春のオールライダー・オール戦隊映画の楽しみ方について:『平成ライダー対昭和ライダー 仮面ライダー大戦 feat.スーパー戦隊』ほか

日曜日に『プリキュアオールスターズ』についてニコ生で喋る予定です。皆様、お暇なら観ていただけると喜びます!
ニコ生マクガイヤーゼミ5月号「プリキュア オールスターズ」 - 2014/05/18 19:00開始 - ニコニコ生放送


その中で、『仮面ライダーディケイド』から始まる平成ライダークロスオーバー作品の数々――いわゆる「春のオールライダー映画」についても語りたいのですが、資料を作ってみたところ、どうみても放送時間内に収まらない感じです。念のため、ここにブログエントリとしてまとめておきます。

2010年1月『仮面ライダーディケイド』テレビシリーズ

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平成ライダーの十作目に『仮面ライダーディケイド』という作品があります。
十作目を記念し、歴代ライダーが登場するクロスオーバー作品なのですが、ただのクロスオーバーではありません。『555』は学園もの、『剣』は会社もの……といった具合に、オリジナルと似ているけれども若干異なる(しかし象徴的な)9つの世界*1をディケイドが旅し、その世界のライダーを「認め」、共闘する……みたいな話が一つのフォーマットです。「認めた」結果、各ライダーはトランスフォームし、ディケイドの武器や乗り物になります(当然、この玩具が発売されました)。それぞれのライダーに変身する若者たちもオリジナルとは異なる役名で、異なる役者が演じていました。


何故、オリジナルの世界を旅しないのか*2。これには大きく分けて二つの理由があります。
一つは、オリジナル番組に出ていた役者のうち何人か――オダギリ・ジョーや要潤*3や事務所を辞める直前の水嶋ヒロはライダー出演時に比べてビッグになりすぎ、ニチアサジャリ番組ではキャスティングしにくい状況にあったからです。
もう一つは、コンテンツ・ビジネス上の理由です。変身ベルトやソフビ人形といった玩具やグッズは、一年間のテレビ放送が終わると一気に売上が落ちます。子供は「型落ち」で「古い」ヒーローに見向きもしないからです。
しかし、ウルトラマンガンダムのような「伝説のヒーロー」になれば話は違います。勿論、リアルタイム放送時(現役時)ほどの売上は見込めませんが、それなりの水準で安定した売上が長期間続くのです。身売りする前の円谷プロが、歴代ウルトラシリーズのグッズ売上で新作ウルトラ作品の制作費を稼いでいた――というか、赤字を補填していたのは有名な話です。


ディケイドがオリジナルとは若干違う世界を旅する――紹介し、認める。十作目にこのステップを踏むことで一種のブランド化を果たし、「型落ち」だったコンテンツが「伝説」に格上げされるわけです。「全てを破壊し、全てを繋げ」というキャッチコピーにはそういったことがよく表れています。オリジナル作品を(偏)愛していたファンにとって、『ディケイド』という番組は「破壊者」にしか見えないでしょう。


『ディケイド』前半で脚本を務めていた會川昇はこういったビジネス上の要求に応えつつ、活劇としての魅力を両立させた脚本を書いていした。初回から最終回のような緊張感漂うテンションの高さは明らかに會川昇の仕事のおかげです。映像作品としての評価は毀誉褒貶の激しい『ディケイド』ですが、全て會川昇脚本だったら良かったのにという声も多いです。というか、自分は最後まで會川昇脚本な『ディケイド』を観たかったです……だから、『ウィザード』の最終二話には狂喜しました。


一方、『ディケイド』後半やその後のオールライダー映画で脚本を務めた米村正二の仕事ぶりについては「わけわからん」とか「物語の意味が通らない」とか、散々な評価をされることが多いのですが、自分の考えは違います。米村正二は『ディケイド』のストーリーにより一層のメタ的視点を取り入れたのです。つまり「『ディケイド』で儲けようとする関係者」とか「『ディケイド』に戸惑う視聴者」とかいった隠喩の大幅*4な導入です。


たとえば後半になって「ディケイドに物語は必要ない」といった台詞を敵が吐くようになりました。これは「過去コンテンツ復活番組である『ディケイド』にちゃんとしたストーリーなど必要ない(と言ってる人達もいる)」という意味でしょう。
途中からシンケンジャー昭和ライダー世界があることが分かったのは「番組中盤でシンケンジャー昭和ライダー出すことを決めたため」ですし、同一世界の物語である筈の『Black』と『RX』がそれぞれ世界として独立しているのは別番組だからです。ディケイドの持つ「世界を渡る力」や「歴代平成ライダーに変身できる力」、「新しい能力を与える力>は「他の番組コンテンツにアクセスする力」「利用する力」「新しい商品価値を与える力」というわけです。


もっといえば、米村正二は劇中におけるキャラクターの心情や行動論理や設定の一貫性やお話の辻褄あわせよりも、メタ視点や隠喩の方を重視するようになりました。
そういったメタ的表現が最もよく現れているのが劇場版です。

2010年8月『劇場版 仮面ライダーディケイド オールライダー対大ショッカー』

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特撮(映像) 石ノ森章太郎
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たとえば『劇場版 仮面ライダーディケイド オールライダー対大ショッカー』です。「平成オールライダー・オール戦隊映画」の第一作といえる映画ですが、初めて昭和ライダー平成ライダーが大集合した豪華作にして話題作である反面、シネマハスラーで散々な評価をされたように、ツッコミどころの多い映画でした。


本作では、それまで記憶を失っていたディケイドの目的が「ライダー同士が持つ引き合う力のせいで進みつつある世界の崩壊を止めるため、各世界のライダーを倒し、各世界を征服すること」であること、そのために大ショッカーの首領を務めていたことが分かります。
その後、色々あって、ディケイドは大ショッカーに裏切られます。「世界の崩壊の原因がライダーであるというのは大ウソ」「士の<世界を渡る力>を利用して各世界に侵攻するための「橋」を作るのが大ショッカーの真の目的」だったのです。それまで『ディケイド』に全く出てこなかった大神官ビシュムやシャドームーンがディケイドを大ショッカーから追い出します。
しかし、GACKT演じる結城丈二の叱咤激励を受け、「自分の居場所を探す」ために「罪を背負って孤独であっても戦い抜く」立ち上がります。……ここら辺で大半の観客は置いてけぼりです。ライムスター歌多丸の言うように「話がムチャクチャ」ですね


しかし、「(本来優先させるべきでない)メタ視点を優先させている映画」という視点でみてみると、面白い点に気づきます。
「各世界のライダーを倒し、各世界を征服すること」は「『ディケイド』という番組がビジネスのために旧『仮面ライダー』を破壊し、変質し、取り込むこと」ではないでしょうか。つまり、そういう風に過去コンテンツを上手く利用してお話を作れと上層部やらスポンサーやらに要求されている作り手の心情を反映させているわけです。
それは過去コンテンツを愛しているファンからみれば「罪」であり、それを無視しても『ディケイド』を作り続けることは「孤独な戦い」であることでしょう。それでも、彼らは『ディケイド』を作り続けなければなりません。「せっかく作るのならば、単なる販促フィルムではなく自分達なりに面白いものを作ろう」というのが、ディケイドの「居場所探し」というわけです。


ディケイド――門矢士の妹である門矢小夜が過去コンテンツの悪役である大神官ビシュムに変身できたり、「地の石」でクウガを「最も邪悪なライダー」である「ライジングアルティメットクウガ」に改変できたりするのも、ディケイドと同じように「他の番組コンテンツにアクセスする力」「利用する力」「新しい商品価値を与える力」を持っているからです。そんな門矢小夜は自分を忘れ去り、様々な平行世界で「遊びまわっている」兄に反発しています。つまり門矢小夜は作り手の中にも『ディケイド』製作に違和感を持つ層がいることを反映させているわけです。


面白いのは、「自分の居場所」を無くしたディケイドが『ディケイド』という番組のオリジナル登場人物である光夏海に助けを求めるも、「私の世界に入ってこないで下さい」と拒絶されることです。『ディケイド』という番組は過去コンテンツ無しでは原理的に成り立たないのです。
「全ての世界を拒絶された」ディケイドは「言い換えればどの世界も俺の世界にできるということ」と、ある意味で開き直って、大ショッカーに戦いを挑みます。これは「どんなに老害ファンが反発しようとも、俺たちは俺たちなりに面白いと思える『ディケイド』を作り続けるぜ!」という作り手の宣言なのではないでしょうか。
ここに参戦してくる歴代ライダー(の一部)が倉田てつを賀集利樹といったオリジナルキャストなのは「(改変される前の)オリジナル・コンテンツも俺たちを応援してくれている筈」という、ある意味で都合の良い思い込みかもしれませんが

2010年12月:『仮面ライダー×仮面ライダーW&ディケイド MOVIE大戦2010』

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『ディケイド』という物語の締めくくりとなる『MOVIE大戦2010』も、『オールライダー対大ショッカー』と同じようなコンセプトで作られて入ると考えています。


本作には通常ヒーローが守るべき一般市民が全く出てきません。遂に夏海までもがライダーに変身し、登場人物は全員ライダーもしくは悪役のどちらかです。ある意味、完璧な世界です。
更に、頻繁に登場人物が死んだり生き返ったりします。おまけに死んでも爆発のみで、出血や死体は描写されません*5
これらは「メタ的視点をより徹底的にやりきる」という作り手の姿勢が現れた結果ではないでしょうか。


また、本作には電波人間タックルというマイナーキャラが非オリジナルキャストにて登場します。彼女は「士だけが私をみてくれたの」などとのたまい、士に付き従うものの、死人であるというのです。
彼女は『ディケィド』という作品によって改めて陽の光を当てられ、『伝説化』された古いキャラクターの象徴でしょう。


全てのライダーを破壊したディケイドは、たった今世界に誕生したライダー、仮面ライダーキバーラの攻撃をかわしません。何故なら最早ディケイドに目的はないからです。放送期間が終わり、新ライダーが誕生したら、『ディケィド』という作品は不要となるからです。


その後、色々あって、それまで倒したライダーたちと共に、ディケィド自身もカードの力で蘇ります。カードにはこれまで士がディケィドとして巡った改変世界、非オリジナルキャストな世界での思い出や、電波人間タックルとの思い出が描かれています。これは『ディケィド』という作品を通して過去コンテンツが蘇り「伝説化」したと同時に、『ディケイド』自体も「伝説化」したことを意味するのではないでしょうか。
より詳しくは以前に書いたこちら↓のエントリを参照下さい。
http://d.hatena.ne.jp/macgyer/20091217/1260984137
まさに『ディケイド』の締めくくりに相応しい内容であると自分は考えています。まぁ、その後もオールライダーもしくはオール戦隊映画が年に一回もしくはそれ以上作られることになったのですが、

2011年4月:『オーズ・電王・オールライダー レッツゴー仮面ライダー

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翌年の春に公開されたのが仮面ライダー40周年を記念して作られた『オーズ・電王・オールライダー レッツゴー仮面ライダー』です。ディケイドが全く登場しない映画ですが、本作も「細かい辻褄合わせよりもメタ視点や隠喩を重視した」映画――「春のオールライダー・オール戦隊映画」の一作でしょう。
少年の記憶を利用して40年前――1971年に逃げたモールイマジンを追い、仮面ライダーオーズ仮面ライダー電王と共に時の列車デンライナーで40年前に戻ります。無事モールイマジンを倒したものの、1971年の世界にセルメダル*6を忘れてきてしまいます。
これを1971年当時のショッカーが拾ったことにより、歴史が変わってしまいます。仮面ライダー1号2号はセルメダルから誕生した怪人に敗北し、40年経った現在、ショッカーが世界を支配するディストピアになってしまったのです。歴史を修正するため、電王は1971年に向かいます。ところが、そこにオーズの相棒であるアンクと、ナオキ・ミツルという少年2人組が乗り込んでいたのです……


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そんな本作のお話は『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の『1』と『2』に似ています。しかし、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』がタイムトラベルものにありがちな矛盾やロジック破綻を極限までそぎ落としていたのに対して、本作のお話は対照的です。
何故か存在していないはずのV3以降のライダーの存在を皆が知っている、何故かアンクが腕のまま飛びまくっていても死なない、何故かナオキがミツルの父親になる、何故か改変された現在の映司が二回目のタイムトラベルを知っている、何故かキカイダーイナズマンが出てくる……本作のお話は矛盾や破綻だらけです。


それでも、自分は本作が大好きです。


現在の仮面ライダーであるオーズ――映司から勇気を学んだナオキは、40年前の世界に置いてけぼりになります。そして少年ライダー隊の少女と結婚し、おっさんの姿で現代に――我々の前に現れます。そして、そのおっさんナオキが洗脳された最初のライダー――仮面ライダー一号、二号を元に戻し、歴代ライダー復活のきっかけとなります。
しかも、そのおっさんを演じるのが、よりによってささきいさおなんです!
ISAO SASAKI SONG BOOK-Greatest Best-40th Anniversa
佐々木功 コロムビアゆりかご会 こおろぎ’73 ヤング・フレッシュ 堀江美都子 チャープス ミュージカル・アカデミー 杉並児童合唱団 田代彰彦とウエスタン・キャラバン コロムビア女声合唱団 ロイヤル・ナイツ
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これの意味するところは明白です。
つまり、ナオキは現役ライダーの視聴者である今の子供の象徴であると共に、40年前から面々と続く仮面ライダーシリーズの視聴者の象徴なのです。子供であり、おっさんであるわけです。しかも、40年間過ごしていない、40年間ライダーを見つづけていない、現在の子供の象徴でしかないミツルの父親でもあります。
ささきいさおは『仮面ライダー』のみならず東映特撮シリーズで大きな役割を果たしてきました。最初の『仮面ライダー』と『ZO』で博士役を演じ、『ゴレンジャー』と『メタルダー』の主題歌を熱唱し、『ジャスピオン』で黄金の鳥を追いかけました。
日本の特撮とアニソンを象徴するささきいさおが、40年間特撮とアニメを見つづけてきた我々に重なるわけです。


全てが解決した後、「40年前に戻って本来の歴史に戻そう」というオーズや電王の申し出を、ささきいさおは断るります。「ノッコと結ばれて、ライダーと共に生きてきたこの40年間、ぼくは幸せだった」と、「おれの青春は輝いていた」と、「おれの人生は満たされていた」というわけです。


たとえ改変された世界でも、たとえフィクションでも、ライダーを愛して幸せだったこの40年間を認める――そういう意味が込められているのではないでしょうか。
より詳しくは以前に書いたこちら↓のエントリを参照下さい。
ぼくらは全員ささきいさお!:『オーズ・電王・オールライダー レッツゴー仮面ライダー』 - 冒険野郎マクガイヤー@はてな
はっきりいって、怪獣博士や少年ライダー隊には嫉妬まじりの不満タラタラなのですが、こんな「伝説」扱いで――最近のハリウッド映画におけるイーストウッドやレッドフォードみたいな扱いでささきいさおを出してくれただけで満足です。主題歌をささきいさおが歌ってくれれば完璧だったのですが、そこまで望むのは贅沢なのかもしれません。


本作に手ごたえを感じたのか、「細かい辻褄合わせよりもメタ視点や隠喩を重視した」映画、それも単なるクロスオーバーを超えたオールライダー・オール戦隊なオールスター映画が毎年春に公開されることとなります。

2012年4月:『仮面ライダー×スーパー戦隊 スーパーヒーロー大戦』

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「春のオールライダー・オール戦隊映画」は、はっきりいってしまえば現代の『東映まんがまつり』であり、お祭映画なわけですが、去年と全く同じ規模のお祭を繰り返しても、去年と同じくらい盛り上がりません。絶えず、インフレを求められるわけです。
そこで作り手は仮面ライダースーパー戦隊を競演させることにしました。
しかし、ただ単に競演させても面白くないありません。そこで作り手が仕込んだのが「戦争」のモチーフです。
本作ではライダーと戦隊が戦います。単に戦うだけではありません。戦争をしているのです。これが、一種異様な感覚を映画に呼び込みます。


本作の中盤までは、何故ライダーと戦隊が戦うかについて明確な理由が示されません。意味も分からずヒーローたちが殺しあっている――かのようにみえます。
本作の主人公も我々視聴者と同じ心持ちからスタートします。主人公の一人として登場するゴーカイブルーやグリーンは当初、ライダーとの戦いを拒否します。
しかし、仲間である戦隊が倒されると、「よくも○○を殺したな!」「○○のかたき!」と、戦いに参加するようになるのです。政治家でも指導層でもない人間が自ら戦争に参加するようになる理由は、崇高なイデオロギーでも、国民国家への忠誠でもありません。「身近な人間の死」という、卑近で肉体的でどうしようもない人間臭さこそが戦争の理由なのです。そして、日ごろ「正義」を標榜し、弱者を救うヒーローでさえ、戦争からは逃れられません――そんな、異様なリアリティが本作にはあります。
同様のことは『ディケイド』のライダー大戦の回でも描かれていましたが、クロスオーバー作品というジャンルで、しかも一本の映画としてしっかり描ききったことに価値があるでしょう。


一応本作のクライマックスでは、何故ライダーと戦隊が戦っていたかについての種明かしがなされます。「敵を騙すにはまず味方から」というような、マンガチックで泥縄的な理由です。そんな結末が悪意たっぷりにみえてしまうのは、本作が映画として現実への批評や批判を含んでいるからでしょう。

2013年4月:『仮面ライダー×スーパー戦隊×宇宙刑事 スーパーヒーロー大戦Z』

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絶えずインフレすることを宿命づけられた「春のオールライダー・オール戦隊映画」ですが、今年はライダーと戦隊に加えて宇宙刑事が参戦することとなります。「ライダーと戦隊」VS「宇宙刑事(銀河連邦警察)」という対立軸です。昨年の映画でライダーと戦隊が仲良くなってしまったため、仕方が無いのです。


魔法で戦うライダー――仮面ライダーウィザードは、ある日突然宇宙刑事ギャバン(二代目)に襲われます。なんでも二代目ギャバンによると、現在宇宙全域で謎の魔法の暴走現象が発生しており、その原因がウィザードにあるというのです。
魔法の暴走が続けば地球のみならず宇宙全体も破滅の危機にさらされてしまいます。そこで銀河連邦警察は超次元砲を撃って地球ごとマドーとスペースショッカーをこの宇宙から消滅させてしまうことを決定するのです。


当然、ライダーやスーパー戦隊といった地球のヒーローたちはこれに反抗するのですが、ここで注目してしまうのは、地球のヒーローも宇宙のヒーローも、それぞれが自分達のことを正義と考えている点です。
日本という国の独自性や孤立性がガラパゴスに喩えられることがあります。日本での正義は世界の正義ではありません。日本の常識は世界の常識――グローバルスタンダードではありません。こういったことは21世紀以降、よく言われるようになってきた言説ですが、本作における地球と宇宙のヒーローとの関係性は、21世紀以降の日本とグローバル世界との関係性を反映しているのではないでしょうか。ライダーやスーパー戦隊宇宙刑事も、個人個人でみれば皆「正義のヒーロー」に値する好人物であり、悪者ではない点が、より一層この関係性の隠喩を連想させてしまうことになります。地獄への道は善意という石畳で舗装されているのです。


そんな本作ですが、世間の評判は悪いです。
悪評の最も大きな理由は、超次元砲で地球を破壊する命令を銀河連邦警察の隊長である初代ギャバンが出す展開でしょう。初代ギャバンこと一条寺烈を演じるのはオリジナルキャストである大葉健二です。しかもギャバンは地球人と宇宙人のハーフという設定です。あのギャバンが、俺達が子供の頃にテレビの中で地球を守っていたギャバンが、おっさんになったらこんな無能上司になるなんて……これは本作で最も居心地が悪い展開でした。こんな展開になったのは、興行のためならキャラを使い捨てる東映と、無能脚本家米村と、守銭奴プロデューサー白倉のせいに違いない! ……と皆激怒したわけです。


しかし、自分はこの展開に、またしても異様なリアリティを感じてしまいました。
たとえば、国連総長になった○○人が、母国である○○国をフェアに扱うどころか軽視するのはよくあることです。それは、世界のために働かなければならない国連総長が母国を贔屓しているという印象を周囲に与えてしまったら、その座に値しないと思われてしまうからです。
また、若い頃は権威や体制に挑戦的だった人物が、年をとると保守的になることも、前東京知事を引き合いに出すまでもなくよくあることです。
どんなに高潔な人物も保守的になる。どんな組織でも腐敗する。作り手がそこまで考えたかどうかは分かりませんが、はからずしもそういうことを描いてしまった……そんな恐ろしさを感じました。


本作はお祭り映画です。だから、最後には全部スペースショッカー&宇宙犯罪組織マドーの仕業ということになり、ラスボスを倒してチャンチャン……ということになります。その泥縄感というかルーティン感も悪意たっぷりでした。
様々な「世界」の対立や和解こそが現実であることを反映したこういったクロスオーバー映画やオールスター映画の秀作であると自分は考えています。

2014年4月:『平成ライダー昭和ライダー 仮面ライダー大戦 feat.スーパー戦隊

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宇宙刑事まで出してしまった「春のオールライダー・オール戦隊映画」。次に参戦することになるのはキカイダーか、それとも他のメタルヒーローか、はたまたロボット刑事か……と大きなお友達の予想や妄想をかきたてていた本シリーズですが、本作では「平成ライダー昭和ライダー」という、ある意味でスケールダウンした構図となりました。
これまで通俗的に使用されて来た「平成ライダー」と「昭和ライダー」という分類ですが、作品内で言及されるのは初めてとなります。これを盛り上げるために、作り手は様々な仕掛けを施しました。


平成ライダーVS昭和ライダーの勝敗の結末を決める投票、一号ライダーのオリジナルキャストである藤岡弘、の本格的出演、XやZXや555のオリジナルキャストの出演…… 「平成ライダーだと? 甘ったれるな!」というメタフィクションばりばりな台詞を藤岡弘、が叫ぶ予告編には、メタ視点大好きな自分は大いに興奮したものです。


その興奮は、全く裏切られない出来でした。
本作で昭和ライダー平成ライダーを敵視する理由は、普通にみていたら全く理解できません。何の脈絡も無く「おのれディケイド!」と叫ぶことでお馴染み鳴滝は「胸に手をあてて考えてみろ」と言い、ディケイドは実際胸にあてて「だいたいわかった」などと言います。しかもそれが、一種の笑いどころとして演出されるのです。またしても観客は置いてけぼりです。
しかし、鳴滝は観客の隠喩であるというメタ視点を持ち込むこと、そして本郷猛が「平成ライダーたちは、甘っちょろい優しさから死者への未練を引きずっていることが全ての元凶」という台詞と共に戦いを挑んでくること、ゲストである仮面ライダーフィフティーンも少年シュウも死者であることから、だんだんと戦いの理由が分かってきます。


『ディケイド』以降の平成ライダーは過去ライダーのコンテンツを大いに利用し、活用してきました。テレビ番組というものは生き物です。そして、放送が終わればコンテンツとしての番組はある意味で「死」にます。「死者」になるのです。番組単体の魅力で勝負せず、過去ライダーのコンテンツを利用し続けること、すなわち「死者への未練を引きずっていること」が、昭和ライダー(を作った人たち)からみれば許せないのです。そういったことを、昭和ライダーの象徴である本郷猛こと藤岡弘、に言わせてるわけです。
また、本作における悪の組織であるバダンは死者の軍団であることが名言されます。
バダンはテレビ放送されなかった『ZX』における悪の組織です。ZXを演じた菅田俊がスパイとしてバダンに潜入していること、バダンの最終目的が死者の世界と生者の世界をひっくり返すメガ・リバース計画であることは、「放送=生」「放送終了=死」というアナロジーと無関係ではありません。菅田俊「長年、屈辱を耐え忍んだ……」という台詞にしびれます。
仮面ライダーフィフティーンや少年シュウが最後まで生き返らないのは、生き返ってしまったらこのアナロジーが成立しなくなるからでしょう。


555のオリジナルキャストであった半田健人が言う台詞もまた奮っています。
「からっぽな心を闘いで埋める。その罪は俺が背負う」
時折「老害」と呼ばれることもある、昭和ライダーの熱狂的ファンは、平成ライダーを散々批判してきました。曰く、平成ライダー昭和ライダーに比べて商業的に過ぎる。平成ライダーは「からっぽ」である。「闘い」すなわちアクションやCGのクオリティが充実していることは認めるが、存在自体が罪である。
しかし、その罪は俺――『平成ライダー』という番組自体が背負う、という宣言のように聞こえてくるのです。


本作における「平成ライダーVS昭和ライダー」の構図は「平山亨がプロデュースしたライダー番組VS白倉伸一郎がプロデュースしたライダー番組」の隠喩であるといって良いでしょう。映画の最後に平山亨や長石多可男への献辞が捧げられていたり、Xと555がチョイスされていたりするのは、ちゃんと意味があるのです。


メタ視点での構図を優先した結果、本作も表面的な物語はさっぱり分からないものになってしまいましたが、前述した予告編や、そもそも「平成ライダーVS昭和ライダー」という構図や投票で映画の結末を決めるという仕組みがメタ的なことから、段々とメタ性に気付く観客も増えてくるようになりました。継続は力なりですね!

まとめ:楽しみ方について

波止場 [Blu-ray]
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こんなふうに作り手の心情やその際の気持ち、政治状況を反映させている映画やテレビや映像作品は沢山存在します。
『波止場』や『真昼の決闘』が当時のアメリカの政治状況――赤狩りを反映させていたことは有名です。
アニメで有名なのはガイナックス作品でしょう。『王立宇宙軍』の主人公たちがロケットを飛ばすことはガイナックスがアニメを作ることを反映させているとか、『トップをねらえ!』のウラシマ効果で友人との間に微妙な距離ができてしまう演出は、アニメ製作を離れて一般企業に就職した友人との関係性が基となっているとか、『エヴァンゲリオン』の主人公の父である碇ゲンドウには『ナウシカ』を手伝った時の監督としての宮崎駿像が反映されているとか……みたいなことが言われています。
スタジオカラーVSガイナックス:『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』 - 冒険野郎マクガイヤー@はてな
また、作り手の心情共に歴史的状況を反映している映画もあります。『デビルズ・バックボーン』や『火垂るの墓』は舞台となった内戦時のスペインや第二次大戦当時の日本がおかれた状況を反映しているという見方もあります。周囲の大人とコミュニケーションをとらず孤立し餓死する清太は、周囲の国と孤立して戦争に追い込まれ敗戦する日本の寓意というわけです。


一つ違うのは、繰り返しになりますが、劇中におけるキャラクターの心情や行動論理や設定の一貫性やお話の辻褄あわせよりも、メタ視点や隠喩の方を重視している点です。勿論、そのメタさや隠喩のレイヤーや深さは作品ごとに違います。
これを(會川昇は決してやらなかったであろう)ご都合主義であり、安易さであると呼んでしまえばそれまでですが、自分にとっては作り手の悪意や批評精神や悪ふざけの発露であるようにみえて、ちょっと面白いわけです。もっといえば、ここを汲み取ることこそが楽しみ方(の一つ)であろう、と思うのです。
来年の春も楽しみだ!

*1:その後、増えることになりますが

*2:後に作られたスーパー戦隊版ディケイドである『海賊戦隊ゴーカイジャー』はオリジナル役者が登場しました

*3:主役ではありませんが

*4:当然、會川昇もそういったことを多少意識して書いていたでしょう

*5:これはテレビ版も同様でしたが

*6:『オーズ』世界の怪人のエネルギー源みたいなもの