『それいけ!アンパンマン ばいきんまんとえほんのルルン』と『フェラーリ』を観たのですが、意外なことに共通点の多い映画でした。一方で、明確に異なる点もありました。
コンテンツとしての『アンパンマン』
SNS等でやけに評判が良かったので、映画『それいけ!アンパンマン ばいきんまんとえほんのルルン』を観に行ったのですよ。
子供が小さい頃、過去の映画『アンパンマン』の中で名作とされるものを順繰りに観ていくということをしたことがあります。中でも『いのちの星のドーリィ』はマジで名作でした。
人生なんて夢だけど:それいけ!アンパンマン いのちの星のドーリィ』 - 冒険野郎マクガイヤーただ、何作も観ていくと、フォーマットがあることに気づきました。アンパンマンが初出演のゲストキャラクター(大抵その数年前に子供が生まれ、ママタレやパパタレになった芸能人が務めます)と出会います。アンパンマンではなくゲストキャラクターが悩み、成長し、一緒に悪役(ばいきんまんでないこともあります)を倒す――というのが大まかなフォーマット、というかテンプレートです。
「このフォーマット内で自由にやってくれ」というのが制作会社からクリエイターへの要望だと思うのですが、それにしてはよく35作も続いたものですし、「アンパンマンが死ぬ」という禁じ手を使った『いのちの星のドーリィ』はよくやったものです。ただ、この「アンパンマンが死ぬ(くらいの大ピンチに陥る)は別のテンプレートとなり、繰り返されることになりました。
こういったフォーマットやテンプレートの確率は、『アンパンマン』という一定の世代しか視聴せず、絶えず「お客さん」が入れ替わるコンテンツの場合、悪いことではありません。大人になってもお客さんが入れ替わらずに鑑賞し続ける『コナン』や『ドラえもん』の方がコンテンツとしておかしいのです(かつては映画『ドラえもん』も『アンパンマン』と同じように観客の入れ替わりを想定していました)。
『ばいきんまんとえほんのルルン』
しかし、作り手はそのように考えなかったのでしょう。コンテンツ――商品としては良いかもしれないが、作品としてはどうなのか。少なくともおれたちは同じものを作るのに飽きてしまった――そう考えたとしても不思議ではありません。
『ばいきんまんとえほんのルルン』の監督・脚本を務めるのは川越淳と米村正二です。米村正二が映画『アンパンマン』の脚本を書くのはなんと17回目になります。川越淳は、監督作としてみれば6回目ですが、原画や絵コンテ、演出といった形で米村正二以上の関りがあります。更に、川越には『ゲッターロボ』のOVA、米村には『仮面ライダーカブト』や『スマイルプリキュア!』といったフランチャイズの中での代表作が既にあります。比較的、職人としての仕事に徹したきたといって良いでしょう。
絵本の中に吸い込まれるという形で異世界転移したばいきんまん。そこはなんでも吸い込む巨大象型モンスター「すいとるゾウ」が大暴れし、豊かな森ははげ山となり、森に住む妖精たちが滅亡寸前となっている世界でした。
この世界にアンパンマンはいません。すいとるゾウさえ倒せば自分の天下だと考えたばいきんまんは、ばいきんまんを「愛と勇気の戦士」と呼んで助けを求めるルルンに応じるのでした。
バイキン星人の限りなきチャレンジ魂
ただし、この世界にばいきんまんが作ったバイキンメカはありません。手足となって働いてくれるかびるんるん達もいません。かといって、生身の身体ではすいとるゾウに敵いません。
ではどうするか。この世界を探索し、古い城をみつけたばいきんまんは、城のドアや金具を外します。どこからか手に入れた炭を使って高熱を産み出し、溶かした鉄を砂型に入れて斧やカンナの刃先を鋳造するのです……『鉄腕DASH』ばりのリサイクルです。
そして、斧やカンナで伐採した木を製材し(研ぐのが大変だと思うのですが、描かれません。多分、夜なべして刃を研いだのだと思います)、木製のバイキンメカ「ウッドだだんだん」を製作するばいきんまん。いつもは鋼鉄製のロボット「だだんだん」の木製バージョンです。
しかしこの世界にはクレーンもダンプもバイキンUFOも無いので大変です。特に、ばいきんまんを手伝うルルンは慣れない作業にへこたれそうになります。材木の下敷きになったルルンは音を上げ、諦めそうになりますが、ばいきんまんは決して諦めません。「どんなに(アンパンマン)にやられても、決して諦めないのがおれ様なのだ」と、ウッドだだんだんを製作する手を止めません。
エンジニア、職人、研究者、なにがしかのクリエイター……どんな職でも良いのですが、ものづくりに携わっている人、携わっていた経験のある人は、ばいきんまんの決して諦めない姿に感銘を覚えるのではないでしょうか。
ものづくりは程度の差こそあれ、失敗の連続です。失敗をしなければ新しいものは生み出せませんし、既知の技術であっても失敗を織り込んだ検討をしなければ新しい事例に応用できません。その間に、資金や時間や気力の面で諦めてしまう者や場合がある……ということを、ものづくりに携わっていた経験のある人は知っている筈です。
そして、そういう人が幼い子供の付き添いで「子供が好きなんだから仕方ねぇかー」と軽い気持ちで本作を観ると、うっかり感じ入ってしまい、泣いてしまうこともあるのかもしれません。
そういえば『スマイルプリキュア!』ではマンガ家を目指す黄瀬やよいがプリキュアに変身して敵を倒した後も漫画原稿を描かなければならない回(41話「私がマンガ家!? やよいがえがく将来の夢!!」を思い出したりもしました(この回の脚本は米村正二ではなく小林雄次でしたが)。
ただ、本作は最終的に映画『アンパンマン』のフォーマットを破るものではありません。(映画の後半になるものの)アンパンマンが登場し、ルルンが感銘を受ける言葉を伝え、最後はアンパンマンや仲間たちの力も使って悪役を倒します。『ゲッターロボ』OVAシリーズにおける巨大ロボ戦のような、ウッドだだんだんとすいとるゾウの攻防戦の方が魅力的に映る人もいるかもしれません。
『フェラーリ』
一方、『フェラーリ』は誰もが知ってるイタリアの自動車メーカー「フェラーリ」社の創業者、エンツォ・フェラーリの伝記映画です。
マイケル・マンは2019年に『フォードvsフェラーリ』の製作総指揮を務めました。また出世作であるテレビドラマ『特捜刑事マイアミ・バイス』では、主人公のソニー・クロケットがフェラーリを愛用していたのは有名です。
映画の冒頭、起床したエンツォは、愛する妻や息子を起こさないようにそっと家を抜け出てクルマに乗り込みます。まずニュートラルでクルマを転がし、ある程度家から離れてからエンジンをかけるという気づかいさえみせます。
エンツォがクルマで向かった先はより大きな豪邸で、ペネロペ・クルス演じる裕福そうな女性が不機嫌そうな顔をしています。
「あんたがどこの売春婦と寝ようが関係ない。でも朝のコーヒーを飲む前に帰る約束よ」と怒りの声で言い放ち、拳銃(!)まで撃ってくるのです。つまり、先ほどエンツォが起床した家は愛人(リナ)の家で、銃を向けて激怒していた方が本妻(ラウラ)だったのです。
エンツォとラウラの一人息子であるディーノは一年前に無くなり、このことが夫婦仲が冷え切った主な原因であることが分かります。ラウラは姑アダルジーサから「フェラーリ家の長男は代々早死にする」「何故二人産まなかったのか」と家父長制に基づくプレッシャーを受けます。ただ、愛人リナとの息子ピエロは12歳なので、ディーノが亡くなった寂しさでリナと付き合ったわけではありません。エンツォはおそらく、当時のイタリアの裕福な会社社長がそうするように、愛人が欲しくて作ったのです。しかし本作では何故かエンツォとリナのセックスは描かれず、喧嘩の後のエンツォとラウラのセックスのみ描かれ、一言では言えない複雑な関係性であることが示されます。
そんな崩壊寸前な家族も、日曜礼拝には全員参加し、家族が集合します。イタリアはカトリックの国だからです。神父は説教で「もしキリストがこのモデナに生まれていたら板金工になっていただろう」なんてことを言います。彼らが住むモデナは古くから板金の町であり(エンツォの父も板金工であり工場を運営していました)、転じて自動車産業が発達しました。マセラティやパガーニもモデナに本社があります。
つまり(少なくともその時期の)モデナは、ものづくりと生活(食事・宗教・セックス)が一体化した街なのです。工場で飯を食べながら仕事の打ち合わせをし、愛人の家でエンジンの設計図をチェックし、夫婦関係を利用して(ラウラの実家は資産家)資金を融通して貰います。映画のクライマックスではイタリアを縦断する行動レース「ミッレミリア」が描かれ、多くの家庭では食事しながらレースを観戦します。しかも家父長制に基づいているので、ラウラはおカネを出しているにも関わらず社内で一種の腫れもの扱いです。ペネロペ・クルスは本作で常に顔を歪ませ、周囲の状況に抗おうとしています。
マイケル・マンはシカゴで産まれ、監督作は一作(ホラー映画の『ザ・キープ』)を除き全てアメリカを舞台とした物語です。そんなマンがわざわざ異国を舞台にした映画を撮った理由は何か。おそらく、エンジニアであり芸術家であり会社組織とレーシングチームを引っ張るリーダーであるエンツォに自分を投影していたのでしょう。そして同時に、ものづくりの街であるモデナにもう一人の自分を置いてみたかったのでしょう。
「モデナの文化に浸りたかった。1957年のモデナにいるとはどういうことか、本物の経験をしたかったのです」
映画レビュー:『フェラーリ』はマイケル・マン監督の“自伝”のようにみえる作品だ | WIRED.jp
……というマンのコメントは本音であると思います。
ものづくりと男らしさの暗黒面
劇中、エンツォは自動車メーカーの社長としてかなり思い切った台詞を吐きます。
「クルマを売るためにレースをやってるんじゃない。レースをやるためにクルマを売っているんだ」
多くの自動車メーカーは技術開発やプロモーションのためにレースに参加しています。しかし、そもそもがレーシングドライバーとして自動車業界に参加したエンツォは発想が逆なのです。レーサーとして引退した後に会社を興したのは自分がチームのリーダーとしてレースをやるため、エンジニアやデザイナーやレーサーをヘッドハンティングし、レース車製作を主導していくのも、全てレースをやるため、レースで勝つためです。
だから多くの自動車メーカーが余力でレースをやる中、エンツォは会社が経営危機に陥っても決してレースを諦めようとしません。『フォードvsフェラーリ』で描かれたように、エンツォが敵チームからもリスペクトされる理由がここにあります。
エンツォは純粋なエンジニアやデザイナーではありませんが(故に世界中からスタッフを引き抜きます)、レースをやるため、レースで勝つためにレーシングチームを含めた会社を「つくっている」――究極のものづくりをしていると言って良いでしょう。
しかしそれは、何か一つ間違えたら全てが崩壊する、ギリギリの綱渡りでもあります。また、レースでの勝利や会社経営が「男らしさ」「男のロマン」と結びついている当時のイタリア(だけではありませんが)やモータースポーツ界では、そこから降りたり諦めたりすることは「男」としての敗北を意味します。美しい女優のボディラインよりも優雅な車体と跳ね馬のエンブレムを優先する男としては、絶対に降りられないし、諦められないし、負けられません。ミッレミリアで優勝し、レースでの勝利と経営危機解消を同時に果たすべく、エンツォと彼の手足となるチームは奮闘します。
エンツォがレースに全てを捧げる一方、ラウラは会社経営のかなりの部分を取り仕切り、銀行や資本家とやりとりする姿が描かれます。彼女が最後にとる行動は、エンツォ目線でみれば驚きですが、「会社を維持して従業員を喰わせる」「亡くなった愛息もエンツォと同じ病に囚われていた」「家父長制社会におけるカネと権力と責任を持った女」という視点で考えると納得するしかありません。
――そして、映画では史実通り悲劇が起きます。史実通り事故が起こり、史実通りドライバーのアルフォンソ・デ・ポルターゴの身体は真っ二つに避け、カメラはじっくりと死体を映します。先ほどまで家族仲良く食事をしながらレースを観戦していた子供たちは事故に巻き込まれます。彼らはもう一人のピエロやディーノであり、もしかすると幼少期の自分だったのかもしれないのです。
映画では、この事故の責任を問われ起訴されるも、無罪となったことが描かれます。たとえタイヤ交換の指示を出していたとしても、事故は起こっていたことが示されたからです。しかし、そもそもエンツォがレーサーにならなかったら、フェラーリ社を創業しなかったら、ミッレミリアに参加しなかったら……この事故は起こらなかったはずなのです。
「機能が優れたものは、見た目も美しいものなんだ」
愛人の家でエンジンの設計図をチェックするエンツォは、まだ認知していない息子ピエロにそういいます。このシーンは『風立ちぬ』で主人公が結核の妻の手を握りながら設計図を描くシーンに似ています。妻や愛人や息子と同じくらい、あるいはそれ以上に美しくて魅力的な世界が、設計図が象徴するものの中にあり、諦めなければものづくりを通してその世界にアクセスできるのです。
しかし、その過程で息子は死に、本妻との仲は冷え切り、いま傍らでいっしょに設計図をみている息子は認知できず、レースでは沢山の人間が無惨に死にました。
ものづくりと男らしさの暗黒面がここにあります。
しかもこれは、前述したばいきんまんが決して諦めない姿勢と、表裏一体のものでもあります。
ドキンちゃんとコキンちゃんが日光浴をしながら人生を楽しみ、ラウラが不機嫌そうに会社経営をしている横で、ばいきんまんやエンツォの心は暗黒の荒野に囚われている……そんな光景を想像してしまうのです。
まぁ、『ばいきんまんとえほんのルルン』は子供向け、『フェラーリ』は大人向けの映画なので、後者では暗黒面も含めて描いていると言われればそれまでなのですが。