『沈黙』のキチジローと山崎邦正(現・月亭方正)

先日映画『沈黙 -サイレンス-』とその原作小説『沈黙』についてニコ生で話したのですが、

どうしても文章にして残しておきたいことについて書きますよ。


沈黙 (新潮文庫)
遠藤 周作
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沈黙 -サイレンス-』は小説『沈黙』の映画化として凄くよくできています。
遠藤周作が原作小説の中で扱っていたテーマ――

  • 日本人でありながらキリスト教徒である矛盾
  • 私にとって神とはなにか
  • 最もみじめであり、最も美しく、傍らにいて見守ることで救済するキリスト

――といったものを、完璧に映像化しています。


それも、単に文章から映像に置き換えるのではなく、監督マーティン・スコセッシが自分の人生を重ね合わせた上での映画化という点が素晴らしいです。
マーティン・スコセッシにとって「信仰」は最重要なテーマでした。
スコセッシはこうして映画をつくってきた
メアリー・パット ケリー Mary Pat Kelly
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スコセッシは、ニューヨークに住むイタリア系アメリカ人らしくカトリックの家庭に育ち、高校卒業後に神学校に進むも一年で退学しました。離婚が禁止されているカトリックであるにも関わらず5回結婚し、ドラッグと女性に溺れました。
ミーン・ストリート』、『タクシー・ドライバー』、『レイジング・ブル』といった映画では、まるで懺悔や告解のように主人公が独白しながら後悔したり、自己に罰を与える与えるようなクレイジーな行動を繰り返す主人公が描かれます。
グッドフェローズ』、『クンドゥン』、『ウルフ・オブ・ウォールストリート』といった映画では、主人公が一番大切な人間を裏切ったり、裏切られたりします。
『最後の誘惑』では「ユダに励まされるキリスト」や「(マグダラのマリアとセックスして)ふつうの生活を夢見るキリスト」といった描写で、カトリックのみならず多くのキリスト教徒を激怒させました。
そして脚本家ポール・シュレイダーと何度目かのコンビを組んだ『救命士』は、スコセッシにとっての神無きニューヨークの彷徨=地獄めぐりの話でした。


そんなスコセッシ作品の多くに共通する特徴を挙げれば、以下のようになるでしょう。

  • 主人公は誰かを裏切ったり、誰かに裏切られる。その結果「勝利」せず、「敗北」するが、ある意味で負けていない。
  • 裏切り=罪であるが、罪を犯した、これからも犯してしまうである自分は、どう生きれば良いのか?
  • 最低な男、最も罪を背負う男こそ、(キリストのような)最も聖なる男であり最も格好良い、ということを開き直りではない形で(しかしながら自分自身に酔う形で)描く


……つまり、キリストの受難劇を何回も何回も繰り返しているわけですが、こう考えると、如何に『沈黙』がスコセッシにとって相性の良い原作だったかが分かります。『沈黙』の映画化はスコセッシにとって28年越しの念願の企画だったそうですが、まるで踏み絵の上で遠藤周作とスコセッシがマッスル・ドッキングしたような名コンビっぷりです。


これは、篠田正浩版の『沈黙』と比較してみると明らかです。
Silence 沈黙 [Import anglais]
遠藤周作
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篠田正浩監督が原作発表のわずか5年後、1971年に映画化した『沈黙 SILENCE』は、脚本に遠藤周作が参加しているにも関わらず、原作やスコセッシ版と真逆といっていい結論に至ります。
カソリックでは神父が結婚することはおろか、セックスすることは禁じられていますが、篠田版『沈黙 SILENCE』のロドリゴは最後、あてがわれた日本人嫁の乳房にむしゃぶりつきます。これは、主人公にとって完全なる敗北を表します。
何故篠田監督はこのような描写を選んだのか。篠田正浩は、大島渚と「戦友」の仲であった松竹ヌーヴェルバーグの旗手ですが、学生運動にのめりこんでいた大島渚と同じような背景を持ち、同じように新左翼的でアナーキーな反権力的心情を作品に盛り込んでいました。だからこそ、『沈黙 SILENCE』の件の描写には、大島渚にとっての『日本の夜と霧』のように、学生運動(というか安保闘争)の敗北が反映されていると言われています。
一方で、スコセッシ版『沈黙 -サイレンス-』は、日本人嫁を娶らされるものの、性交するシーンは出てきません。それどころか、神の声を聞き、日本で手に入れた○○○を握ったまま埋葬されます。○○○を貰ったのは誰か、神の声を本当に聞いたのか……等々を考えれば、スコセッシ版『沈黙』のロドリゴが「負けた(棄教した)けど負けていない(信仰は棄てていない)」のは明らかです。きっと、こちらのロドリゴは童貞のまま死んだはずです。


念のために書いておきたいのは、 篠田版『沈黙 SILENCE』は別につまらない映画ではない、むしろ面白いということです。映画は原作者のものではなく、監督(もしくはプロデューサー)の管理下で作られるものなのですから。
ですが、どちらが原作『沈黙』のテーマをよりよく反映しているかは明らかでしょう。



そんな素晴らしい映画『沈黙 -サイレンス-』ですが、一点だけ不満な点があります。
本作でキチジローを演じているのは窪塚洋介なのですが、あまりにもリア充すぎて、ミスキャストではないでしょうか?


原作『沈黙』でのキチジローは、徹頭徹尾「弱い人間」「愚かな人間」として描かれます。
家族全員が焼かれる中、自分のひとりだけ棄教します。司祭が現れれば「信心戻し」にて信仰を回復します。立場と状況によって棄教と信心戻しを繰り返すのです。自分が神父たちを日本に連れてきたと周囲に自慢しますが、立場が悪くなると「おれは関係ない」と責任を放棄します。周囲からの反感や蔑みには、卑屈な笑みを浮かべることでやりすごします。そして、いつもみすぼらしいみなりをしています。


キリスト教における「正しい」「悪い」と「強い(知的、美しい)」「弱い(愚か、みすぼらしい)」は全く別の概念です。「悪」でも「美しい」存在はいますが、「正しい」か「正しくないか」に関わらず「弱い」者は存在します。
そして、徹底的に弱き者、愚かな者たちが生きるためには、「正しい」者たちの犠牲を伴うのです。本作におけるモキチやイチゾウやモニカたちのように。


だからこそ「宗教や信仰が人を救うためのものならば、そのような徹底的に弱き者、愚かな者たちにも救いが与えられなければ、その宗教や信仰自体がウソである」といった構造が、宗教を扱った伝説や物語に頻出することになります。最も有名なのは、新約聖書におけるイスカリオテのユダでしょう。
更に、この構造にこういった結末がつくこともあります「だから最後は弱き者、愚かな者のおかげで皆が救われる」――これは宗教を扱った作品だけでなく、何かを「信じる」ことをテーマに掲げた作品に、よく出てくる構造です。
『最後の誘惑』や『ジーザス・クライスト=スーパースター』といったキリストの受難劇をユダ含めて題材にとった作品に頻出しますが、近年も有名なのは、『ロード・オブ・ザ・リング』におけるゴラムでしょう。


ロード·オブ·ザ·リング4分の1スケールフィギュアゴラム Lord Of The Rings 1/4th Scale Figure Gollum
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ロード・オブ・ザ・リング』(とそのプリークエルである『ホビットの冒険』)におけるゴラムは、頭髪も体毛もほとんどなく骨と皮ばかりに痩せこけたみすぼらしい格好で、にも関わらず頭の仲は「一つの指輪」に対する欲望でいっぱいで、一方で自分よりも強い者には臆病で卑屈な顔を見せる、”Pity(哀れ)”と呼んでしまうのも頷けるキャラクターです。
しかし、祖父であるビルボがかけた”Pity(情け)”がフロドを救い、指輪を破壊し、全世界を救うことになるのです。


さて、そんなキチジローを『沈黙 -サイレンス-』では窪塚洋介が演じているわけですが、彼に「弱さ」や「卑屈さ」や「愚かさ」や「哀れみ」を感じるでしょうか?
放流
窪塚洋介
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だって窪塚洋介ですよ。ピースな愛のバイブスでポジティブ・チューニングでアイキャンフライな窪塚洋介ですよ!
窪塚洋介/卍LINETIMEW (INFOREST MOOK)
窪塚 洋介 柿本 ケンサク
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「愚かさ」は感じるかもしれませんが、「弱さ」や「卑屈さ」や「哀れみ」はほとんど感じません。
むしろ、人生を楽しんでいる強ささえ感じます。


たとえば、皆が十字架に唾を吐きかけるのを躊躇する中、窪塚のみが唾を吐き、磔刑を免れるのですが、ポジティブ・チューニングでアイ・キャン・フライな窪塚洋介は、唾を吐く姿すら格好良いのです。イッセー尾形演じる井上筑後守が思わず顔をしかめる不敬さというよりも、ラッパーやメジャーリーガーが噛んでいたガムを路上に吐くのと同じ類の格好良さを感じてしまいます。


たとえば、窪塚が腰布というかふんどし一丁で皆の前に引き出され、踏み絵を踏んだ後遁走するというシーンがあるのですが、ピースな愛のバイブスで溢れている窪塚の身体は、良い感じに引き締まった挙句に日焼けしており、遁走というか、このまま浜辺までランニングした後サーフィンしそうな勢いです。せめて、下腹が出ているとか、後頭部にハゲがあるとか、どこかしら哀れみを感じる身体なら良かったのですが。


たとえば、棄教した窪塚が神父に土下座して「信心戻し」をしてもらうシーンがあるのですが、土下座に特有の卑屈さなど一切感じません。そもそも、むしろ、これからビッグになって成り上がってやるんだという、マネーの虎の挑戦者的な、ギラギラ感を感じます。
そもそも我々が窪塚洋介に卑屈さなど感じたことがあったでしょうか? 大麻を礼賛した時も、アメリカ人を「アメポン人」と呼んだ時も、「左手にキングギドラ、右手にミスチル聞けるんだぜ」とのたもうた時も、どんなに世間で無様とよばれることをやっても、窪塚は窪塚らしく胸を張って、堂々としていたではありませんか。
そんな堂々さは、いつも窪塚らしく生きなければならない窪塚にとっては美徳でしょうが、キチジロー役に向いているとは思えません。


いや、分かりますよ。『沈黙 -サイレンス-』のキチジローが、スコセッシ過去作品、それも『レイジング・ブル』におけるデ・ニーロや『グッドフェローズ』のレイ・リオッタや『ウルフ・オブ・ウォールストリート』のディカプリオといった、アッパー系主人公の系譜に連なるということは。そして、ロドリゴが『クンドゥン』におけるダライ・ラマや『最後の誘惑』のキリストのような、受難に耐える主人公の系譜に連なり、前者の主人公が後者の主人公と互いを救い合っているような関係性になっているということは。


放尿
窪塚洋介
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でも、それでも窪塚洋介がキチジローというのはミスキャストだと思うんですよ!



じゃ、誰なら良かったかというと、自分は山崎邦正(現・月亭方正)を推したいわけです。
奇跡
山崎 邦正
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いや、分かりますよ。山崎邦正じゃ演技力以前に英語力に問題があるということは。
それでも、山崎邦正じゃなきゃ出せない「弱さ」や「卑屈さ」や「愚かさ」や「哀れみ」があると思うんですよ!


皆さんご存知の通り、山崎邦正は現在49歳、ヘタレキャラでならしているお笑い芸人です。
ガキの使いやあらへんで』では、ホルスタインモリ夫にゴボウで殴られたり、熱々の中華あんかけをかけられたりする「VSモリマン対決」、年に一度番組卒業宣言するも誰にも相手にされず、遂にはステージで踊りだしてしまう「さよなら山ちゃん」……といった「弱さ」や「愚かさ」を笑いに変えてきたことで有名です。


なんといっても紹介しなくてはならないのは「ヤマラム」でしょう。

ヤマラム」とは、裸に汚しのボディペインティング、そしてハゲヅラと、山崎邦正によるパロディーキャラです。
映画ではアンディ・サーキスがWETAの最新技術パフォーマンス・キャプチャーでCGIに芝居させたゴラムを、山崎邦正はデジタルの力を一つも借りず、完全再現しています。
ゴラムとスメアゴルの二重人格もネタとしてきっちり再現し、「さよなら山ちゃん」と合わせたネタには、浜田ですら思わず「おもろいなあ……」と呟いてしまう完成度の高さでした。

youtubeにアップされるや、”best gollum actor in the world””rofl Yamazaki is an amazing actor!”と、外人にも大ウケです。
CGで描かれたゴラムと、人間がパンツ(とハゲヅラ)一丁で演じたヤマラム、いったいどちらに「弱さ」や「卑屈さ」や「愚かさ」や「哀れみ」をより多く感じるでしょうか?
自分は、後者だと断言します。
この「ヤマラム」そのままの格好で、キチジロー役を演じれば良いと思うのですよ。


一方で山崎邦正には現状を冷静に見極め、派手さや格好よさよりも実利をとるという面もあります。
たとえば、山崎邦正は2013年に落語家に転身して芸名を「月亭方正」に変えると同時に、活動拠点を東京から大阪に移しましたが、こんな目算があったからなのだそうです。
僕が落語家になった理由
月亭方正
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「バラエティ番組の全盛期を経験した月亭は、昨今のテレビ業界の凋落ぶりに、かなりショックを受けている。後輩も増えて、本人は『ジリ貧になるだけ』と嘆いていました。同世代の東野幸治今田耕司らとは、会えば『不景気の今の時代、ギャラも年齢も中途半端にいってる我々がリストラされる』と、頭を抱えながら話しているそうです」(お笑い業界関係者)
(中略)
「『M‐1グランプリ』以降、とかく東京偏重となったお笑い界。関西の吉本芸人も上京志向が強くなり、今や超ベテランと若手しか関西に在住していない状態です。関西のお笑い界は、中堅層が“空洞化”しているんですね。そんな中、月亭レベルの中堅芸人が関西に移住となれば、ローカルの情報番組のコメンテーターなど、落語家以外の仕事も多く舞い込んでくるでしょう」

山崎邦正こと月亭方正、ギャラダウンでも落語家転身の裏に「生活安定」の勝算|サイゾーウーマン


更に、山崎邦正のパブリックイメージの一つに「弱さ故に平気で他人を裏切る」というのがあります。

最も有名なのは、大晦日に放送される「笑ってはいけない○○」での山崎でしょう。ここで山崎邦正は例年、「蝶野にビンタされたくないため平気で仲間を売る」というネタ、というかシチュエーションコントをやっているのです。
「弱さ故に神父を裏切るキチジロー」にピッタリではないでしょうか?


そんなわけで、50年後に『沈黙』が再映画化される再は是非とも山崎邦正を主演に……するのは無理でしょうから、DVDで『沈黙 -サイレンス-』を鑑賞する際には脳内で窪塚を山崎邦正に変換したいところです。