その放送中に製作された映画『仮面ライダージオウ Over Quartzer』は、「平成ライダーとは何だったのか」を描くメタフィクションとなっています。
これまで数々の時代・世界を巡ってレジェンドライダーたちと出会い、新たな関係性を結んできた主人公常磐ソウゴたちは、「歴史の管理者」を名乗る謎の集団、クォーツァーたちと出合います。クォーツァーのリーダーであるSOUGO(演じるのはライダーのファンとして知られ、『ジオウ』のテレビ・劇場版両方の主題歌も歌っているDA PUMPのリーダーISSAです)は、とんでもない台詞を口にするのです。

「お前たちの平成って、醜くないか? まるでデコボコで、石ころだらけの道だ……」
「お前ら……おかげで平成ライダーの歴史はむちゃくちゃだ!」

クォーツァーたちは、平成ライダーによって紡がれた歴史が「醜い」と感じ、平成という時代そのものを消し去ろうとするのですが、なぜ「醜い」と感じるのかについては詳細に語られることはありません。
しかし、平成ライダーに20年もつきあってきた観客たちにとっては、ISSAじゃなかったSOUGOの気持ちはなんとなく理解できるのです。
仮面ライダークウガ』の成功で始まった平成ライダーシリーズですが、何作も作られるうちに、皆が考える「仮面ライダー」とは違うものも出てきました。ライダー同士が殺し合う、口から火を吹いて太鼓を叩く、バイクではなく電車や車に乗る、フルーツと鎧がモチーフ……これらは全てマンネリを防止し、常に人気を獲得し続けるためですが、そのなりふり構わなさを「醜い」と感じる人もいるでしょう。
主人公ソウゴはSOUGOの影武者でした。失意のうちに捕えられ、クォーツァーの牢屋に幽閉されてしまうソウゴ。そんなソウゴを、隣の牢屋に捕えられていた囚人の男が励まします。
その男はなんと木梨猛――平成という歴史と版権に埋もれた仮面ノリダーの変身者なのでした。演じているのは木梨憲武本人です。

仮面ノリダー』とは

仮面ノリダー』は、80年代末から90年代に末にかけて放送されたバラエティー番組『とんねるずのみなさんのおかげです』内のパロディドラマです。ゆるいパロディコントといっても良いかもしれません。
なんのパロディかというと当然『仮面ライダー』のパロディなのですが、『仮面ノリダー』が作られた当時(88~90年)のとんねるずは若手No.1の人気を持ち視聴率を稼げる芸人だったこと、バブル経済最盛期に作られたフジテレビの番組だったこともあり、今思い返すとめちゃめちゃ豪華でした。
まず本家『仮面ライダー』でおやっさんこと立花藤兵衛を演じていた小林昭二がレギュラー出演。ナレーターも中江真司が起用されました。悪の軍団「ジョッカー」の幹部「ファンファン大佐」を演じるのは岡田眞澄で、小林昭二と同じくレギュラーでした。ゲストも死ぬほど豪華で、特に終盤はマンネリ打破(とプロモーション)で毒蝮三太夫嶋田久作田中好子等々が出演していました。
毎回登場するラッコ男、カルガモ男といった「怪人」たちはきちんと着ぐるみを作製し、戦闘シーンはきちんと岩船山でロケしています。ジョッカー戦闘員を演じるのは倉田保昭が創設した倉田プロモーションのスタントマンたちで、当時所属していた坂本浩一ジョッカー戦闘員として出演した経験があるそうです。これを週一回、毎回怪人を変えて必ず放送していたのは、当時のとんねるずの仕事量を考えなくても凄いことです。
また、爆発にはちゃんと火薬・爆薬を使っていました。当時は『ジュラシック・パーク』(1993)でCG活用が一般化する前だったので当たり前といえば当たり前ですが、『みなさんのおかげです』や『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』といった当時の先進的バラエティー番組は競い合うように大量の火薬・爆薬を使っており、結構なトラブルになっていたのです。今のテレビしか知らない人にとっては、想像もできないことかもしれません。
当時のとんねるずがテレビにおける大スターだったこと、大人も子供も観やすいパロディだったこともあり、『仮面ノリダー』は大人気になりました。
ただこの『仮面ノリダー』、東映にも石森プロにも許可をとらなかった「無断パロディ」であることは有名な話です。特に同時に放送していた『仮面ライダーBLACK』のスタッフは『仮面ノリダー』を意識しまくり、撮影現場では「ノリダー」という言葉は禁句、プロデューサーは倉田てつをの『仮面ノリダー』出演を許可しませんでした
当時の東映はフジテレビに正式に抗議を行い(特に主題歌のパロディは見過ごせないはずなので当然です)、作品のソフト化は禁じられたそうです。
若オタだった当時の自分も、パロディのくせに正統ライダーである『BLACK』の100倍くらい人気も知名度もある『仮面ノリダー』のことを快く思っていませんでした。それでも観ていたのは、当時のとんねるずと『みなさんのおかげです』がそれだけのパワーを持っていたということなのですが、当時は気づきませんでした。
『みなさんのおかげです』はこれ以外にも「富士山麓の天然記念物が生息する氷穴で発泡スチロール製の石を爆破し、破片を片付けなかった事件」「木梨憲武追悼コントで抗議殺到事件」「「帰りなおばちゃん」セクハラ訴訟」と様々なトラブルが起こっていたのですが、今考えればそれらの源となるチャレンジを許しリスクを許容していた当時のフジテレビが持っていたパワーだったのだなと思います。
しかし「無断パロディ」であったこと、版権問題があったことから、『仮面ノリダー』は現在までソフト化されていません。2007年以降、とんねるずの番組内などで映像が再使用される際は「協力:石森プロ・東映」のクレジットが表示され、2013年には東映が正式に『仮面ノリダー』の商標登録を行いました。後者は東映が無断で『仮面ノリダー』を使わせないためだと言われています。

仮面ノリダー』とメタフィクション

そんなわけで、自分は仮面ライダーでも世界を破滅から救う「王様」でも無かったことに気づいたソウゴを、ノリダーこと木梨猛が隣の牢屋から励ますシーンはメタフィクションとして秀逸です。

「ぶっとばすぞぉ!」
「誰?」
「平成の時代、悪と戦った、改造人間さ……」
仮面ライダー?」
「いや、俺は仮面ライダーと認められなかった、だからずーっとここにいる」
「俺と、同じ」
「……お前と一緒にするな!」
「え……いや、でも、俺はたまたま選ばれた普通の高校生で……」
「それでも、選ばれた……仮面ライダーに選ばれたんだよ、お前は!」
「選ばれなかった……選ばれなかった奴はごちゃまんといる!」
「選ばれた者には、その責任があるんじゃないのか?」
「今平成ライダーを背負っているのは、お前だろう!」

つまりこれは、ヒーローに大切なのは能力や資格ではなく行動ということを、歴史に埋もれたヒーローである仮面ノリダーからジオウへの激励という形で表しているわけです。多くのスーパーヒーローが「ヒーローとしての特別な能力や社会的な資格を失った際にどう行動するか」という話をやっているのと同じです。なぜ歴史に埋もれたかというと、「無断パロディ」を起原とする版権問題があったからなのですが。
しかし、観客の何割にこういったメッセージが正しく伝わったのかというと、そこは定かではありません。『ジオウ』がターゲットとしていた小中学生には全く理解できなかったのかもしれません。付き添いで来ていた親御さんは確実に『仮面ノリダー』のことを覚えていた筈ですが、多くは「無断パロディ」や版権問題について知らなかった筈です。
されどしかし、メタフィクションをやる限り、木梨憲武にオファーを出して快諾された限り、きちんとやる。観客の数割にしか伝わらなくても、作り手の間でこの思いが共有されている限り、その意地や緊張感といったものは伝わるし、それが作品の力になる――というのが、東映の考えなのでしょう。

チャニング・テイタム版『ガンビット』とメタフィクション

同じことが『デッドプールウルヴァリン』における数々のカメオ出演者たちにもいえます。
デッドプールウルヴァリン』には沢山のカメオ出演者たちが出てきます。そのほとんどは『X-MEN』シリーズや『エレクトラ』、『ファンタスティック・フォー』といった20世紀フォックスが製作していたマーベル映画に出ていたキャラクターを演じています。や、『ブレイド』のみニュー・ライン・シネマ製作であること、コンセプト段階では計画されていたベンアフ版デアデビルやニコケイ版ゴーストライダー(コロンビア製作)が出演していないことを考え合わせると、MCUに合流できなかったマーベル映画の中でライアン・レイノルズショーン・レヴィと関係性のある役者が出演した映画、といって良いかもしれません。
中でもチャニング・テイタムが演じたガンビットの出演には驚かされました。
チャニング・テイタムは長年、自身を単独主演とする『ガンビット』の映画化を熱望していました。自身がプロデューサーの一人を務め、2015年のサンディエゴ・コミコンで大々的に製作発表しました。しかし監督を予定していたルパート・ワイアットが降板、その後を引き継ぐと報道されたダグ・リーマンゴア・ヴァービンスキーも降板、業を煮やしたチャニング・テイタム自身が脚本を書きつつ監督もするという話もあったのですが、2019年に20世紀FOXがディズニーに買収された際、企画自体がキャンセルされてしまったのです。長年入れ込んだ企画が亡くなったショックから、「トラウマになった、マーベル映画が観られない」とチャニング・テイタムはコメントしています。
ガンビットというキャラクターに、なぜそこまでチャニング・テイタムが入れ込んでいたかについてははっきりしません。
アラバマ州ミシシッピ州で育ったチャニング・テイタムにとって、ルイジアナ州ケイジャンのスーパーヒーローという背景に思い入れがあるのかもしれません。『デッドプールウルヴァリン』での誇張したケイジャン・フレンチ訛りの英語には、爆笑してしまいました。
2015年のコミコンで同時に製作発表した他の4つの映画――『LOGAN/ローガン』『デッドプール』『X-MEN:アポカリプス』『ファンタスティック・フォー』は、その後の評価はどうあれ、しっかりと製作され公開されています。「おれの映画だけ上手くいかなかった」という負い目や烙印のようなものがあるのかもしれません。
ともかく、『デッドプールウルヴァリン』で、チャニング・テイタムが演じたガンビットの「俺はここ(虚無)で生まれた気がする」という台詞には、こういった背景があるのでした。
しかしこれも、『仮面ノリダー』と同じく、観客の何割にこういったメッセージが正しく伝わったのかは定かではありません。されどしかし、FOXのヒーローたちをメタ的に救うのがテーマならば、ちゃんとやる。2015年のコミコンでの発表時、同じステージにライアン・レイノルズヒュー・ジャックマンもいたのが前フリになるし、思いが共有されている。その意地や緊張感といったものは伝わるし、それが作品の力になる。『Over Quartzer』をパクろう……と思ったのではないと思いますし、そもそもライアン・レイノルズショーン・レヴィも日本の特撮なんて観てないと思いますが、『Over Quartzer』の作り手たちと同じように考えたのではないでしょうか。
本作が「MCUを救う」かどうかはちょっとよく分かりませんが、ディズニーによる20世紀FOX買収(と仕切り直し)により失われたヒーローコンテンツに哀悼を捧げたい、という気持ちは伝わってきました。

世界が楽屋である

現在、『デッドプールウルヴァリン』は世界中で大ヒットしています。特に、マーベル映画が全て公開されておらず、アメコミ映画の文脈を把握するのが難しい中国でもヒットしていることは驚きです。観客の大半がメタ的な意味をなんとなくのレベルでしか知らないのにヒットしているのは、やはり作り手の意地や緊張感のようなものが伝わっているからではないでしょうか。
町山さんとのYoutubeライブではジェームズ・ガン作品との類似――「一度負けた人たちが疑似家族を作って再挑戦する」という構造が話題になりました。どちらも作り手が本当に経験したことを背景にしているからこそ、作品に力が宿るのでしょう。


その昔、たしか80年代だったと思うのですが、吾妻ひでおいしかわじゅんとり・みき江口寿史といった漫画家たちが楽屋オチ――身内の編集者や漫画家の友人を作品に出しまくったり、身内にしか理解できないネタを作品内で大量に使い始めた時期がありました。しかもその楽屋オチを、読者にきちんと伝わるかどうか関係なく入れていくのです。当時、楽屋オチは読者を狭めてしまうという理由で批判の対象となっていました。
しかしこの批判に対し「世界が大きな楽屋である」という屁理屈的な理由から、楽屋オチをやり続ける猛者たちがいたわけです。要は、読者を楽屋に引き込むほど魅力的な作品であれば、楽屋オチであろうとなかろうと関係ないということなのですが、このムーブメントがある程度受容されたからこそ、その後のエッセイ漫画や漫画家漫画のブームとジャンル化があるのではないかと思います。


アベンジャーズ/エンドゲーム』の世界興行収入は約3000億円、観客動員数は約2億人といわれています。単純計算で世界人口の約2.5%、繰り返し鑑賞を差し引いても約2%がMCU潜在的顧客といって良いでしょう。
世界人口の約2%が含まれる楽屋でのメタフィクション、それが『デッドプールウルヴァリン』なのではないかと思います。

『T・Pぼん』とF作品の魅力とは

先日の放送「『T・Pぼん』と藤子・F・不二雄コンテンツの現在」は如何だったでしょうか?

放送で触れた『T・Pぼん』とF作品の魅力について、改めて文章でまとめることにします。

ネトフリ版『T・Pぼん

Netflixで二度目のアニメ版『T・Pぼん』がシーズン2まで配信されましたが、いや良いですね良いですね。
何が良いかって、まず安川ユミ子が可愛くなっているのが良いですね。
原作での第一部、アニメ版ではシーズン1でぼんとコンビを組む先輩タイムパトロール、リーム・ストリームはF作品の中でも一、二を争う人気のヒロインで、自分も大好きでした。放送の中でも言及しましたが、「バカンスは恐竜に乗って」と「超空間の漂流者」で、同じシチュエーションなのに意味合いが変わることにドキドキしました。藤子・F・不二雄には「人類絶滅を前に美少女が裸になりがち」という性癖があると思うのですが、それを別にしても絶対この二人はヤってるね!

シーズン2の配信に合わせて「Fライフ増刊 T・P本 アニメ「T・Pぼん」と藤子・F・不二雄の世界」というムック本が発売されたのですが、スタッフの間ではリームが大人気で、特にメインライターの佐藤大は、打合せで「初恋の人」と表現したらシリーズ構成の柿原優子に「ずいぶんいじられました」、とインタビューで答えていたのには噴き出してしまいました。皆、「年下の先輩」なリームが大好きなんだなあ。


一方で、第二部から登場するユミ子は、藤子ヒロインとしては普通というか、優等生で正義感が強くてそれ故にピンチに陥ることもあるのだけれど、他のF作品に出てくるヒロイン的女性キャラと比べて違いを見出し難いという意味で平凡なキャラクターでした。
これがアニメだと、学校では美少女扱いされていて(原作とは違い主人公ぼんと同じ学校、同学年で他のクラスという設定になっています)、自分でもそのように扱われていることは自覚しているのだけれど、そのような扱いに飽き飽きしていて棚ボタ的に転がり込んだタイムパトロールの仕事にわくわくしている――というような内面を持っていることがより明確に描写されるのです。これが可愛い。アニメの向こうに人間臭い魅力があるわけです。
演じる黒沢ともよが上手いのもあるのですが、明らかに脚本・コンテ段階からの演出です。ムック本のインタビューでは、柿原優子が「世の男性はリームがスペシャルな存在だと実感」「女性としてはユミちゃんの魅力を推していかなければ!」「リームという華やかなキャラの対向にいるユミちゃんに肩入れしました」と答えていて、頷いてしまいました。


シーズン2の最終2エピソードはオリジナルで、ぼんを含めたこの3人が活躍するのは最高でした。原作漫画の第2部で、過去のリームとぼんとの活動をぼんとユミ子が目撃するシーンがあるのですが、Fがいつか描こうと思うもついに描けなかった最終回は、これを伏線として3人が活躍するものだったのかもしれません。

F作品における視点・価値観の対立

ネトフリ版『T・Pぼん』のもう一つの良いところ、というか一番大事なところですが、歴史や人類についての視点や価値観を、原作漫画のみならずF作品全般から受け継いでいるのが良いと思うのですよ。
ぼんやユミ子は、タイムパトロールとしての任務――過去に不幸な死を遂げた者の中で、生存させても歴史の流れに影響しない者を助ける――の最中、人間の残酷な行いを目にします。魔女狩り、拷問、戦争、生贄、暗殺、差別、奴隷制度……しかもそれらのほとんど(事故や通り魔殺人等を除いて)は、単に個人としての人間が残酷なのではなく、その時々の社会背景――人間の営みが生み出した残酷さです。人間の営みが歴史――人類史を作ります。故にタイムパトロールになりたてのぼんが「戦場の美少女」で主張するように「誰も彼も助ければ良い」というわけにはいきません。作品内では「歴史の流れを変えてはいけない」というタイムパトロールの掟に背くことになりますし、作品としては人類史を否定することになるからです。人の性は悪なり。


ただ、人類全体としては悪で残酷であっても、人間個人としては違います。
ぼん達が過去世界でドジを踏み、行き詰ってしまった時、かなりの確率で助けてくれる人たちがいます。なによりも、お互いを助け合うタイムパトロール――目の前にいるリームやユミ子は好人物でしかないし、「歴史の大きな流れに影響を与えない範囲で人命を救う」タイムパトロールという組織自体が人の善性から設立されたとしか思えません。「奴隷狩り」でぼんが言ったように「人類の歴史は少しずつだけどいい方向に向かっている」のであり、少なくともこの漫画の読者である少年少女たちにはその心持ちでいて欲しい――とFは考えているのです。人の性は悪、其の善あるものは偽なり。


これらは幾つかの価値観の対立を表しています。

  • 冷徹な論理性と、どこかほっとする怠け癖や見落としからくるドジさといった人間性の対立
  • 人類は愚かであり歴史(人類史)は残酷の集大成であるというマクロな視点からみた絶望と、個人としての人間の中には良い人もいるというミクロな視点から見た希望との対立
  • 残酷な利己性と、他人を救おうとする利他性という人間性の側面同士の対立
  • 論理あるいは(時空含めた)自然と人間性ヒューマニズム)の対立

……等々
これらの対立はF作品の多くに共通するテーマです。のび太出木杉のび太としずか、魔美と高畑くん、パーマン1号・2号と4号・バードマン……こういった立場や価値観がことなる二人の間での対立と対話で話を進め、四畳半からは馴染まった話が人類や人類史、「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」に至るのがFのスコシフシギの醍醐味といえるでしょう。
また、「冷徹な論理性」「マクロな視点」で話を始め、別の視点があることが提示される……というのが『征地球論』『ウルトラスーパーデラックスマン』『宇宙船『老年期の終り』等々のSF短編なのではないでしょうか。『モジャ公』『流血鬼』『絶滅の島』等々、完全に絶望と諦念が開き直った作品もありますが。


もう一つ、見逃せないのはぼんの成長です。ぼんは自身が正隊員になりユミ子が相棒になってからも(話の都合上)ドジを踏み続けますが、ぼんの歴史観は成長していきます。第一部では人類の残酷さを目にして憤っていたぼんですが、第二部ではユミ子にタイムパトロールの掟の大事さを教える立場になります。歴史を積み重ねたブロックに喩えたり、戦争を「歴史の上で避けられないもの」として諦観めいた立場をとるのです。「シュメールの少年」で救助対象の一族が戦争の準備に間に合うのをハッピーエンドと捉えたり、「武蔵野の先人たち」で実は隣国のスパイだったヤタヒコを救わなくても代わりの人間が送られてきて、戦争が起こるという歴史の流れは変えられないのだという台詞など、第一部と同じキャラクターとは思えないほどです。きっと、歴史の中で沢山の人間の生死をみて、自身も生死を潜り抜けた経験(何度か実際に死んでいます)が、ぼんを変えたのです。ヒューマニズム人間性)とはエゴイズムであるという諦念に行きついたのかもしれません。話の都合上、Fの諦念がダダ洩れになっているともいえますが。

T・Pぼん』と『大長編ドラえもん』の関係性

そのようにF作品の魅力が詰まった『T・Pぼん』ですが、Fの作家史を考えると、一つの岐路に居合わせた作品と言えるのではないかと思います。Fの人生を変えた『大長編ドラえもん』と深い関係性がある、というか『大長編ドラえもん』の発想の原典となった作品だと思うのです。
T・Pぼん』の第1部は1978年7月~翌79年8月まで、雑誌「少年ワールド」に連載されました。完全月イチ掲載、約一年間の連載です。
その後、ぼんが正隊員となりユミ子とコンビを組む第2部と第3部は「少年ワールド」を引き継ぐ形で相関された「コミックトム」に1980年4月から83年5月まで不定期連載されました。
この間、Fは何をやっていたのかというと、SF短編や『エスパー魔美』(1979年5月~)を書きつつ、コロコロで大長編版『のび太の恐竜』を連載(1979年12月~1980年2月)していたのでした。


そう考えると、「バカンスは恐竜に乗って」で描かれた1億9000年前の一泊二日の旅や時間犯罪者、「超空間の漂流者」で描かれたタイムマシンが壊れた時の頼りなさ、などが、『のび太の恐竜』に直接的な影響を与えている、というか同時期にFの頭の中から出てきた発想であるのが分かります。「戦場の美少女」の沖縄近海での空戦シーン等、ここぞという時に見開きで描かれる大スペクタクルシーンはプテラノドンの谷を抜けるシーン等で引用していますね。
T・Pぼん』でシリーズ作として描かれ、『のび太の恐竜』で手ごたえを得た「異世界での冒険と(それなりの)成長」というFらしい教養小説的冒険譚が、この後『宇宙開拓史』『魔界大冒険』と続いていく『大長編ドラえもん』の基礎となったが、同時にFの作家としての命運も決まってゆくのであった……という文章を書こうとしたら、先のムックで瀬名秀明がしっかりそのようなコラムとしてまとめていたので、この辺で辞めておきます。

今後の放送予定

ニコニコがダウン中の6、7月中はYoutubeで全編無料配信していましたが、8月中も復旧するまでは同様の対応となります。ニコ生が復旧しましたらアーカイブとして後半を有料配信する予定です。この機会に是非御覧下さい。


8月4日(日)13時~ 町山智浩とマクガイヤーの『デッドプールウルヴァリン』公開記念放送


7/24より映画『デッドプールウルヴァリン』が公開されます。映画『デッドプール』シリーズの第3弾であり、20世紀フォックスの『X-MEN』シリーズとMCUが本格的に合流する作品であり、「MCUの歴史を変える」映画になるそうです。
そこで、8/2(土)21時より、映画評論家の町山智浩さんと一緒に『デッドプールウルヴァリン』を中心に、デッドプールX-MENライアン・レイノルズショーン・レヴィ等々について語り合う予定です。
日時が変更となりました。いつもより早い放送となりますのでご注意下さい。

8月4日(日)19時~ 「『キン肉マン 完璧超人始祖編』と21世紀の『キン肉マン』」

アニメ『キン肉マン 完璧超人始祖編』が7月より放送されます。『キン肉マン』三度目のアニメ化であり、2011年より『週プレNEWS』で24年ぶりに連載された続編シリーズ『完璧超人始祖編』の映像化になります。
この『完璧超人始祖編』、第二世代を描いた『キン肉マンII世』の連載を終了させてまで始めたオリジナル『キン肉マン』の直接的続編であり、旧シリーズで登場した数々のキャラクター達が再度活躍しつつ新たな関係性を結び、見事に伏線を回収する、『キン肉マン』シリーズ最高傑作と呼ばれるエピソードです。近年、ジャンプ黄金期作品の映像化が続きましたが、本作にはいやが応にも期待してしまいます。
そこで『完璧超人始祖編』と『キン肉マン』という作品全体について解説するような放送を行います。
ゲストとして漫画家・イラストレーターの森本がーにゃさんをお迎えしてお送り致します。

8月19日(月)19時~ 「最近のマクガイヤー 2024年8月号」

お題

  • 時事ネタ
  • ゼーガペインSTA』
  • 『フォールガイ』
  • 『映画クレヨンしんちゃん オラたちの恐竜日記』
  • 『うんこと死体の復権
  • 『マミー』
  • 『Chime』
  • 僕のヒーローアカデミア THE MOVIE ユアネクスト』
  • 『ツイスターズ』
  • インサイド・ヘッド2』
  • 『カミノフデ 怪獣たちのいる島』
  • 仮面ライダーガッチャード ザ・フューチャー・デイブレイク』
  • 『ひどくくすんだ赤』
  • 『爆上戦隊ブンブンジャー 劇場BOON! プロミス・ザ・サーキット』
  • 『化け猫あんずちゃん』
  • 『メイ・ディセンバー ゆれる真実』
  • 『密輸 1970』
  • 『フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン』
  • 『エンドレス・サマー』

その他、いつも通り最近面白かった映画や漫画について、まったりとひとり喋りでお送りします。

9月16日(月)19時~ 「『エイリアン:ロムルス』とエイリアンと人間のサーガ」

映画『エイリアン:ロムルス』が9月6日より公開されます。『ドント・ブリーズ』のフェデ・アルバレスが監督・脚本・製作総指揮を務め、オリジネイターであるリドリー・スコットは製作のみ務めています。
『エイリアン』シリーズのスピンオフ映画であり、『エイリアン』と『エイリアン2』の間の時代を舞台としているそうです。タイトルの「ロムルス」は、狼に育てられローマを建国した伝説上の双子「ロムルスとレムス」のロムルスを意味していると思われ、『プロメテウス』や『コヴェナント』と同じく人類創生とエイリアンとの関りが描かれる可能性が高いです。
ドント・ブリーズ』や『プロメテウス』が傑作だったこと、『コヴェナント』がシリーズの新生を図っていたもあり、期待してしまいます。
そこで『エイリアン:ロムルス』とエイリアンシリーズ全体について解説するような放送を行います。
ゲストとして友人の編集者 しまさんをお迎えしてお送り致します。

9月29日(日)19時~ 「最近のマクガイヤー 2024年9月号」

詳細未定
いつも通り最近面白かった映画や漫画について、まったりとひとり喋りでお送りします。

藤子不二雄Ⓐ、藤子・F・不二雄の作品評論・解説本の通販をしています

当ブロマガの連載をまとめた藤子不二雄Ⓐ作品評論・解説本『本当はFより面白い藤子不二雄Ⓐの話~~童貞と変身と文学青年~~』の通販をしております。
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また、売り切れになっていた『大長編ドラえもん』解説本『大長編ドラえもん徹底解説〜科学と冒険小説と創世記からよむ藤子・F・不二雄〜』ですが、この度電子書籍としてpdfファイルを販売することになりました。
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合わせてお楽しみ下さい。


番組オリジナルグッズも引き続き販売中です。

マクガイヤーチャンネル物販部 : https://clubt.jp/shop/S0000051529.html

今後の放送予定

ニコニコがダウン中の6、7月中はYoutubeで全編無料配信することになりました。ニコ生が復旧しましたらアーカイブとして後半を有料配信する予定です。この機会に是非御覧下さい。


7月22日(月)19時~ 「『T・Pぼん』と藤子・F・不二雄コンテンツの現在」


Netflix藤子・F・不二雄の『T・Pぼん』がアニメ化されました。1989年に2時間枠のテレビ特別番組として一度アニメ化されていますが、今回は2シーズンのレギュラーシリーズです。シーズン1として5月2日に 話分が既に配信されており、7月17日にはシーズン2が配信されるそうです。
Fの新作アニメは2003年の『パーマン』第3作以来21年ぶり、レギュラーシリーズのアニメが新たに制作されるのは1995年の『モジャ公』以来29年ぶりです。驚くべきはそのクオリティで、なんと年齢制限は齢制限16+。よくSNSで拷問シーンが話題に上る「魔女狩り」の回も太平洋戦争を題材とした「戦場の美少女」の回もしっかりと映像化しており、作った側の覚悟が伺えます。今回の映像化は配信でなければ不可能だったでしょう。
藤子・F・不二雄作品のアニメといえば、毎年春に上映される『映画ドラえもん』のことが思い浮かぶわけですが、ある意味で好対照なアニメ化です。一方で脚本は幾つかの『映画ドラえもん』とテレビレギュラーシリーズの『ドラえもん』に関わった佐藤大が担当しており、アニメの『ドラえもん』でやれなかったことをやろうという意気込みさえ感じてしまいます。
そこで『T・Pぼん』と藤子・F・不二雄コンテンツの現在について解説するような放送を行います。
ゲストとして映画・音楽ライターの竹島ルイさんをお迎えしてお送り致します。

8月2日(土)19時~ 町山智浩とマクガイヤーの『デッドプールウルヴァリン』公開記念放送


7/24より映画『デッドプールウルヴァリン』が公開されます。映画『デッドプール』シリーズの第3弾であり、20世紀フォックスの『X-MEN』シリーズとMCUが本格的に合流する作品であり、「MCUの歴史を変える」映画になるそうです。
そこで、8/2(土)21時より、映画評論家の町山智浩さんと一緒に『デッドプールウルヴァリン』を中心に、デッドプールX-MENライアン・レイノルズショーン・レヴィ等々について語り合う予定です。
開始時間がいつもより遅くなりますのでご注意下さい。


8月4日(日)19時~ 「『キン肉マン 完璧超人始祖編』と21世紀の『キン肉マン』」

アニメ『キン肉マン 完璧超人始祖編』が7月より放送されます。『キン肉マン』三度目のアニメ化であり、2011年より『週プレNEWS』で24年ぶりに連載された続編シリーズ『完璧超人始祖編』の映像化になります。
この『完璧超人始祖編』、第二世代を描いた『キン肉マンII世』の連載を終了させてまで始めたオリジナル『キン肉マン』の直接的続編であり、旧シリーズで登場した数々のキャラクター達が再度活躍しつつ新たな関係性を結び、見事に伏線を回収する、『キン肉マン』シリーズ最高傑作と呼ばれるエピソードです。近年、ジャンプ黄金期作品の映像化が続きましたが、本作にはいやが応にも期待してしまいます。
そこで『完璧超人始祖編』と『キン肉マン』という作品全体について解説するような放送を行います。
ゲストとして漫画家・イラストレーターの森本がーにゃさんをお迎えしてお送り致します。

8月19日(月)19時~ 「最近のマクガイヤー 2024年8月号」

お題

  • 時事ネタ
  • ゼーガペインSTA』
  • 『フォールガイ』
  • 『映画クレヨンしんちゃん オラたちの恐竜日記』
  • 『うんこと死体の復権
  • 『マミー』
  • 『Chime』
  • 僕のヒーローアカデミア THE MOVIE ユアネクスト』
  • 『ツイスターズ』
  • インサイド・ヘッド2』
  • 『カミノフデ 怪獣たちのいる島』
  • 仮面ライダーガッチャード ザ・フューチャー・デイブレイク』
  • 『ひどくくすんだ赤』
  • 『爆上戦隊ブンブンジャー 劇場BOON! プロミス・ザ・サーキット』
  • 『化け猫あんずちゃん』
  • 『メイ・ディセンバー ゆれる真実』
  • 『密輸 1970』
  • 『フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン』
  • 『エンドレス・サマー』

その他、いつも通り最近面白かった映画や漫画について、まったりとひとり喋りでお送りします。

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『ばいきんまんとえほんのルルン』と『フェラーリ』:ものづくりと男らしさの暗黒面

 『それいけ!アンパンマン ばいきんまんとえほんのルルン』と『フェラーリ』を観たのですが、意外なことに共通点の多い映画でした。一方で、明確に異なる点もありました。

コンテンツとしての『アンパンマン

 SNS等でやけに評判が良かったので、映画『それいけ!アンパンマン ばいきんまんとえほんのルルン』を観に行ったのですよ。


 子供が小さい頃、過去の映画『アンパンマン』の中で名作とされるものを順繰りに観ていくということをしたことがあります。中でも『いのちの星のドーリィ』はマジで名作でした。

人生なんて夢だけど:それいけ!アンパンマン いのちの星のドーリィ』 - 冒険野郎マクガイヤー
 ただ、何作も観ていくと、フォーマットがあることに気づきました。アンパンマンが初出演のゲストキャラクター(大抵その数年前に子供が生まれ、ママタレやパパタレになった芸能人が務めます)と出会います。アンパンマンではなくゲストキャラクターが悩み、成長し、一緒に悪役(ばいきんまんでないこともあります)を倒す――というのが大まかなフォーマット、というかテンプレートです。
「このフォーマット内で自由にやってくれ」というのが制作会社からクリエイターへの要望だと思うのですが、それにしてはよく35作も続いたものですし、「アンパンマンが死ぬ」という禁じ手を使った『いのちの星のドーリィ』はよくやったものです。ただ、この「アンパンマンが死ぬ(くらいの大ピンチに陥る)は別のテンプレートとなり、繰り返されることになりました。
 こういったフォーマットやテンプレートの確率は、『アンパンマン』という一定の世代しか視聴せず、絶えず「お客さん」が入れ替わるコンテンツの場合、悪いことではありません。大人になってもお客さんが入れ替わらずに鑑賞し続ける『コナン』や『ドラえもん』の方がコンテンツとしておかしいのです(かつては映画『ドラえもん』も『アンパンマン』と同じように観客の入れ替わりを想定していました)。

ばいきんまんとえほんのルルン』

 しかし、作り手はそのように考えなかったのでしょう。コンテンツ――商品としては良いかもしれないが、作品としてはどうなのか。少なくともおれたちは同じものを作るのに飽きてしまった――そう考えたとしても不思議ではありません。
 『ばいきんまんとえほんのルルン』の監督・脚本を務めるのは川越淳米村正二です。米村正二が映画『アンパンマン』の脚本を書くのはなんと17回目になります。川越淳は、監督作としてみれば6回目ですが、原画や絵コンテ、演出といった形で米村正二以上の関りがあります。更に、川越には『ゲッターロボ』のOVA、米村には『仮面ライダーカブト』や『スマイルプリキュア!』といったフランチャイズの中での代表作が既にあります。比較的、職人としての仕事に徹したきたといって良いでしょう。

 そんな彼らが今回作った『ばいきんまんとえほんのルルン』は、なんとばいきんまんを主人公として、ばいきんまんのエンジニアとしてのチャレンジ魂にフィーチャーした話でした。


 絵本の中に吸い込まれるという形で異世界転移したばいきんまん。そこはなんでも吸い込む巨大象型モンスター「すいとるゾウ」が大暴れし、豊かな森ははげ山となり、森に住む妖精たちが滅亡寸前となっている世界でした。
 この世界にアンパンマンはいません。すいとるゾウさえ倒せば自分の天下だと考えたばいきんまんは、ばいきんまんを「愛と勇気の戦士」と呼んで助けを求めるルルンに応じるのでした。

バイキン星人の限りなきチャレンジ魂

 ただし、この世界にばいきんまんが作ったバイキンメカはありません。手足となって働いてくれるかびるんるん達もいません。かといって、生身の身体ではすいとるゾウに敵いません。
 ではどうするか。この世界を探索し、古い城をみつけたばいきんまんは、城のドアや金具を外します。どこからか手に入れた炭を使って高熱を産み出し、溶かした鉄を砂型に入れて斧やカンナの刃先を鋳造するのです……『鉄腕DASH』ばりのリサイクルです。
 そして、斧やカンナで伐採した木を製材し(研ぐのが大変だと思うのですが、描かれません。多分、夜なべして刃を研いだのだと思います)、木製のバイキンメカ「ウッドだだんだん」を製作するばいきんまん。いつもは鋼鉄製のロボット「だだんだん」の木製バージョンです。
 しかしこの世界にはクレーンもダンプもバイキンUFOも無いので大変です。特に、ばいきんまんを手伝うルルンは慣れない作業にへこたれそうになります。材木の下敷きになったルルンは音を上げ、諦めそうになりますが、ばいきんまんは決して諦めません。「どんなに(アンパンマン)にやられても、決して諦めないのがおれ様なのだ」と、ウッドだだんだんを製作する手を止めません。
 エンジニア、職人、研究者、なにがしかのクリエイター……どんな職でも良いのですが、ものづくりに携わっている人、携わっていた経験のある人は、ばいきんまんの決して諦めない姿に感銘を覚えるのではないでしょうか。
 ものづくりは程度の差こそあれ、失敗の連続です。失敗をしなければ新しいものは生み出せませんし、既知の技術であっても失敗を織り込んだ検討をしなければ新しい事例に応用できません。その間に、資金や時間や気力の面で諦めてしまう者や場合がある……ということを、ものづくりに携わっていた経験のある人は知っている筈です。
 そして、そういう人が幼い子供の付き添いで「子供が好きなんだから仕方ねぇかー」と軽い気持ちで本作を観ると、うっかり感じ入ってしまい、泣いてしまうこともあるのかもしれません。
 そういえば『スマイルプリキュア!』ではマンガ家を目指す黄瀬やよいプリキュアに変身して敵を倒した後も漫画原稿を描かなければならない回(41話「私がマンガ家!? やよいがえがく将来の夢!!」を思い出したりもしました(この回の脚本は米村正二ではなく小林雄次でしたが)。


 ただ、本作は最終的に映画『アンパンマン』のフォーマットを破るものではありません。(映画の後半になるものの)アンパンマンが登場し、ルルンが感銘を受ける言葉を伝え、最後はアンパンマンや仲間たちの力も使って悪役を倒します。『ゲッターロボOVAシリーズにおける巨大ロボ戦のような、ウッドだだんだんとすいとるゾウの攻防戦の方が魅力的に映る人もいるかもしれません。

フェラーリ

 一方、『フェラーリ』は誰もが知ってるイタリアの自動車メーカー「フェラーリ」社の創業者、エンツォ・フェラーリの伝記映画です。
 マイケル・マンは2019年に『フォードvsフェラーリ』の製作総指揮を務めました。また出世作であるテレビドラマ『特捜刑事マイアミ・バイス』では、主人公のソニークロケットフェラーリを愛用していたのは有名です。

 てっきり、エンツォが階級社会であるイタリアでフェラーリ社を創業して成り上がってゆく話で、その合間に『フォードvsフェラーリ』のような大興奮のレースシーンが挟まる映画かと思いきや、全然違いました。フェラーリ社が大ピンチに陥っていた1957年を舞台に、ものづくりの暗黒面を描く映画だったのです。


 映画の冒頭、起床したエンツォは、愛する妻や息子を起こさないようにそっと家を抜け出てクルマに乗り込みます。まずニュートラルでクルマを転がし、ある程度家から離れてからエンジンをかけるという気づかいさえみせます。
 エンツォがクルマで向かった先はより大きな豪邸で、ペネロペ・クルス演じる裕福そうな女性が不機嫌そうな顔をしています。
 「あんたがどこの売春婦と寝ようが関係ない。でも朝のコーヒーを飲む前に帰る約束よ」と怒りの声で言い放ち、拳銃(!)まで撃ってくるのです。つまり、先ほどエンツォが起床した家は愛人(リナ)の家で、銃を向けて激怒していた方が本妻(ラウラ)だったのです。
 エンツォとラウラの一人息子であるディーノは一年前に無くなり、このことが夫婦仲が冷え切った主な原因であることが分かります。ラウラは姑アダルジーサから「フェラーリ家の長男は代々早死にする」「何故二人産まなかったのか」と家父長制に基づくプレッシャーを受けます。ただ、愛人リナとの息子ピエロは12歳なので、ディーノが亡くなった寂しさでリナと付き合ったわけではありません。エンツォはおそらく、当時のイタリアの裕福な会社社長がそうするように、愛人が欲しくて作ったのです。しかし本作では何故かエンツォとリナのセックスは描かれず、喧嘩の後のエンツォとラウラのセックスのみ描かれ、一言では言えない複雑な関係性であることが示されます。
 そんな崩壊寸前な家族も、日曜礼拝には全員参加し、家族が集合します。イタリアはカトリックの国だからです。神父は説教で「もしキリストがこのモデナに生まれていたら板金工になっていただろう」なんてことを言います。彼らが住むモデナは古くから板金の町であり(エンツォの父も板金工であり工場を運営していました)、転じて自動車産業が発達しました。マセラティやパガーニもモデナに本社があります。
 つまり(少なくともその時期の)モデナは、ものづくりと生活(食事・宗教・セックス)が一体化した街なのです。工場で飯を食べながら仕事の打ち合わせをし、愛人の家でエンジンの設計図をチェックし、夫婦関係を利用して(ラウラの実家は資産家)資金を融通して貰います。映画のクライマックスではイタリアを縦断する行動レース「ミッレミリア」が描かれ、多くの家庭では食事しながらレースを観戦します。しかも家父長制に基づいているので、ラウラはおカネを出しているにも関わらず社内で一種の腫れもの扱いです。ペネロペ・クルスは本作で常に顔を歪ませ、周囲の状況に抗おうとしています。
 マイケル・マンはシカゴで産まれ、監督作は一作(ホラー映画の『ザ・キープ』)を除き全てアメリカを舞台とした物語です。そんなマンがわざわざ異国を舞台にした映画を撮った理由は何か。おそらく、エンジニアであり芸術家であり会社組織とレーシングチームを引っ張るリーダーであるエンツォに自分を投影していたのでしょう。そして同時に、ものづくりの街であるモデナにもう一人の自分を置いてみたかったのでしょう。

「モデナの文化に浸りたかった。1957年のモデナにいるとはどういうことか、本物の経験をしたかったのです」
映画レビュー:『フェラーリ』はマイケル・マン監督の“自伝”のようにみえる作品だ | WIRED.jp

……というマンのコメントは本音であると思います。

ものづくりと男らしさの暗黒面

 劇中、エンツォは自動車メーカーの社長としてかなり思い切った台詞を吐きます。


「クルマを売るためにレースをやってるんじゃない。レースをやるためにクルマを売っているんだ」


 多くの自動車メーカーは技術開発やプロモーションのためにレースに参加しています。しかし、そもそもがレーシングドライバーとして自動車業界に参加したエンツォは発想が逆なのです。レーサーとして引退した後に会社を興したのは自分がチームのリーダーとしてレースをやるため、エンジニアやデザイナーやレーサーをヘッドハンティングし、レース車製作を主導していくのも、全てレースをやるため、レースで勝つためです。
 だから多くの自動車メーカーが余力でレースをやる中、エンツォは会社が経営危機に陥っても決してレースを諦めようとしません。『フォードvsフェラーリ』で描かれたように、エンツォが敵チームからもリスペクトされる理由がここにあります。
 エンツォは純粋なエンジニアやデザイナーではありませんが(故に世界中からスタッフを引き抜きます)、レースをやるため、レースで勝つためにレーシングチームを含めた会社を「つくっている」――究極のものづくりをしていると言って良いでしょう。


 しかしそれは、何か一つ間違えたら全てが崩壊する、ギリギリの綱渡りでもあります。また、レースでの勝利や会社経営が「男らしさ」「男のロマン」と結びついている当時のイタリア(だけではありませんが)やモータースポーツ界では、そこから降りたり諦めたりすることは「男」としての敗北を意味します。美しい女優のボディラインよりも優雅な車体と跳ね馬のエンブレムを優先する男としては、絶対に降りられないし、諦められないし、負けられません。ミッレミリアで優勝し、レースでの勝利と経営危機解消を同時に果たすべく、エンツォと彼の手足となるチームは奮闘します。
 エンツォがレースに全てを捧げる一方、ラウラは会社経営のかなりの部分を取り仕切り、銀行や資本家とやりとりする姿が描かれます。彼女が最後にとる行動は、エンツォ目線でみれば驚きですが、「会社を維持して従業員を喰わせる」「亡くなった愛息もエンツォと同じ病に囚われていた」「家父長制社会におけるカネと権力と責任を持った女」という視点で考えると納得するしかありません。


――そして、映画では史実通り悲劇が起きます。史実通り事故が起こり、史実通りドライバーのアルフォンソ・デ・ポルターゴの身体は真っ二つに避け、カメラはじっくりと死体を映します。先ほどまで家族仲良く食事をしながらレースを観戦していた子供たちは事故に巻き込まれます。彼らはもう一人のピエロやディーノであり、もしかすると幼少期の自分だったのかもしれないのです。
 映画では、この事故の責任を問われ起訴されるも、無罪となったことが描かれます。たとえタイヤ交換の指示を出していたとしても、事故は起こっていたことが示されたからです。しかし、そもそもエンツォがレーサーにならなかったら、フェラーリ社を創業しなかったら、ミッレミリアに参加しなかったら……この事故は起こらなかったはずなのです。


「機能が優れたものは、見た目も美しいものなんだ」


 愛人の家でエンジンの設計図をチェックするエンツォは、まだ認知していない息子ピエロにそういいます。このシーンは『風立ちぬ』で主人公が結核の妻の手を握りながら設計図を描くシーンに似ています。妻や愛人や息子と同じくらい、あるいはそれ以上に美しくて魅力的な世界が、設計図が象徴するものの中にあり、諦めなければものづくりを通してその世界にアクセスできるのです。
 しかし、その過程で息子は死に、本妻との仲は冷え切り、いま傍らでいっしょに設計図をみている息子は認知できず、レースでは沢山の人間が無惨に死にました。
 ものづくりと男らしさの暗黒面がここにあります。

 しかもこれは、前述したばいきんまんが決して諦めない姿勢と、表裏一体のものでもあります。
 ドキンちゃんとコキンちゃんが日光浴をしながら人生を楽しみ、ラウラが不機嫌そうに会社経営をしている横で、ばいきんまんやエンツォの心は暗黒の荒野に囚われている……そんな光景を想像してしまうのです。


 まぁ、『ばいきんまんとえほんのルルン』は子供向け、『フェラーリ』は大人向けの映画なので、後者では暗黒面も含めて描いていると言われればそれまでなのですが。

『チャレンジャーズ』:ゲイと腐女子とクィア・ゲイズ

オープンリーゲイと女性三人で作った映画

 北米で大ヒット&批評も良いのに日本では客入りが寂しいまま劇場公開が終わってしまった『チャレンジャーズ』、自分も観たのですがとんでもなく面白い映画でした。あまりルカ・グァダニーノに親しんでこなかった自分ですが、どこかで過去作全部観ないといけないなと感じてしまうくらい面白かったです。
 本作の映像の美しさや、体感的なカット割りや新鮮な構図、EDM主体の下品とポップスレスレの音楽の使い方などは、世間がグァダニーノに求めているものなのではないでしょうか。
 というか、グァダニーノにとってみれば、同じくゲイであり映画界での巨匠であるジェームズ・アイヴォリーが脚本を提供した『君の名前で僕を呼んで』や、同じイタリア人であるダリオ・アルジェント監督作のリメイクである『サスペリア』の方が、より真剣に取り組まざるをえない「勝負作」だったと思うのですよ。本作は、グローバルな映画界で世界的な地位も評価も定まったグァダニーノが、雇われ仕事気分で映像面でも音楽でも良い意味で「遊んだ」結果、傑作が生まれてしまったような気がします(レフンにとっての『ドライヴ』やバーホーベンにとっての『ロボコップ』のようなものでしょうか)。
 また、『チャレンジャーズ』の面白さの何割か、もしかすると半分以上は、主演(の一人)でありつつプロデューサーとしても名を連ねるも務めるゼンデイヤの仕事なのかもしれません。どんなに売れてるハリウッドスターでも、役者業だけでは加齢と共に仕事が無くなります。プロデューサーを兼任して自分の仕事を作っていくのがトム・クルーズに代表される現代ハリウッドスターのあり方ですが、若いうちからセレブとしてのセルフプロデュースを含めて映画製作に積極的に参加していく、エマ・ストーンマーゴット・ロビーシャーリーズ・セロンのような現代ハリウッド女優の仲間入りをしたということなのでしょう。
 もう一つ、本作のプロデューサー陣は上記二人に、『スパイダーマン』でゼンデイヤとつきあいのあるエイミー・パスカルにレイチェル・オコナーを含めた四人になります。オープンリーゲイと女性三人で作った映画なわけです。これが本作の特徴を決定的に表しているといって良いでしょう。

表面的なあらすじ

 天才少女と呼ばれるも、膝の怪我で将来を諦めた女性テニスプレイヤーであるタシ・ダンカン。幼い頃からの親友で、共にプロテニスプレイヤーとなるも仲違いしてしまったパトリックとアート。女一人と男二人の三角関係を、ティーンエイジャーである学生時代から、プロテニスプレイヤーとなるもそれぞれに行き詰まる30代まで、13年にわたって描く――というのが本作の表面的なあらすじです。
 実際は過去から現在まで時系列順に物語が語られるのではなく、「いま」起こっている男二人の宿命的な対決の合間に、過去の回想が入るという『THE FIRST SLAM DUNK』や『オッペンハイマー』のような形式で描かれます。


 面白いのは、「女一人と男二人の三角関係」というのが、単純なものではないことです。





 以下ネタバレ。





 ゼンデイヤ演じるタシ・ダンカンはまず学生時代にジョシュ・オコナー演じるパトリックと付き合います。荒々しいやんちゃ坊主のようなパトリックは何事でも主導権を握りたいタシと喧嘩を繰り返し、大喧嘩の直後、タシはプレイ中に選手生命が終わるほどの怪我をします。テニスはメンタルのスポーツと言われますが、大喧嘩の後の大怪我故に、気まずいまま二人は別れます。
 その後、テニスに関わっていたいタシはマイク・ファイスト演じるアートのコーチになると同時につきあい、結婚し、娘までもうけます。アートは、タシのテニスとプライベート両面でのコーチングによりめきめきと力をつけ、プロテニス界でのトッププレイヤーの一人になるのですが、代わりに自身の人生についての気力を失ってしまいます。「自分で自分の着る服も選べない男」になってしまうのです。テニスも精彩を欠くようになります。
 そこに、プロテニス界でのランキングは下位だけれど最近調子が良い、そして男としても覇気を失っていないパトリックが現れ、ランキング下位選手の登竜門的大会であるチャレンジャーズマッチで対決する――というのが時系列順に並べた際のストーリーになります。これだけ読むと通常の「女一人と男二人の三角関係」に思えるかもしれません。

観た人しか分からないテーマ

 しかし実際に映画を観てみると印象に残るのは、幼馴染であるパトリックとアートの仲の良さなのです。
 学生時代、テニスの大会に参加する二人は同じホテルの部屋に泊まり、パンツ一丁で女の話をします。久しぶりに再会した二人は学食で椅子を引き寄せ(しかも股の間に足を通す!)、異様に顔を近づけてチュロスを食べます。仲違いしてから、試合で顔を合わせた二人は互いに一言も会話しようとしませんが、休憩中は上半身裸になり、相手のことを気にしながらバナナを食べたりします。そんなに細長い食べ物が好きなのでしょうか。


 そんな二人の間に、タシは割って入る形となりますが、彼女にも複雑な内面があります。
 二人が泊まるホテルの部屋を訪問したタシは、二人を同時に誘惑します。ベッドに座り、男二人を両脇に座らせ、三人でキスをするのです。単なるキスではありません。ベロとベロを絡ませる、しかも口内でベロが絡むディープキスとは異なりカメラの前ではっきりみせる――AVでお馴染みのベロチューです。
 三人でのベロチューの最中、男二人は恍惚となり、目を閉じてしまいます。タシはそっと顔を離し、ベッドに倒れこみます。男二人が、男同士で、一心不乱にベロチューしてるのを見上げ、ニヤリと微笑むタシ――本作のあらすじには書かれない、しかし映画を観た観客全員がはっきりと分かるテーマを明示するシーンです。
 もしかするとここで微笑んでいるのは、映画の中の役柄としてのタシでありつつ、プロデューサーでもあるゼンデイヤであり、監督であるルカ・グァダニーノであるのかもしれません。エイミー・パスカルやレイチェル・オコナーの微笑みなのかもしれません。
 アメリカではBLや腐女子のことをYAOIやYAOI Fan girlと呼ぶそうです。ゼンデイヤやエイミー・パスカルがYAOI Fan Ladyかどうかは全く分かりませんが、ゲイと婦女子的ななにかがシンクロした瞬間が、タシが微笑むシーンであったことは間違いありません。

セックスとしてのテニス

 そういえばタシは劇中「テニスとは関係性(relationship)である」という名言を残していました。婦女子は作品世界をキャラとキャラとの関係性の集合体として捉え、直接的なセックスを伴わない愛の形に萌える――いわゆる「関係性萌え」は腐女子文化を代表する価値観ですが、本作のテニスは確かにタシの言う通り「関係性」を萌えあがらせるためのシチュエーションに他なりません(腐女子は観測者である自分が「世界」に影響を与えないよう、関係性の網の中に自分自身を置かないように注意するものですが、メアリー・スーを産み出したアメリカの腐女子――YAOI Fan Ladyはちょっと違うのかもしれません)。
 言い換えれば、本作ではテニスの試合がセックスのメタファーとして描かれます。
 タシもパトリックもアートも、喘ぎ声のような声を出してボールを打ちます。ボールをラケットでとらえようとする身体は美しくくねり、汗が滝のように流れるさまをスローモーションで映し出します。俳優たちの身体性が存分に描かれている――と書けばそれまでかもしれませんが、それにしては裸、とくにパトリックとアートの裸の上半身がやけに画面に映るのです。


 そして本作で描かれるテニスの試合は、男子シングルもしくは女子シングルのみです。男女混合シングルなんて画面にも映りません。つまり、男同士(もしくは女同士)のセックスの隠喩としてのテニスが描かれるのです。

「テニスについてはあまり知らないけれど、人の欲望についてならよく知っている」
「テニスのルールが男女というゲームのルールになる」


 本作についてのグァダニーノのコメントには、膝を打つしかかりません。

ゲイと腐女子クィア・ゲイズ

 試合の最中にBGMとして使用される下品とポップスレスレのEDMは、ある時から試合以外でも鳴り響きます。タシとパトリックの口喧嘩で鳴り響き、パトリックとアートのいがみ合いで鳴り響きます。つまりこのEDMは、愛憎と戦いのテーマだったのです。
 パトリックとアートがサウナで鉢合わせるシーンでも、このEDMは鳴り響きます。それぞれの心のうちにある熱い思いを相手に送り合うのですが、サウナなので裸なこと、汗やら蒸気やらで身体がテカテカヌラヌラしていることから、観ているこちらまで変な気分になってきます。男同士のこの種のシーンは、身体が隠れる風呂ではなく、大胸筋も乳首もハッキリみえるサウナに決まってんだろ! ……というグァダニーノの熱いメッセージが聞こえてきそうです。


 そしてついにチャレンジャーズマッチが最終段階に入り、ゲームの決着が着きそうになります。
 パトリックとアート、どちらが勝利しても三人の仲が上手く収まることは無さそうです。いったいどうなってしまうのか。ハラハラドキドキしながら観ていると……
……ボールが二人のラケットの間を駆け巡り、テニスコートを真下から撮る新たなアングルが示され、ネット真上のボールを打とうと、同時にジャンプした二人が空中で「合体」するかのように大胸筋と大胸筋とでぶつかります。
 なんと、単なるテニスの勝敗を越え、二人の「関係性」が新たな段階に進んだことが示されるのです。
 目の前のテニスの試合だけではなく13年にわたる関係性をみてきたタシならずとも「カモン!」と叫びたくなるというものです。
 メイル・ゲイズともフィメール・ゲイズとも異なるクィア・ゲイズとでも呼ぶべきものが本作にはあり、ノンケで腐女子ではない自分でも、クィアなまなざしが分かったような気になる映画でした。
 この後、アートがパトリックのコーチになり、二人でトッププレイヤーを目指す二次小説とか産まれちゃったりするんだろうなあ。