ポスト311のゴジラ:『ゴジラ60周年デジタルリマスター版』

ゴジラ (1954年) ~GOZILLA~ (Blu-ray) (PS3再生・日本語音声可) (北米版)
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7月公開のギャレス・エドワーズ版『GODZILLA』がちょう楽しみで仕方がないのだが、一番最初の『ゴジラ』がデジタルリマスター――ちょっとキレイなデジタル上映でリバイバル公開されるという。料金は1000円、前売り券を持っていれば500円、しかも都内の劇場で単館公開などではなく、我が家の近くのシネコンでも公開だ。勝負に出たな東宝
DVDは持っているのだが、恥ずかしながらキチンと最初から終わりまで観たことがないので、これはいい機会と観てきた。いや、面白かったねえ――というのは特オタの皆様からすれば当たり前のことだと思うのだが、2014年の今みると益々面白くなってきた部分も含めて面白かったよ。


まず、「海面が光って船員が倒れる」という冒頭シーンが第五福竜丸事件そのまんまなことに今更ながらびっくりする。第五福竜丸事件にショックを受けたプロデューサーの田中友幸が、「水爆実験で生まれた怪獣が人類に復讐する」というプロットのヒントとしたのは有名なエピソードだが、今ゴジラ映画を作るとして、「原発事故で人間が死ぬ」というシーンを日本映画界は入れ込めるだろうか。そして、予告編によればギャレス・エドワーズ版『GODZILLA』にはそんなシーンがあるらしい。


大戸島に上陸した調査団が、ガイガーカウンターであちこち測定するシーンもドキドキする。井戸が放射能汚染されているので使わないように注意したり、三葉虫を掴もうと放射能汚染された水溜りに手を伸ばした志村喬に「先生、素手で触らない方が……」と注意したりする台詞にドキっとする。こういった放射能についての身体的といってもいい描写は、シリーズが進むにつれてどんどん失われていった。


国会内でのシーンもいい。調査団の報告を聞いた偉そうなおっさん議員が、政治・経済・外交の混乱を恐れて事態の隠蔽を提案する。横にいる、いかにもサヨクっぽい女性議員*1が猛反対する。いわゆる55年体制が確立するのはこの翌年だ。もし今日本映画界が新しいゴジラを作るとして「ただちに健康に影響はありません」とか「状況はコントロールされています」とかいった台詞を入れ込めることができるのか。


極めつけは、ゴジラによる二回目の東京襲撃の後、生き残った子供にガイガーカウンターを向けるシーンだ。カウンターが明らかに強い反応を示すのをみて、医師とヒロインである河内桃子が顔を見合わせ、絶望的な表情をする。同様の描写を現在の日本映画界がやれるのか。
おそらく無理だろう。



放射能についての描写だけではない。戦争にまつわる隠喩も凄い。ゴジラ襲来を知らせるサイレンは、まんま空襲警報で、山根一家も宝田明も当然のように反応する。
新聞でゴジラ報道を知ったOLっぽい通勤客が「せっかく長崎の原爆から命拾いしてきた、大切な身体なんだもの」と口にする。同僚っぽい男性客が「そろそろ疎開先でも探すかな」などと返す。
二度目の東京襲撃にて、芝浦から上陸したゴジラは銀座の時計台を破壊し、国会議事堂を破壊し、平河町テレビ塔を破壊する、その後上野から浅草を回って*2隅田川に入り、勝鬨橋をゴロリと転がす。つまり皇居周辺を時計回りに回ったわけだ。何故、ゴジラは皇居内を通らず、ビルやら車やらで歩き難い周辺部を巡ったのか――これについては色々な論考があるが、このルートは東京大空襲時のB29の爆撃ルートと同一であるというのは有名な話だ。一夜明けて、特撮シーンにて再現される焼け野原となった東京は、9年前の東京なのだ。
怪獣学・入門! 映画宝島
石井慎二
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更には、二回目の襲撃シーンにて「もうすぐお父ちゃまのところにいくのよ」と言いながら娘たちを抱きしめる母が登場する。「お父ちゃま」はどこで死んだのか。当然、9年前まで行われていた戦争だ。
この母は、後に野戦病院みたいな施設にて、死体として登場する。泣き叫ぶ娘を、河内桃子が思わず抱きしめる。そして、駄目押しに「お母ちゃま、すぐ帰ってきますよ」とウソまでつくのだ。



あと、すっかり大人というかおっさんになった今みると、平田昭彦演じる芹沢博士が最高に良い。眼帯や*3ハチマキが戦争の傷痕や特攻隊の隠喩云々というのは有名だが、ドイツ帰りで研究所がレンガ作りというのが良い。芹沢博士はドイツ表現主義――マッドサイエンティストの元祖であるところのドクトルマブゼの子孫なのだな。戦争で片目を失い、マッドサイエンティストにならざるを得なくなり、婚約者の河内桃子から身を引いた芹沢博士は、おそらく童貞だ。「身を引く」という考え方自体が童貞的だ。
芹沢博士が河内桃子に指一本触れない一方で、河内桃子を寝取った宝田明は、絶対に犯りまくっている。ノースリーブを着ている河内桃子の二の腕は素肌剥き出しなのだが、その素肌部分にべたべたと触りまくる。これがセックスの隠喩でなくてなんだというのか。


時間が巻き戻った東京――「戦争」にショックを受けた河内桃子は芹沢を裏切り、オキシジェン・デストロイヤーの秘密を宝田明に打ち明ける。当然芹沢は抵抗するのだが、テレビから流れる野戦病院みたいな所で治療する人々、玉音放送に耳を傾けるがことくラジオに集まる人々、伊福部昭作曲の鎮魂歌「平和への祈り」を合唱する女学生*4という映像――つまりは「戦争」を目にし、翻意する。
だが、それでも芹沢は「オキシジェン・デストロイヤーを使うのは今回一回限り」と念を押し、実験記録を焼く。小保方さんを例に出すまでもなく、科学者にとって設計図というか実験ノートは命の次に大事なわけだが、このシーンで重要なのは芹沢の台詞だ。
「これだけは絶対に悪魔の手には渡してはならない設計図なんだ」
ここで芹沢が「悪魔」と呼んでいるのは、東京に「戦争」をもたらしたゴジラではない。ゴジラも戦争の犠牲者にすぎない。次の「戦争」をもたらすかもしれない、人間こそが「悪魔」なのだ。この視点こそが『ゴジラ』が60年間生き延びた理由ではなかろうか。


その他、「水爆にやられても生き延びる生命力を研究したい」とゴジラ抹殺に心を痛める山根博士とか、今は亡きパンナムに乗ってやってきた(おそらく)米国高官やあんなにアピールしていた大戸島の伝説が後半で全く言及されないとか、この時期にしっかりやっている水中撮影とかも驚きだった。
あと60年経っても、全く古びない映画だろう、なんて偉そうなことを思ったよ。

*1:若かりし頃の菅井きん

*2:アナウンサーから伝えられる

*3:最後につける

*4:当然これにはひめゆり学徒隊を連想する