次世代バラエティーへの長い道:「アメトーーク 思いついたコトすぐ言いたい芸人」

各所で評判の悪い「アメトーーク」の「思いついたコトすぐ言いたい芸人」であるが、私は結構面白いなと感じたよ。ただしそれはゲラゲラ笑う面白さというよりも、科学者が顕微鏡を覗き込んで「実に面白い」とひとりごちるような面白さだ。


番組を観てない方の為に説明すると、以前行われた番組企画プレゼン大会にて友近が持ち込んだ企画で、「他人のコメントの言葉尻を捉えて、関連したことを言い合う」という内容だ。例えば、誰かが楽屋に入ってきた誰かに「いま、来たの?」と聞いたとする。これに、この会話に何の関連も無い第三者が「いまきた加藤やな」と「かぶせ」る。友近の周囲の仲良し芸人、バッファロー吾郎FUJIWARAなだぎ武らは、楽屋で始終このようなことをやりあっているらしい。


で、何が凄いかって、これを一時間まるまるやったのだな。


これってさ、二つの点で特筆すべきだと思う。



一つ目は、言ってしまえば、「アメトーーク」という番組の飽くなきチャレンジ魂だ。


「お笑い」というのをもの凄く荒っぽく定義するのなら、それは、既存の価値観や文脈を破壊したり脱構築したり新生したり、ということになるだろう。お笑いバラエティー番組界のトップランナーである「アメトーーク」は、これまで様々な「お笑い」価値観を提示し、もしくは破壊してきた。「○○大好き芸人」という「くくりトーク」は新しい価値観の提示そのものであった。ダチョウ倶楽部によるリアクション芸の解説や品川によるひな檀トークでの立ち居振る舞いの解説は、お笑いバラエティー番組の当事者による脱構築であった。「一発屋芸人」、「じゃない方芸人」といった企画は、楽屋芸の更なる進化であった。特に、芸人による企画プレゼンは、楽屋の裏を見せることで笑いをとる楽屋芸の、更なるメタ的進化系といって良い。


そんな「アメトーーク」は遂に、「面白くないこと」に新しい「面白さ」を見出す手法に手をつけた。


その代表例は、ペナルティのワッキーバッファロー吾郎の木村明浩といった、(クソ)スベリ芸人だ。
その以前から、いわゆる「スベリ芸」というのは、あった。「内村プロデュース」におけるふかわりょうや、明石屋さんまがホストを務める番組における村上ショージなどだ。それは、いわばウッチャンやさんまのツッコミを前提としたスベリ芸であったが、「アメトーーク」が行ったのはツッコミ役、あるいはホスト役が誰でも成立するスベリ芸人というキャラの属性づけであった。
この(クソ)スベリ芸人誕生のきっかけが、猿岩石有吉の「仇名づけ」であるというのも興味深い。有吉の「仇名づけ」というのは新しい価値観、もしくは皆が深層心理で気づいていながらわざわざ言語化するまでもなかった価値観の提示そのもので、「アメトーーク」という番組の先進性とシンクロするものであるからだ。


おぎやはぎの小木や、椿鬼奴への注目も、「面白くないこと」に「面白さ」を見出す代表例だと思う。つまり、それまで芸人のプライベートは面白いものであるという認識があった。いや、実際に面白いかどうかは別として、少なくともテレビで紹介される芸人のプライベートというものは、時に面白かったり全然面白くなかったりするプライベートのうち、面白い部分にのみ注目していた。しかし、常に自然体である小木や、ただパチンコするだけの椿鬼奴の日常風景をテレビという媒体にのっけて、それを「逆に面白い!」と新しい「面白さ」を見出したのだ。


その、「面白くないこと」に「面白さ」を見出す手法が、遂に行き着くところまで行ったのが、昨年夏の「あぶら揚げ芸人」であり、今回の「思いついたコトすぐ言いたい芸人」であると考える。
「あぶら揚げ芸人」では、あぶら揚げに関連する面白トークとか、あぶら揚げが揚がる瞬間のスーパースローとか、空耳アワーのパロディとか、やっていたことは「○○大好き芸人」とさして変わらなかった。ただ、対象が「ガンダム」や「スラムダンク」ではなく、「あぶら揚げ」という、「大好き」であることを共感し難い、かといって特に「嫌い」でもない、属性を排除されたものであることに先進性があった。ゼロであるものをどう料理することでプラスにできるのか?という挑戦だ。


対して、「思いついたコトすぐ言いたい芸人」は、言葉のかぶせ合いをしている芸人同士が楽しんでいることは痛いほど伝わってくるが、それを観ている我々は全くといって面白くないところに、面白さを見出している、というか見出してくれ、と言っている点に新しさがある。
その昔、志村けんが、舞台で一生懸命コントをやっていてもその一生懸命さが緊張となって伝わってしまい、お客さんは全然笑ってくれない、演じる僕たちも楽しまないとお客さんは心の底から笑ってくれないという意味のことを言っていた。「思いついたコトすぐ言いたい芸人」はその逆で、演者は心の底から楽しんでいて、それを視聴者にも感じて欲しい、共感して欲しいと訴えているわけだ。「面白さ」というよりも「楽しさ」なのだな。


しかし、本当に視聴者が楽しめるかどうかは別の話だ。


ここで、特筆すべき理由の二点目について語りたい。


これってさ、Twitterに似てないかね?言葉尻を捉えて、好き勝手なことを言い合うのが当人にとって楽しく、第三者にとってあんまり楽しくないというのが、Twitterを楽しむ我々と相似していると思う。
TwitterにおけるReTweetは単なる転載や返信ではない。誰かのつぶやきに刺激され、それに関連するけれども返答でも肯定でも対立意見とも全く違うものがRetweetとして投稿される。それは、誰かが聞いてくれることを期待していないが、それでも口に出すことにそれなりの意義があると感じる、まさにつぶやきだ。
その、つぶやき同志のすれ違いの集合体を第三者として観察すると、一見それなりのコミュニケーションが成立している、ように見える。


ここで東浩紀がよくやる、小松左京の「神への長い道」の未来人描写を引用する文脈を、参照したい。
神への長い道 (ハヤカワ文庫 JA 60)
4150300607

「神への長い道」は、虚無的になった男が冷凍睡眠で未来に旅立つ話なのだが、そこで出てくる未来人の会話というのが凄い。

五十六世紀人たちのしゃべる言葉は、長い場合は猛烈にはやかった。――まるで昆虫の翅音のようにしかきこえない。一つ一つの単語をゆっくりきかせてもらうと、その中には二十一世紀の言葉が、猛烈に簡略化され変形されて、かすかな痕跡をのこしていることがわかるが、とてもききとれたものではない。その上、彼らの言語系の中には、数式や数字の概念が、たくさんとりいれられていて、とてもついていけたものではなかった。――日常の会話は、まったく静粛で、言葉すくなかった。というよりは、大脳前頭葉が二十一世紀人にくらべて極度に発達した彼らは、ほんの短い、間投詞のような言葉を投げかけあうだけで、ほとんどの意味が通じてしまうらしかった。しかし、長い議論になると、鳥のさえずりのような、せせらぎのようなせわしない声があたりにみちた。――彼が発見しておどろいたのは、五十六世紀人たちは、会話が熱をおびてくると、しばしば二人ないしそれ以上の人たちが、同時にしゃべりまくるということだった。最初はそれが受け答えになっているのかと思ったが、そうではないらしく、めいめいの人間は、相手のいっていることなどきかず、猛烈なスピードで自分の考えをしゃべりつづけ、相手のしゃべりつづけている話のうち、ほんの一つ二つの単語なりフレーズなりで、なにかこちらが展開している思考にヒントとなるようなものがあれば、それが相手方の展開している思考系列のなかで、どういう順序、または意味で組みこまれているかということとは関係なく、それをこちらの思考の流れにとりいれて、また新たな方向へ、自分の考えを展開していくらしかった。――つまり、彼らの議論とは、めいめいが相互に情報発信源になってのべつ発振し、何かめいめいにとってそのなかで、瞬間的に共鳴する情報だけがコミュニケートすればいいのであって、相手の考えを全面的に理解する必要はなかったのだ。にもかかわらず、そのやり方は、相互に共鳴し、コミュニケートする情報が、ある確率でもって整理されていくことによって、りっぱに――むしろいちいち言葉の厳密さをたしかめて、煉瓦のように論理を構築していく古いやり方より、よっぽど効率よく――相互の思考を進展させ、同時にめいめいがちがった側面において、新しい問題に達することによって、ひろがりを深めていくのだった。

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これは、3500年後の未来人の会話を描写した一節なのだけれど、現在の我々が行っているネット上での議論、多数の掲示板や、ソーシャルブックマークや、ブロゴスフィアにおける議論のやりとりを強烈に連想させる。Twitterでのやりとりなぞ、上記の未来人の会話そのものだよな。
東浩紀は「文化系トークラジオ Life」にて、互いに理解しあわないで勝手に言いたいことを言っているコミュニケーションの方がリスクやコストは低いかもしれない、というか、人間のコミュニケーションとはそもそもそういうものだ、という意味のことを言っていた。
文化系トークラジオ Life: 2009/05/24「現代の現代思想」(東浩紀ほか) アーカイブ


お笑い番組というものは、その時代時代の実感や欲望やセンスやリアルを貪欲に取り入れ、発達していくものだ。そして、「思いついたコトすぐ言いたい芸人」は、この種の会話のリアルを番組に取り入れたのだ。


つまり番組としての「思いついたコトすぐ言いたい芸人」は、次世代のお笑いバラエティー・フォーマットの、一つの可能性であるかもしれない、と思う。十年や二十年前に、ひな檀トークというフォーマットがバラエティー番組を席巻するなど、誰が予想したであろうか。


と同時に、マンモスの牙のような、袋小路の象徴であるかもしれない。小松左京は上記の未来人の会話を、決してポジティブなものとして描写していなかったように。