ゲームの世界で、おれは生きる!:『アバター』

アバター (ジェームズ・キャメロン 監督) [DVD]
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人によっては悪評芬々な『アバター』観たのだけども、私は面白いと感じたよ。宇宙版ポカホンタスとかスペース・ダンス・ウィズ・ウルブスに過ぎないという声もあるけれど『スター・ウォーズ』が単なる宇宙版アーサー王伝説じゃなかったのと同じ意味で、違うと思う。劇中、ゲームのゲの字も出ないけど、この映画を語るにはゲーム文化やゲーム世代の言葉を持ち込む必要があるのではないか。なにしろこの映画が最終的に放つメッセージは「ゲームの中で、おれは生きる!」というものなのだから。


まず『アバター』という題名からして象徴的だ。この言葉の語源はインド神話で化身を表す「アバタール」にあるのだけれど、「アバター」と聞いてまず思い浮かべるのは、金にあかせて着せ替えさせたり操ったりするWiiXbox liveのアレだ。


順にみていこう。以下ネタバレのようなネタバレでないような。


映画の冒頭、車椅子をこぐ主人公は同族である筈の海兵隊ノロマとか愚図とかいった言葉を投げかけられるのだが、これからして主人公は絶対に軍人ではない。何故なら、普通の軍隊において、傷痍軍人は最大限のリスペクトを捧げられるからだ。そうでなければ進んで危険に身を投げ出す兵士がいなくなってしまう。
だが本作の主人公が放り込まれるのは、リスペクトとは無縁の環境だ。おそらく重要なのは、筋肉ムキムキの大男が軍事知識はあるけれど貧弱な肉体しかもたない男を馬鹿にするという構図だろう。そう、彼は武器や兵器が大好きだけれど、貧弱な肉体しかもたないゲーム大好きボンクラ男子の象徴なのだ。


そんな主人公が降り立つパンドラ星はフルCG製だ。それが前提の企画だったといえばそれまでだが、同じように異星を舞台とした『スター・ウォーズ』が新三部作においてもなお外国ロケを慣行し、一部実写背景を使用していたのとどうしても比較してしまう。一方、「人間の世界」たる宇宙船や基地内部では、半分以上実写背景というか昔ながらのセット撮影だ。


パンドラ星の生態系も、ジェームス・キャメロンがインタビューで「我々はまさに一つの惑星を創造したんだ!」とブチ上げるにしては、なんだかおかしい。地球における四つ足動物の代わりに六本足の哺乳類がうろついているのだが、人間にあてはまるナヴィは四本足なのだ。六本足のサルまで出てくるのに!*1


で、アバターを介して主人公はナヴィ一族の一員として認めて貰えるよう奮闘する。ここいら辺はネイティブアメリカン文化に分け入る白人入植者を連想させるというか、完全に『ポカホンタス』や『ダンス・ウィズ・ウルブズ』なのだけれど、なんか実にゲーム的なのだよね。


まず、排泄や食事の描写がほとんど無い。こういう未開部族モノでは昆虫や生き血を飲んでゲーとなるけど頑張って飲み込み、同じ釜の飯を喰う仲間として認められる……というのが定番演出だと思うのだけれど、そういうのが全然無い*2。汗や体液、家の片隅に積もった埃や染み、死体に群がる虫といった、ゲーム世代が嫌悪感を引き起こすであろう要素も、注意深く排除されている。自然と寄り添って暮らす原住民である筈なのに、やけにクリーンなのだな。
また、ヒロインがツンデレな族長の娘で、主人公のことを無条件で好きになるというのは、こういうジャンルにおいてはアムロが無条件でガンダムに乗れるというのと同じくらい自然なことであるのだけれど、今回ヒロインが「あなたは何も怖れていない」とかいうのだよね。そらー当り前だよ!だって、たとえアバターが危険な目にあっても、本体である主人公はカプセルの中で寝ているので、全く無傷なのだから。
アバターが死んでも主人公は死なない。同じような構造を持つ『マトリックス』では、電脳空間での死は肉体の死、完全な死と同義だったことを思い返して欲しい。これは、死ぬような経験を通して成長するという成長物語の基本的構造を鑑みるに、注目すべき点だと思う。


つまりさ、パンドラ星というのはゲームの世界なんだよ!もしくは、ゲーム世代が考える異世界の象徴と表現すべきか。
宙を浮く鉱石が欲しいのなら、ミサイル撃って原住民族を追い出すよりも、空に浮かんでいる巨石をヘリで引っ張っていった方がコストパフォーマンス良いんじゃないの?とか、強い地磁気が発生しているというのに、アバターの遠隔操作に何の支障もないのはおかしいんじゃないの?みたいなツッコミは無粋というものだ。ボスの手前にセーブポイントがあるご都合主義こそゲームなんだよ!


……ともかく、単純にスペース版ポカホンタスと捉えるよりも、ゲーム世界の隠喩であると捉える方が、色々なことがしっくりくると思う。


たとえば、主人公はナヴィ部族の中で一人前の男ととして認められる為に様々な試練に挑むのだが、「死」を前提としないイニシエーションはまさにゲームそのものだ。どれほどの高地で足を滑らそうとも、どんなに凶暴な獣と対峙しようとも、死ぬことはない。ただ、アバターの体を痛めて母親役のグレースから怒られるだけだ。


そう、シガニー・ウィーバー演じるグレース博士は母親だ。彼女が主人公に向かって「いつ風呂に入ったの?」とか「ご飯たべなきゃ接続させないわよ」なんていってるシーンは、まさにゲーオタの家庭の一コマだ。普通、母親は息子がゲームにハマることを快く思わないものだが、キャメロンは強い女が大好きなマザコン人間であるので、キャメロンの夢の具現化である映画内で、主人公は母親と対立しない。
じゃ、父親は誰かというと、スティーヴン・ラング演じる大佐だ。『地獄の黙示録』のキルゴア中佐というより体育教師みたいな大佐も、息子と同じく現実世界に生きていない。彼はジョックス的ネオリベ的世界という仮想世界に生きている。だから、息子がゲームにハマっているのをみると、イライラしてしまう。「そんなのピコピコやってないで、表に出てスポーツしろ!」てなもんだ。


じゃ、主人公がそれほどまでにゲームにハマる理由は何かというと、承認欲求からだ。なにしろ、父も母も自分を利用することしか考えていない。誰も自分を人間としてみてくれなかった。しかし、ゲームの中のヒロインだけは、自分を一人の男としてみてくれる。これは、これまでの人生の中で面と向かって「愛してる」といってくれたのが『ドラクエV』のビアンカだけだったという私のような人間にとって、抵抗できないシチュエーションだ。人間世界では終始ボンヤリしながら誰のいうこともホイホイ聞く主人公が、ゲーム世界では生き生きと顔を輝かせて走り回る。ゲームの中でセックスまでしてしまうのだ。


そんな中、とうとう痺れをきらした父親がジョックス的ネオリベ多国籍軍を率いてゲーム世界に侵攻してくる。ゲームの世界で喜びをえた主人公はゲーム世界の911にて悲しみを知り、ゲームの世界を守るために奮闘する。
この戦いに負けても主人公は命を失わないが、その代わり二度とゲーム世界に接続できない。ゲーオタにとって、これは死ぬより辛いことだ。主人公は命の代わりに命より大事な、自分のアイデンティティをかけるのだ。つまり、これまで安全なところにいた主人公が、初めて捨て身で冒険する。これぞ、ゲーム世界における本当のイニシエーションだ。


以下、ネタバレ。


最強のアイテムというか乗り物を首尾よくゲットして族長の座についた主人公は、逆襲を開始する。唯一生身の肉体で戦うミシェル姐さんが死んだり、遂にゲームの世界の神であるゲームマスターが怒ったりと、いろいろあってクライマックス。ラスボスとの対決だ。
当然、ラスボスは父親だ。男子は父親を殺すことで、本当の男に、つまりは大人になるものなのだから。


だが、ここで驚愕の事態が巻き起こる。父親とのマジ喧嘩の最中、ヒロインが父親を殺してしまうのだ!良いんか、それ?主人公が大人になる可能性をも殺しちゃうということなんじゃ?
や、あそこは普通に考えて、カプセルから排出された主人公が必死の思いで床に落ちていたスナイパーライフルを拾い、ネイティリを殺そうとする大佐を狙撃する!父を殺し、好きな女の命を救った主人公は真の男になる!みたいな展開じゃないのかね?(ちなみに、この映画において銃は肉体の一部であり男の武器だ)大佐がヘリで逃げようとする主人公一団に向かって、有毒な大気を吸うに構わず発砲し、グレースというか母を殺害したシーンが伏線にもなるし。
だが、主人公はヒロインに救出される。人間に比べてナヴィはデカい。まさに母に抱かれた子供のように、ヒロインの胸の中で安堵の表情を浮かべる主人公。キャメロンの欲望が恥ずかしげもなく開陳される瞬間だ。


しかし、それはゲーム世代にとっての欲望でもある。ゲーム世界を愛した男が、ゲーム世界の女によって救われるのだから。
生も死も、愛も憎しみも、喜びも悲しみも、セックスさえも、すべてゲームの中にある。だから主人公は最後、一生ゲーム世界の中で生きていくことを選択する。それはキャメロンの欲望であると同時に、ゲームを心の底から愛している自分の欲望でもある。


だから、この映画を単純に否定することは難しい。

*1:多分、これは六本肢の亜人間には感情移入しにくかろうという理由からだろうが、アシュラマン一族を差別すんなと

*2:他は定番演出だらけなのに!