全てを破壊し、全てを繋ぎ、全てをぶっちゃけろ!:『仮面ライダー×仮面ライダーW&ディケイド MOVIE大戦2010』

−−−−これまでのディケイドはっ!


最強のイマジンにして総てを司る最強ライダー・仮面ライダーシラタロス!
ヒーローと正義 (寺子屋新書)
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バトルロワイヤル、民族浄化、「キャラ」による代理戦争等々……これまで、様々な形でのライダーバトルを影から画策し、そこから発生するエネルギーにて成長を繰り返してきたシラタロスであったが、10年という節目に最高最大のライダーバトルを思いつく。それは、これまでの9年間で舞台にしてきた9つの世界が覇権をかけて争いあう、ライダー同士のバトルロワイヤルを越えたバトルロワイヤル、「ライダー大戦」というものであった。祭りを!一心腐乱の大祭を!
「これは10年に一度というより、30年に一度の作品です」
水嶋ヒロ、佐藤健らを輩出! ”ライダー系イケメン”製造秘話を明かす|サイゾーウーマン


しかし、既存のキャラを用いて同じようなバトルを繰り返しても、発生するエネルギーは微々たるものだ。そこでシラタロスは盟友である仮面ライダー敏鬼ではなく、三陽五郎をメインライターとして迎え入れた。
そしてシラタロスと五郎は、来るべきライダー大戦用の新しいライダーを一山いくらの若手俳優を素材にしたイケメン改造手術にて生み出す。一心腐乱の大祭用ライダー、「仮面ライダーディケイド(decayed:腐った、腐敗した−−)」の誕生である。その名は、既存の世界観とキャラクターをセットでリメイクして売りなおすという商魂逞しさを、クリエーターとしての魂が腐っていると批判されたことに由来する。


シラタロスと五郎との手により、通りすがりの仮面ライダーの視点にて語り直される、古くて新しい9つの世界観とキャラクター。シラタロスの下僕イマジンである竜太ロスの演出能力も相まって、ディケイドによるライダーバトルは大人気を博した。そこから発生するエネルギーで肥え太るシラタロス。
「いや、ぼくたちは10年間必死に特撮番組作ってきただけで、その結果としてディケイドがあるんですよ」


だが、予期せぬ事態が発生した。9つの世界を回る途中、プラスアルファに過ぎなかった「劇場版の世界」を巡る見解の相違から、三陽五郎がシラタロスの元を去っていったのだ。下僕ライダーじゃなかったライターや盟友を呼び寄せるも、途端に低下するライダーバトルのクオリティ。


このままではジリ貧だ。そこでシラタロスは禁断の秘術に手を染め、封印された死者の墓を暴くことにした。昭和ライダーの召喚である。BLACK、RX、真そしてアマゾン……。平成ライダー以上に異形な昭和ライダーに、歓喜の叫び声を上げる子供と大人たち。何故か今更人気を博す仮面ライダーアマゾン


調子にのったシラタロスは、ライダー史上、いや日本特撮史上、これまで特撮界では禁忌となっていた禁断の計画をぶち上げる。世界の亀山モデルの特撮への導入、すなわち「続きは劇場版で!」である。てっきりテレビのみで完結するものと思っていた視聴者は怒り心頭。第三勢力であるB. P. O.機関も介入を決意する。


しかし、それら怒りや介入も、全てシラタロスのエネルギー源であった……。
「映画があろうとなかろうと、あの終わり方だったんです。たまたまテレビシリーズが大変好評を頂きまして、急きょお正月映画としてやりましょうという話になっただけで、最初から(映画に)誘導する意図はなかったんです。」
苦情殺到の『仮面ライダー ディケイド』「続きは映画で!?」の真相を直撃!|日刊サイゾー




……というわけで、テレビ版の最後に放映された予告と全然違う『仮面ライダー×仮面ライダーW&ディケイド MOVIE大戦2010』を観てきたのだが、やっぱり自分は平成ライダー、それも白倉ライダーが好きなのだなと、改めて思い知ったよ。なんというか、幼い頃から特撮番組を観続けてきた自分のような人間にとっては、人工甘味料や合成着色でギッタギタなディケイドを初めとする白倉ライダーに抵抗することは難しいのだな。
というのはさ、本作は「ディケイド編」→「W編」→「MOVIE大戦編」という三部構成になっているのだが、「MOVIE大戦編」はともかくとして、どう考えても第一部の「ディケイド編」は映画として異形なわけよ。隣席の子供のお供で来ていた夫婦なぞ中盤から( ゚д゚)ポカーンなわけよ、子供は喜んでいたけれども。「W編」が映画として真っ当なものだったこともあって、特に今回は異形さを強く感じた。


どこが異形かというと、大きく二つに分けられると思う。
まず、本作には通常ヒーローが守るべき一般市民が全く出てこない。遂に夏海までもがライダーに変身し、登場人物は全員ライダーもしくは悪役となった*1。ある意味、完璧な世界だ。『アースX』という、あらゆる人間が特殊能力を持った地球を舞台にしたアメコミがあるけれども、それを東映が、おそらく無意識のうちに、やってしまったわけだ。何十人ものウルトラマンが出てくるけれど、そのほとんどがヒーローでも悪役でもない光の国の一般市民だった『ウルトラ銀河伝説』とは対照的だ。


もう一つは、頻繁に登場人物が死んだり生き返ったりすることだ。おまけに死んでも爆発のみで、出血や死体は描写されない。これぞゲ・ゲ・ゲ・ゲーム的リアリズム!と叫びたいところであるが、考えてみれば池ポチャやワープは東映特撮のお家芸*2。こちらは、未就学児童に血や死体を見せられないというレイティング以外に、意図的な理由があると思う、本作においては。


多分、「ディケイド編」は、もう最後なんだからいろいろぶっちゃけちゃおうぜ!というテーマの下に作られたんじゃなかろうか。それも、ストーリーラインとか伏線の回収とかシリーズ全体の整合性などよりも、「ぶっちゃけること」の方が優先順位が高い、という作り方で。例を挙げるなら『エヴァンゲリオン劇場版』、それもいきなり観客席を映す実写映像をインサートして「アニメを捨てて街へ出よう!」とメッセージをぶっちゃけた最初の劇場版「THE END OF EVANGELION」に近い作り方だ。
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それでは「ディケイド編」が伝えたかったメッセージとは何か?ちょっと長いが、それは下記のようなことだと思う


「ぼくたちがやりたかったことは、新し目の中古コンテンツを伝説化して今後数十年に渡って売り易くする、金儲けだったんです。でも、それじゃ『ディケイド』という作品が可哀想。だから少なくともぼくたちだけは「ディケイド」が好きだと叫びました」或いは「『ディケイド』も今後数十年に渡って売れるようにしました」



仮面ライダーディケイド』という作品の目的は何だったのか?それは『平成ライダー』の「伝説化」だ。
「伝説化」とは何か?たとえば『昭和ライダー』のほとんどは既に伝説だ。特に一号、二号、V3といった初期昭和ライダーたちは今更続編や再放送をしなくても、一定の数玩具が売れる。『仮面ライダーSPIRITS 』に代表される、マンガやゲームといった二次創作的商品も絶えず作られている。
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平成ライダー』も、『昭和ライダー』のように「伝説化」したい。その為に『仮面ライダーディケイド』という作品があった。ディケイドが平成ライダー達と戦い、視聴者に強い印象を残すことで、『平成ライダー』という作品は「伝説化」される。
ここでいう「伝説化」には「キャラ化」が含まれる。内面を持ち、作品内で成長し変質し、背後に人生や生活を想像させる「キャラクター」に対する「キャラ」、すなわち「キャラ/キャラクター」概念でいうところの「キャラ化」だ。
だからオリジナルキャストは不要だ。生身の体を持った俳優であるオダギリジョー水嶋ヒロが変質したら、「キャラ」も変質してしまう。それは最早「キャラ」ではない。商品展開上も都合が悪い。
一方、脇役は「キャラ化」にそれほど影響を与えない。モモタロスは十分に「キャラ化」しているので、オリジナル声優で構わない。そして「BLACK」と「RX」については既に「伝説化」しているし、やはりオリジナルキャストが出演すれば瞬間風速的に盛り上がるので、トータルで考えて利益が大きい、という判断だろう。
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以下ネタバレ。


そういうわけで、完結編たる本作の冒頭、門矢士は全ライダーを破壊せんと行動している。ここで平成ライダーに交じってJやスーパー1やスカイライダーといった比較的「伝説化」の足りないライダーが登場する理由は、夏の劇場版をやった以上、平成ライダーだけでなくマイナーな昭和ライダーにも責任を負わざるを得なくなったからだろう。


次に電波人間タックルというマイナーキャラが非オリジナルキャストにて登場する。彼女は「士だけが私をみてくれたの」などとのたまい、士に付き従う。しかも、彼女は死人であるという。彼女はどう考えても『ディケィド』という作品によって改めて陽の光を当てられ、『伝説化』された古いキャラクターの象徴だ。


全てのライダーを破壊した士は、たった今世界に誕生したライダー、仮面ライダーキバーラの攻撃をかわさ無い。何故なら最早彼に目的はないからだ。放送期間が終わり、新ライダーが誕生したら、『ディケィド』という作品は不要となるのだ。


その後、蘇る平成ライダーたちとその世界。本作のプレエピソードであるところの31話最後に登場した紅渡と剣崎一真がオリジナルキャストであったのに対し、ここで死から蘇るライダーたちのキャストがオリジナルでないことに注目したい。これは『ディケィド』という作品がこれまでやってきた「伝説化」や「キャラ化」のストレートな隠喩だ。


そして、ディケィド自身もカードの力で蘇る。カードにはこれまで士がディケィドとして巡ったリ・イマジン世界、非オリジナルキャストな世界での思い出が描かれている。最後に、先程までスクリーンを賑わしていた非オリジナルキャストの電波人間タックルとの思い出を描いたカードにて、ディケィドは蘇る。これは『ディケィド』という作品自体も「伝説化」「キャラ化」したことを意味する。


本作の魅力はそういった小難しいメタファーを、テンポの良いライダーバトルのつるべ打ちで見せるという爽快感に尽きる。ディケィドの反則的強さ、Jの巨大感、そして仮面ライダーキバーラのエロさ。
だけれども、付き添いのお父さんお母さんといった一見さんには全く理解できない内容だったのが欠点だろうか。その一方で、テレビ版を何度も何度も繰り返し観たような熱心な現役視聴者にとっては、長々と上記したメタ的内容なぞわざわざ口に出すまでもないあたり前なことかもしれない。すまん、一応書いておきたかったもので。


……というわけで、これまで『ディケィド』という作品がやってきたことをメタ的にぶっちゃける、完結編にふさわしい内容だった。
ただ、やはり妄想してしまうのは、會川昇だったらこれを上回るメタ視点と面白さを両立したんじゃないかということだ。本作は白倉伸一郎からみた『ディケィド』周辺事情という視点から成り立っていると思うのだが、會川昇だったらそんな白倉Pをも内包した視点からの物語を生み出したんじゃないかと思うのだ。それこそ、擬人化された世界精神にしてゲームマスターたる仮面ライダーシラタロスがラスボスとして用意されているような。

*1:屋台のオヤジは勿論園咲家の配下です

*2:池ポチャやワープは平成ライダーの悪しき風潮!なんて言ってる奴は、すぐ奥多摩の吊橋から落下したり採石場にワープしたりする昔の戦隊モノをあんまり観てないんだと思う