人生が続くということ:『海賊戦隊ゴーカイジャー』

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自分のような人間は日曜朝の『戦隊』『ライダー』『プリキュア』のうちどれかが楽しければ、その後に続く一週間をそのまま楽しい気分で生きられるわけなのだが、この一年間は滅法楽しかった。先日最終回を迎えた『海賊戦隊ゴーカイジャー』のおかげだ。
「宇宙最大のお宝」は触れた者の望みどおりに作品世界を書き換えるトライフォースだったわけだけれど、メタフィクション的結末を選ばずに35番目の戦隊であるところを選びとる展開には、ちょっと感動してしまった。しかも、視聴者の象徴であり、結構ハブられることの多かったゴーカイシルバーが、他の5人と一緒に宇宙に旅立つというラストも良かった。嗚呼、来週から『ゴーカイジャー』が観れないかと思うと、切ないなぁ。



スーパー戦隊35周年記念作品であるところの『ゴーカイジャー』の特徴は、「レジェンド」と呼ばれる既存34作品のスーパー戦隊への二段変身と、シリーズの「先輩」であるところのレジェンド役者がゲスト出演するところにあった。や、レジェンドが登場しない回も、「スーパー戦隊」や「ヒーロー」にとって普遍的あるいはメタ的な話ばかりで面白かったけれども、皆が楽しんだのはやっぱりレジェンド回だよね。


で、『ゴーカイジャー』の魅力は、同じ東映による特撮シリーズのクロスオーバー作品であるところの『仮面ライダーディケイド』と比較してみると分かり易いと思う。


『ディケイド』にとっての『仮面ライダークウガ』や、『ゴーカイジャー』にとっての『秘密戦隊ゴレンジャー』といったシリーズの「先輩」が秘めるパワー、ここではそのパワーを仮に「レジェンド力*1」と呼ぶことにしよう。
仮面ライダー SUPERBEST 変身ベルト DXディケイドライバー
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両者とも、「レジェンド力」を使うヒーローが主人公を務めるところは同じなのだけれども、その利用法が異なるんだよね。『ディケイド』における「レジェンド力」は、ライダーカードに象徴される。ライダーカードをドライバーと呼ばれる*2ベルトに挿入し、「先輩」の力を引き出すわけだ。
特命戦隊ゴーバスターズ レンジャーキーセット ゴーバスターズ
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一方、『ゴーカイジャー』における「レジェンド力」の象徴物は、「レンジャーキー」と「大いなる力」に分けられる。「レンジャーキー」は『ディケイド』におけるライダーカードそのままといってよい。だが、ここが重要であると思うのだが、「大いなる力」に相当するパワーなり装置なりは、『ディケイド』に存在しない。


「大いなる力」とは何か。玩具的・商品的にいえばそれは、巨大ロボから追加ギミックを引き出す力だったわけだが、映像作品としてのそれは、もっと精神的なものだ。「大いなる力」を得る為には、「先輩」であるレジェンド戦士の協力や共感や同意が必要だった。レジェンド戦士を演じるのは、『ディケイド』とは異なり、原典となる作品で当該キャラクターを演じていた役者本人だった。
つまり「大いなる力」とは、オリジナル俳優やオリジナル作品――原典に対するリスペクトなのだと思う。『ディケイド』があくまでも「リ・イマジネーション」と名づけた、人々の頭の中に薄ぼんやりと存在する「データベース」を参照したのとは対照的だ。しかも、参照は「キャラクター商売」という作り手の都合故だ。『ゴーカイジャー』は戦隊版『ディケイド』と評されることも多いのだが、この点において決定的に異なる。自分は『ディケイド』も大好きなのだが、『ディケイド』が蛇蝎の如く嫌われているのに対して『ゴーカイジャー』が愛されるというような、世間的な人気の差は、そこにあるのだろうな。


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ここでいう「データベース」ってのは勿論、「データベース消費」でいうところのそれ――作品の背後にあって、人々が無意識のうちに共有している世界観や設定や「大きな物語」が情報化したものだ。「データベース」を作るのは、コンテンツ製作者である東映じゃない。あくまでも東映が作った映像作品を観賞した人々の頭の中に、ぼんやりと共有されているものだ。
勿論、東映社員やスタッフも視聴者として番組を観ていたわけで、彼らも「データベース」の形成に参加している。ただ、『ディケイド』はあまりにもシラタロスじゃなかった東映よりのデータベースを参照してしまったことに悪評の理由があるのだと思う。自分はそこが面白いと感じたのだけれども。
勿論、ゴーカイジャーもレンジャーキーを使う時に「データベース」を参照しているよ。でも、オリジナルでその役を演じた役者が、経過した年月に応じて年をとって出てきた時、驚くわけじゃん。具体的にいうと、一条寺列が白髪混じりだったら驚くわけじゃん。でも、57歳の大葉健二がきっちり変身シーンをこなして魅せる時、あれから30年経った一条寺列はやはりこんな壮年になるのだろうなぁ、なんて納得するわけだ。ええ、『ギャバン』は現行スーパー戦隊の原点ですよ。
この時、「データベース」は更新されるわけだけれども、この面白さは「データベース」の参照からは出てこない面白さだ。大葉健二はまだ特撮雑誌やロフトプラスワンで露出があるからまだしも、五代高之や広瀬仁美*3の老けっぷりには驚きを禁じえないのだが、やはり彼や彼女は31年経ったバルイーグルであり、18年経った鶴姫であるわけだよ!
正確に評するのならば、『ディケイド』でも倉田てつをが出演した『BLACK』の回だけは唯一同じ種類の魅力があった。會川昇が降板し、初期のテンションを失った後期『ディケイド』の中でも、あの回だけ好評だったのは偶然じゃないと思う。



そう考えると、やっぱり本作の真の見所は、自分より20も30も年上のおっさん・おばさんによるスーパー戦隊への愛や本気を、確認できるってことだと思う。パチンコ屋で一日中スロットしてそうな白髪混じりのおっさんが本気の変身ポーズを決める。そこら辺の商店街で大根でも売ってそうなおばさんが戦士の名乗りをあげる。や、ウルトラマン仮面ライダーでも最近そういうシーンは見かけるよ。でも、スーパー戦隊って、長年にわたって一段下に見られてきた歴史があるじゃないか。


おそらく、撮影現場でも10代20代の現役戦隊俳優と50、60代の先輩俳優が同じ思い出を語り合う、そんなシーンがあったんだと想像しちゃうんだよね。「いやー、いつ来ても岩舟もは変わらないなー」みたいな感じで。で、どんなに年齢差があっても、「ヒーロー」とか「戦隊」といったものに対する思いが、お互いに本気であることが分かるのだと思う。何故なら、番組を観ていた我々にも分かったから。なんだか『ゴーカイジャー』を観ていると、人生が続くっていいなと思ってしまうのだ。
ゴーカイジャー』は東映による公式二次創作というよりも、世界を救ったヒーローやヒロインでも人生が続く、その継続性のどうしようもなさと格好良さを、テーマとして内包した作品のように思えた。

*1:レジェンドちから、と読むと富野っぽい!

*2:ちなみに『ディケイド』以降の平成ライダーのベルトは全て「○○ドライバー」と呼ばれる

*3:Wikipediaを読んで気がついたのだが、『ゴセイジャー』出演には気がつかなかった