北野武による「たけし」

家族サービスやらなんやらが忙しくて『ゾンビランド』も『500才のエリ』も『私の優しくない先輩』も観にいけてない。だからネタが無い……ということもないのだが、最近読んだ本の紹介でもしようと思う。


Kitano par Kitano 北野武による「たけし」
北野武 ミシェル・テマン 松本百合子
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フランス人ジャーナリストによる北野武へのインタビュー本なのだが、これが面白かった。
著者のミシェル・テマンはフランスの日刊紙リベラシオンの日本特派員なのだが、ある日、六本木のレストランにて北野武をみかけ、発作的にインタビューを申し込む。「ああ、良いよ」と快諾を得たが、実際にそれが実現したのは2年後、しかし4年間にわたってインタビューは続き、それをまとめた本だという。


北野武へのインタビューといえば過去に様々な本が出ていた。長期にわたるインタビューといえば、最近では渋谷陽一によるものが有名だろう。
今、63歳
北野 武
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本書のインタビューアーを務めたのはフランス人なので、インタビューは通訳を介して行なわれた。通訳を務めたのはかの有名なゾマホンだ。で、フランスで出版されたものを日本語に翻訳するという逆輸入車のような形で出版されたのがこの本であるわけなのだが、そのような経緯を介している為、我々が知っている北野武あるいはビートたけしの口調とは異なったものになっている。しかし、だからこそ既存のインタビュー本に比べて本音もしくは本音に近いものを語っているように思えるのが面白いところだ。


たとえば師匠――深見千三郎や父――菊次郎に関してのエピソードなんかはグッとくるものがあった。

で、そんな弟子が自分に小遣いを持ってやってきてくれたことに感動するあまり、師匠はその晩、俺の成功を大声で知らせながら、浅草じゅうを練り歩いた。そうして何軒も飲み屋をはしごしながら、俺の成功を祝ってくれてたんだよね。俺もうれしかった。でも心の底ではこの日のことは本当に後悔してる、ひどく悔やんでる。というのも、俺の渡したはした金で、その日、師匠は酒とタバコを買ってさ、そうとう酔っぱらって家に帰ったんだろうな。真夜中か朝方か、師匠の三階のアパートが火に包まれたんだ。叫び声を聞いた隣の人が、慌てて消防車を呼んだんだけど、師匠を助けることはできなかった。
(中略)
今でも、本当に辛いし、苦しい。それに、罪の意識を感じる。俺のせいで、師匠は死んだんじゃないかっていつも思ってる。俺があんなふうにお礼をしなきゃ、師匠はあれほど酒を飲まなかったんじゃないか、タバコも買わなかったんじゃないかって……。俺がフランス座を去ったあと、師匠はものすごい孤独を感じてたんだと思う。抱えきれない孤独のなかでね、アルコールに支配されて死んだんだ。

俺が六歳のときだったかな、とつぜん親父が俺に海をみせようって気になったらしくて、親父の仕事仲間たちと一緒に電車に、海まで出かけることになって。江ノ島に行ったんだよね。俺は初めて見る海に大感激でさ。泳げなかったけど、水に入るとひやっとして、水面がきらきらして、潮が満ちたり引いたり、波がはじけて泡になったり、どこまでも続く水平線もめちゃくちゃきれいで、すごい感動的な体験だったわけ。で、帰りの電車がね、けっこう混んでたんだけど、俺たちのすぐ目の前の席に外人がひとり腰かけてたの。
(中略)
もっと驚いたことに、そのアメリカ人は立ち上がって、俺に席を譲ってくれたんだ。おまけに板チョコまでくれてさ! こんなこと、親父にとってありえないことでさ、たぶん、目の前で繰り広げられてる信じられない光景に、どうして良いかわからなくなっちゃったんだろうね。この見知らぬ異国の男の態度に、苛立つやら困惑するやらで、感謝の言葉を口にせずにはいられなくなったのか、ほとんど謝ってるみたいにぺこぺこお辞儀しはじめたんだよ。


伝え聞くところによると、素顔の北野武はシャイな人間だという。タレントとしてテレビに出演してる姿をみても、時折除かせる素の表情から、シャイであるということがなんとなく分かる。多分、北野武は本当の自分というのを不用意にみせたくないのだ。
で、本著のインタビューが日本人に公開されるにあたっては、通常よりも二つのフィルターが入る。だからこそいつもより安心して語っているのではないだろうか。そういえば自身のオフィスを公開したのも海外のメディアに対してのみだった。


また、日本人が日本文化というものを初めて意識するのは外国に出た時だと思う。外人と会話する際に、その気もないのにいつのまにか日本代表みたいな意見を言ってるおれキモい!――みたいな経験をした方も多いんじゃなかろうか。同様に、インタビュアーが外人であるのならば、自分の目からみた日本の現状というものを説明せざるを得ない。


そういうわけで、北野武がお笑いや映画についてだけではなく、日本の政治やメディアの現状についても語りまくっているのだが、とても面白かった。

局のジャーナリストやレポーターたちには、本当の意味での言論の自由がなくて、とくに営業サイドは、番組内容やコメントへの調査が入ることを怖がっているから、いつもってわけじゃないけど、テレビで流される情報が偏向することは十分にあり得るのよ。
(中略)
ほんとのところ、日本では、万人の気持ちを傷つけることなく、ターゲットにしている人たちを満足させるべく、情報は磨かれて、調整されてる。タブーなテーマは、注意深く取り払われたり、避けられたりしてるの。ほとんどのメディアは少しでも厄介なことがあると自発的にふたをしちゃうんだよ。

日本の映画批評は、堅くてね、すごく厳しいの。この国で認められるのは本当に大変なこと。日本人のものの見方が単純なのは知ってるでしょ? これは軽蔑的な意味じゃなくってね。俺が言いたいのはさ、俺の映画が日本で酷評されたあと、たとえばフランスとかイタリアですごく評価されるとするじゃない? そうすると、日本人はその瞬間から別の見方をしてみようって努力するわけ。妥協的な目でね。
(中略)
これは心から望んでることだけど、日本人はもっと個人個人が自分で判断する感覚っていうのを磨いていかないとだめだと思うんだ。もっと自分自身で考えなきゃ。それができないで、いつまでも外国人の考えたり言ったりすることに頼りきってると、いつか植民地になっちゃうよ。

日本では一般的に、貧しい家に生まれた人間は、だいたい一生、貧しいまんまで終わるんだよ。すごい貧乏だった人間が、突然、ものすごい金持ちになったりするのは、堀江(貴文)みたいにさ、だいたい怪しいわけ。彼らの成功っていうのは、普通じゃないって見られて、政治的にも正しくないって思われる。日本って国はね、すごい単純なの。貧しい人間は貧しくて、金持ちの人間だけが富を得る権利があるの。日本はアメリカじゃないからさ。アメリカは、何百年に渡って個人個人の成功っていう考えを保証して作り上げてきたでしょ。

投票って、最近になるまでほとんどしたことないの。ずっとお笑い芸人に選挙権なんて必要ないって思ってたから。たとえある日、日本の政治ががらっと変わったとしても、俺たちお笑い芸人はなんにも変わらないって、ひそかに確信してるんだよね。何がおころうと、ずっと同じ。
(中略)
前に、作家の野坂昭如さんが「もし戦争が突然起きたら、たけし、
おまえはどっかに逃げるだろうな。おまえはそんな男だよな!」って言ったからさ、こう答えたんだ。「違うね。そんな勇気あるわけないじゃん。むしろ流れにのってくよ。権力に歯向かうよりよっぽどそっちの方が楽だよね」ってね。


また、私が北野武の映画をみて強烈に感じるのは全てを無に帰す死への誘惑やじりじりと感じる寂寥感であるのだが――

この事故について、身近なやつらは、なんだかんだ言い訳を探そうとするんだよね。俺は、そんなもんないと思う。いいとこ偽装事故。最悪で自殺未遂。くたばっておかしくないところを、俺は生き延びた。ただそれだけのこと。あのひどい事故を経験して、俺が別の世界、有益な人生を見出した、なんて言う者もいるけど、そういう人たちに言わせると、ある意味、俺の人生が前よりましになったって言うんだよ。俺はそうは思わないね。今の人生のほうがましだなんて思わない。逆だよ!

俺にしてみると『Dolls』はね、これも何度も言ってきたことなんだけど、一見そうは見えないけど、じつは社会の不安を映し出す、暴力的な映画なんだよ。
(中略)
でも『Dolls』は、これは他人事じゃなくて、誰でも運命のはずみで打ちのめされて人生を終えることだってありうる、それがどういうことかってのをわかりやすく見せてると思う。

一九九八年に調子が悪かったとき、銃さえ持ってたら頭に一発ぶちこむのにって考えてた。電車だろうが地下鉄だろうが、飛び込む覚悟ができてたの。死を意識しはじめたのは小学校の頃だね。周りで身近な人たちが死んでいったから。小学校六年生のとき、ずっと一緒に野球をしてきた友達が、俺の目の前でトラックに轢かれたんだ。中学に入ってからは、友達が白血病で死んだ。死は、こんなにも乱暴に人の命を奪うのかって、すごいショックを受けたよね。漫才師になるまでさ、突然死に対する恐れがあった。有名になってからは、絶対に死にたくないと思ったね。
(中略)
今はね、死ぬってことがもっと身近になって、考えても前ほど落ち込まなくなってきてる。死に対する考えがはっきりしてれば、長く生きられるんじゃないかな。日本人が桜を好むのは、花の美しさのせいだけじゃない。花の命が束の間のものだから。どんなに美しく咲き誇っても、いつかは消えてしまうって、みんな承知してんの。

こういう箇所が腑に落ちることこの上無かった。



そもそも、インタビューというものはインタビュアー当人の言葉そのものが掲載されることは稀だ。たとえ当人の校正が入ったとしても、必ず聞き手のフィルターが入るものだ。だから、インタビューというものには当人そのものをズバリと表す言葉は載らない。若干ズレた言葉が載ることとなる。
しかし、そのズレた言葉をなるべく多く集め、選び抜くことで、インタビュアー当人の輪郭を描くことは可能だ。良いインタビュアーというのは、そういうことを意識的にやっているものだと思う。
で、通常よりフィルターが二つ多い本著は、それを違う次元でもやっている本だと感じた。誰がって、著者か訳者か、或いは北野武本人が。



また、ゾマホンアル北郷、三又又三といった軍団員のバックグラウンドに関して、たけし自らが語った箇所も面白いので要必読……と書こうと思ったのだが、ゾマホンに関してはWikipediaの方が詳しいね。


ゾマホン・ルフィン - Wikipedia