動物化するポストモダンライダー(と視聴者):「仮面ライダーディケイド」

メ、メ、メ、メ、メタフィクション!ポ、ポ、ポ、ポ、ポストモダン!だ、だ、だ、だ、脱構築!せ、せ、せ、せ、生権力!ど、ど、ど、ど、動物化!け、け、け、け、決断主義!マ、マ、マ、マ、マーケティング!げ、げ、げ、げ、劇場版!


……というわけで、もう新ライダーも始まってしまったが、「ディケイド」について書きたい。
諸君、私は平成ライダーが大好きだ。いっぱいいっぱいの主人公が好きだ。池ポチャで復活する様式美が好きだ。すぐにライダー同士で戦う仲の悪さが好きだ。この地上に存在するありとあらゆる平成ライダーが大好きだ。
だから、宇多丸師匠のもっともな批評にも、顔を真っ赤にして大反論だ。だいたい平成特撮ものってのは現在最も動物化した大衆であるところの未就学児童を飽きさせないという縛りがあるから、とにかく短い上映時間を要求されてんだよ!だから、時間節約の為に落とし穴に落ちてもすぐ復活するし、昭和ライダーがディケイドに負けても何事も無かったかのように復活すんだよ!!*1「チャーリーズエンジェル」や「トランスフォーマー」が映画じゃないならおれは映画好きでなくていいのと全く同様に、「オールライダー対大ショッカー」が映画じゃないなら云々かんぬん……てな具合だ。
TBS RADIO ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル


しかし、そんな私でも、やっぱりあの「続きはWebで!」ならぬ「続きは劇場版で!」的最終回はヒドいと思う。
「続きはWebで!」がムカつくのはアピールのみに全力を費やして説明責任を後回しにされることにムカつくわけだが、「ディケイド」最終回にヒドさを感じるのは、それだけが理由というわけではない。


それにはまず、いったい「仮面ライダーディケイド」とはどのような存在だったのかについて考えてみる必要があるだろう。


「特撮なんて観ねーよ!」という方の為に簡単に説明すると、「仮面ライダーディケイド」ってのは記念すべき平成ライダー10作目だ。これまでの平成ライダー9作の世界がパラレルワールドとして登場し、世界の融合と破壊を食い止めるために戦う!……という、スーパーロボット大戦ライクな話なのだが、劇中に登場する各平成ライダーの世界はオリジナルそのままではない。
例えば、「クウガの世界」は「仮面ライダークウガ」で主役をはったオダギリ・ジョーではなく、若手俳優である村井良大が演じている。役目も「五代雄介」ではなく「小野寺ユウスケ」。ライダーに協力する刑事である「一条さん」も男性から女性へ、設定も一部変更されている。
これらは児童誌や専門誌では「リ・イマジネーション世界」と呼ばれているのだが、単に事務所や制作費の問題でオリジナル・キャストを揃えられなかったという理由のみでこうなったのではなかろう。「剣」の世界は社員ライダーという初期設定が存分に生かされ、「響鬼」の世界は若者が鬼の力を継承して代替わりを果たし、「アギト」の世界は「クウガ」の世界の続編的内容となっている。つまり、「リ・イマジン世界」というものは、路線変更や制作費といった諸問題から文芸的に問題が発生してしまった「オリジナル世界」を改変したもの、我々視聴者の頭の中、思い出の中に存在するあるべき姿としてのライダー世界を反映したものとなっているのだ。


また、ディケイドの持つ能力やデザインも、番組の魅力の一つだ。ディケイドは各ライダーの力が封印されたカードを駆使し、カードから力を引き出して別のライダーに変身したり必殺技を使用することができる。これが実に面白かった。同じくカードを使用して戦う「龍騎」や「剣」とは異なる面白さがあると思った。


知り合いに、4〜5歳くらいの息子を持つ夫婦がいる。他の未就学児童の例に漏れず、ライダーやら戦隊やらウルトラマンやらに大ハマリだ。
ある時、七五三だか幼稚園の入学式だかで、フォーマルな服装を息子にさせたいとその夫婦は思いついたそうだ。で、息子に「カッコ良い服を着ようね」と言ってデパートで買ってきた幼児向けの短パンスーツみたいなものをみせた。ところが息子はこんなもの少しもカッコ良くないよ!と言い放つ。
「カッコ良いってのは、こういう服だよ!」
そう言って息子が指し示したのは、なんとこの前トイザらスで買った仮面ライダーが前面にプリントされたTシャツやトレーナーだった。
……こ、こんなものが!ガクリと肩を落とす友人夫婦。彼らにはユニクロファッションセンターしまむらで売っている、どこの誰がデザインしたかも分からないTシャツやトレーナーと、息子が指し示すそれらとの違いが分からない。しかし、当の息子にははっきりと分かる。それらを着ることで、仮面ライダーや戦隊ヒーローにアクセスできる。ヒーローやヒロイン達と似た力を手に入れることができる。前近代の人々が想像上の生き物や伝説の勇者の姿を刺青として体に入れたり紋章として鎧や楯に入れたりしたのと同じことなのだが、それらが広く大衆に信じられた伝説や神話ではなく、日曜朝の特撮番組で活躍し、玩具会社のプロモーションの為にバトルするヒーローであるという点のみが異なる。


仮面ライダーディケイド」の面白さというのは、つまりはこういうことなんだと思う。そのことが最も象徴的になっているのはコンプリートフォームだ。バンダイがスポンサーを務める番組では番組中盤に必ず登場する強化バージョンなのだが、額にコンプリートフォームのカード、肩から胸にかけてはこれまでの平成ライダー9人を示す9枚のカードが張り付くという、これだけ見せられたらどう考えてもカッコ良いとは思えない異形のスタイルだ。


仮面ライダーディケイド FFR11 仮面ライダーディケイド コンプリートフォーム
B002BRUG9U


(↓こんなのも発見)
http://completed-form-generator.heroku.com/


しかし、平成ライダーの視聴者にとって、ディケイドの強化体がこのような歩く平成ライダー図鑑であることは、充分に納得できることであるのだ。カードの力で強くなるヒーローが更に強くなる方法は、カードと同一化することであったのだ。


ここまでくれば分かってもらえると思うのだが、「仮面ライダーディケイド」における主人公ディケイド=門矢士とは、視聴者の分身だ。スーパーロボット大戦のオリジナル主人公がプレイヤーの分身であるのと全く同じことだ。
これはアメコミを例に挙げるとより分かりやすいかもしれない。「ディケイド」のネタ元は「Crisis on Infinite Earths」ではないか?という指摘があったが、私が連想したのは「マーヴルズ」だ。


Crisis On Infinite Earths
1563897504


http://ameque.cool.ne.jp/dc/summary/crisis.htm


マーヴルズ (Marvel super comics (No.046))
4796840311


Marvels (Marvel Heroes)
Alex Ross
0785113886


マーヴルズ」はスーパーヒーローでもなんでもない一人の新聞記者の視点で第二次大戦から現在までのスーパーヒーローを総括するという内容であったが、より視聴者に近しいライダーを主人公に平成ライダー10年史を総括するのが「ディケイド」だったのではなかろうか。
「通りすがりの仮面ライダー」という完全なるアウトサイダー的立ち位置も、士が「認める」ことで異世界のライダーがヒーローとしての力を取り戻すというパターンも、全てディケイドという依り代を通して視聴者が物語世界に干渉するという構造を構築する為だったのではなかろうか、少なくとも企画当初は。


ただ、ここでいう「視聴者」は単なる視聴者ではないく、作り手自身も兼ねる。
「ディケイド」とそれまでの平成ライダー9作品におけるプロデューサーと脚本家は一部共通している。主役以外では一部オリジナルで当人を演じた俳優もキャスティングされる。身も蓋も無い言い方をしてしまうと、これは東映テレビ朝日がやる公式二次創作だ。
だが、それは単にオフィシャルの認証を得たバージョン違いや妄想話というわけではない。生身の俳優の肉体(と着ぐるみ)を使って行なわれるのだ。これはすごい。ガンダム00ファーストガンダムが登場するとか、エヴァが劇場版でやりなおされるとかいった以上の衝撃がある、筈だ。
しかも、プロデューサーと脚本家は一部共通。主役以外では一部オリジナルで当人を演じた俳優もキャスティングされる。実も蓋も無い言い方をしてしまうと、東映テレビ朝日がやる公式二次創作だ。これはすごい。期待しまくり、ボルテージの上がりまくった私の気持ちも察して欲しい。


だが、9つの平成ライダー世界を周り、いよいよ「ディケイド」のクライマックスであると第一話冒頭で予告されたライダー大戦が始まるのかと思いきや、悪者ライダーばかりが登場する「ネガの世界」なんてのが登場した。
あれ、おっかしいなー?平成ライダー同士の世界観は矛盾する。その矛盾しあうライダーの世界観同士がぶつかりあうのが「ディケイド」なんじゃなかったのか?皆の笑顔を望む「クウガ」的世界観と愛する妹の為なら世界を敵に回す「カブト」的世界観が対立したり、父であることに失敗した「響鬼」的父親像と「キバ」的それとが相克したりすんじゃなかったのか?「ディエンドの世界」は面白かったけど、「アマゾンの世界」は明らかに蛇足だよね?


しかし、プレ最終回であるところの第30話、遂にライダー世界の融合が始まり、「剣の世界」「キバの世界」「響鬼の世界」のライダーが殺しあう。きっちり死人も出て、せっかく原典越えをしてライダーになれたあきらも死んで、憎しみあう。これだ!単に龍騎の拡大再生産とならない、よりメタ度の高い「全てを破壊し、全てを繋げ」るバトルロワイヤル!!おれ達が観たかったのはこれなんだよ!!!


そして最終回。尺が足りないせいか「仲間」というマジカル・ワードで平成ライダー達はあっさり仲直りすることにムッとするものの、当初からその存在を示唆されたオリジナル・ライダーがディケイドの前に立ちはだかることに刮目する。
変身するのはカタカナ名前の剣立カズマやワタルではなく剣崎一真と紅渡で、演じるのも原典で主役ライダーを演じた椿隆之瀬戸康史だ。
つまり、これは原典と二次創作の戦いだ。コピーとオリジナルの戦いだ。コピー世代とオリジネイターの戦いだ。いったいどこまでメタフィクショナルなんだー!!


……と興奮するも、既に最終回のBパート終了間際。「続きは劇場版で!」的予告にひでー!とテレビの前で大声を上げてしまったのは言うまでも無い。



ひでー!と思うのは、当初無料で始まったコンテンツが予告無しで有料になったことにひでー!と思うわけだ。ただ、「劇場に行けない子供が可哀想!」なんて言い出すつもりはない。私は子供じゃないし、子供がいたら手前が働いた金で劇場に連れてってやれば良いだけのことだ。


……つまりさ、「仮面ライダーディケイド」ってのは、一つの知的ゲームだと思ってたんだよね、私は。オリジナル版とリ・イマジン版の細かな世界観の違いや、ディケイドが変身する平成ライダーの種類や、オリジナル版とは正確の異なるキャラクターを演じるオリジナルキャストとかに一喜一憂したり意味を見出したりする、これまで平成ライダーを観続けてきたおともだちや大きなおともだちと製作者の間でやりとりされる高度な批評的ゲームであると。


でも、そうではなかった。これはネット配信なんかでよくある、第○話まで無料!という商法の変種バージョンだったのだな。作り手と受け手による知的ゲームではなく、単なる利益の追求だった。史上最もポストモダンなライダーであると思われた「仮面ライダーディケイド」は、マーケティングに沿う行動をするという意味で最も動物化した大衆(それは未就学児童だけではない)を相手とした、新たなビジネスモデルの確立だったのだな。
つまり、最もポストモダンであったのはライダーではなく視聴者だったと。つまり、「テレビの中の仮面ライダー」という旧来の特撮ヒーロー物語を破壊し、「踊る大走査線」から「ROOKIES」まで、近年の非特撮テレビドラマで開発・発展・発達した、テレビドラマの後は映画でガッポリ儲けるという、「世界の亀山千広モデル」の特撮への導入だったのだと。
「『ROOKIES』を批判する権利ないですからね!」という宇多丸師匠の言葉は正しかったよ……。


でも、私に「ディケイド」を批判する権利は、実のことない。何故なら、12月12日は私も「怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 ザ・ムービー」よりもライダーを優先するであろうから!



……なんつーか、「クリスタルスカルの秘法」を観るとフランク・ダラボンの脚本が読みたくなるのと同じように、「ディケイド」を降板した會川昇の初期構想が知りたい今日この頃だ。

*1:昭和ライダーにもオリジナルとリ・イマジン版がある……みたいな設定も勿論省略だ