M-1という“いいソフト”を攻略せよ:『M-1グランプリ2009』

M-1、今年も面白かったよ。
やっぱり、それまでパッとしなかった芸人が一躍スターダムを駆け上がる所が、M-1という番組の魅力であり、意義でもあると思う。
何年かM-1という番組を観続けてきて、今年は特にそう感じるのだけれど、あの決勝の場に上った8+1組というのは、誰が優勝してもおかしくないのだな。いや、審査システムからの可能性ではなく、個々のコンビの能力という意味において。
そのような8+1組のうち、たまたまその日バイオリズムが良かったとか、たまたまその時の審査員の趣味や時代性にあっていたとか、たまたま演者と聴衆が醸し出す「流れ」に乗れたとか、そういう理由で優勝しちゃうんじゃなかろうか。


ただ、その中でも、近年のM-1決勝で優勝するコンビとそのネタ作りにはいくつかの特徴があると思う。

  1. 決勝初出場、もしくは進出二回目
  2. 基本的に速いテンポではじまり、ネタが進むと共によりテンポが速くなる
  3. ネタ中に笑わせようと設定したポイントの数、笑いの手数*1が多い


1は、つまり独創性だ。他人のネタのパクリやエピゴーネンでは決勝に進出することは難しい。また、どんなにオリジナリティ溢れるコンビでも、世に出て数年経つと新規性は失われてしまう。南海キャンディーズ笑い飯が、その実力にも関わらずなかなか優勝できないのは、この理由が意外に大きいのではなかろうか。
2と3は関連するのだが、つまりはスピード感に溢れていて、笑いの手数をパンパンに詰め込んだ漫才が、M-1という賞レースが考える「出来の良い漫才」ということだろう。


だが、ここで疑問が発生する。漫才というのは、スピード感に溢れていなくてはならないのだろうか?笑いの手数が多い漫才ほど漫才として優れているのだろうか?テンポの遅い漫才は漫才でないのか?笑いの手数が10コしかないネタよりも100コあるネタの方が優れているのだろうか?


東京ダイナマイト南海キャンディーズ、ハリセンボンといったコンビのネタは、そのような風潮に対する一つのアンチテーゼや挑戦のようなものに感じられた。テンポが遅くても、あるいは変調を繰り返しても良いのではないか?というか、スピード感に溢れているが一本調子であるよりも、ネタの途中で間やテンポを何回も変えた方が面白いのでは?


さて、そこで笑い飯だ。M-1決勝に初めて笑い飯が登場した時、彼らのテンポは独特だった。ボケとツッコミを交互に繰り返す彼らのテンポは、全体的にみればネタの侵攻にあわせて早くなっていくものの、ボケとツッコミの役割を変える度に、変調していた。
ところが今回のM-1、彼らの一回目のネタはどうだろう。ボケとツッコミの役割が変わっても、全くテンポが乱れない。「鳥人」というネタの面白さも相まって、まさにM-1の漫才としては100点満点のネタだった。どうしてもM-1で優勝したいと願う笑い飯は、これまで彼らが持っていた笑いの哲学を変えたのだ。そう思った。


番組の最後、松本人志はこういった。

「本当にM1って“いいソフト”だなと思いました」

M-1に出場し、優勝せずとも目立つことで、それまで売れていなかった芸人が売れるきっかけになる。高い視聴率をとって、テレビ局も喜ぶ。DVDその他のコンテンツ産業で、吉本も儲かる。誰も損しない、実に良い番組だ。


だが、それなら“いい番組”と言えば良いではないか。何故松本人志は“いいソフト”と言ったのか?そこには皮肉を感じる。“ソフト”とか“コンテンツ”とかいった言葉は、どちらかといえばビジネス用語だ。ビジネスとしては“いい”、だが笑いにとってはどうか?
M-1が「優勝」という冠を捧げて提示する“いい漫才”、それは本当に“いい”のだろうか? M-1という賞レースが、余りにも力を持ちすぎてしまった為に、M-1で優勝するような漫才以外の漫才を否定してはいまいか?

一枚目のテストに100点取って、二枚目のテストに、うんこが乗ってたんよ

笑い飯がM-1直後に語った事 - はてなでテレビの土踏まず


笑い飯が一回目にM-1の顔たる島田紳介から100点を貰えるようなネタをやって、最終決戦にあのようなネタ(なんでもごく初期に作ったネタらしい)をやった理由は、そこいら辺にあると考える。東京ダイナマイト南海キャンディーズやハリセンボン以上のアンチテーゼを、彼らはつきつけたのだ。

*1:勿論、ボケの数に限らない