しんぼりっくアナリストとしての映画監督:「しんぼる」

私は松本人志の信者なので、彼が出る番組は全て観る。ラジオも聞くし、映画も観る。「大日本人」はつまらんとか映画じゃないとか言う輩には顔を真っ赤っ赤にして説教だ。これこれこういう理由で、「大日本人」は傑作なのだと。


だから「しんぼる」も真っ先に観にいったのだが、なんだか「2001年宇宙の旅」を目指したら「TAKESHI'S」になってしまった……みたいな映画だったよ。


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松本人志の映画における主題、それは松本自身だ。それはそれで結構なことだと思う。自分の中にあるやむにやまれぬ思いや狂おしい情念などを、映像的な表現としてスクリーンに投影することが「映画」であるからだ。

しかし「しんぼる」の問題は、それがあまりにも分かりやすすぎることではなかろうか。


以下、ネタバレ。


以前、お笑いマニアである従姉妹が松本人志のことを「神」と呼んでいる、と今田耕司が語っていた。信者である自分がいうのもなんだが、なるほど松本人志は確かに「神」だ。


松本人志がテレビのバラエティーというジャンルにおいて悪戦苦闘しつつ自己実現を果たし、芸人やお笑いファンからは「神」と崇められるほどビッグな存在になり、今や彼の一挙手一投足がテレビ局や吉本や製作会社に務める社員といった「善良な市民」の生活にまで影響を与える存在になってしまた。
そのような背景を知識として持っている現代日本人ならば、「しんぼる」の主人公がテレビ局のスタジオみたいな白い部屋で悪戦苦闘し、し、最後には麻原彰晃みたいな髭面になって天へと昇っていくことが何を象徴しているのか、分かりすぎるほど分かるだろう。劇場の入りから考えて、松本人志に興味の無い人間はそもそも足を運ばないと判断すると、この映画を観て「分からない」なんて言ってる奴は、余程映像に対するリテラシーが低いか、漫然とテレビを流し観している余程の馬鹿か、そのどちらかだと断言できる。


だが、それこそがこの映画最大の問題であろう。


つまりさ、映画鑑賞という行為において、我々は映像に含まれる隠喩や象徴を読み解くことに面白さと快感を感じるわけだ。「2001年宇宙の旅」を例に挙げるのならば、絵ヅラだけみれば単に宇宙船が木星に到達するとか、暴走したコンピューターの電源を落とすとかいった現象に、新人類の誕生や異種間闘争を読み取ることに面白さを感じるわけだ。そこには、まるで精子のような形をした宇宙船とか、合成音声でデイジーデイジーの歌を唄うコンピューターとか、映像的魅力に満ちた仕掛けがなくてはならない。抽象化し、象徴化した主題を、別の何かとして表現しなくてはならない。


「しんぼる」はその点が弱いと思う。
多分、松本人志としては、テレビバラエティーにおけるコント番組での経験を活かせば映像的な魅力が創出される筈だという彼なりの勝算があったのだろう。あの、一見不条理にみえつつも一定の法則がある真っ白な部屋で七転八倒するおかっぱ頭の主人公は、ディレクターのムチャ振りにリアクションする芸人そのものだ。寿司、天井からの水、トイレ用吸引カップ……寿司の一つにワサビが大量に入っていなかったのが不思議なくらいだ。


だが、哀しいかな、松本人志は類稀なる漫才師やコント芸人であっても、リアクション芸人ではなかった。「ガキの使い」の利き○○シリーズや天然素材との対決シリーズ等で松本がみせるリアクションは確かに面白い。だがそれは相方の浜田や後輩であるココリコ遠藤といったツッコミあっての面白さだ。ツッコミが不在な場合、スタンドアローンでのリアクション芸は出川哲郎山崎邦正に完全に負ける*1


もうちょっと松本人志に映像センスとテクニックがあれば、ロープでターザンしてあのチンコ押して…の件を更に繰り返してインフレさせることで、映像的面白さと笑いを両立できた筈なのだが、正直欲求不満を感じた。もっとやれる筈だと思うのだが……。



しかし、私も松本を「神」と崇める信者の一人だ。松本人志が松本にしか作れない映画を観ることができ、嬉しくも思う。どう考えても客の入りが悪いので、次回作が作れるかどうか微妙なところだと揶揄する輩もいるかもしれないが、なに「ソナチネ」の頃の北野武に比べれば充分入っているさ。次は「TAKESHI'S」じゃなくて「みんな〜やってるか!」でお願いします。


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*1:出川や山崎が異常に上手すぎるのだが