ゴセイジャーにイライラ:『スーパー戦隊祭 侍戦隊シンケンジャーVSゴーオンジャー 銀幕BANG!!』

侍戦隊シンケンジャーVSゴーオンジャー 銀幕BANG!!(特別限定版) [DVD]
八手三郎
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長年にわたりVシネ枠でひっそりと発売され続け、子供と大きなおともだちの密かな楽しみであった戦隊VSシリーズであるが、『ふうけもん』公開中止の尻拭いとして『ゴーオンジャー VS ゲキレンジャー』を劇場公開してみたら結構客が入って関係者がホクホク。それなら今年もと棚ボタ的に劇場公開された『シンケンジャーVSゴーオンジャー』を観てきたよ。いや、なんか前置きが長くなってお恥ずかしい。
で、内容はというと、シンケンジャー6人+ゴーオンジャー7人に加えて『ゴーオン』にて魅力タップリに女幹部を演じた及川奈央まで登場しつつ、ドラマとしては新旧レッド2人に焦点を絞ったシンプルさに好感が持てる作品であった。
特に、シンケンレッドがゴーオンレッドにかける「本物とはそういうものだ」みたいな台詞にはグッときた。なんか、最後の大盛り上がりに影武者云々を持ってきたテレビシリーズをリアルタイムで視聴してる身としては、興奮しちゃうのだな。『スーパー戦隊祭』なんて題名は象徴的で、テレビの通常放送が「日常」なら、劇場版は「祭」なのだな。日常をきちんと送っているからこそ祭りではじけることができるわけで、やっぱり東映小林靖子に足向けて寝られないなと思ったよ。


ただ、本作には来年度のスーパー戦隊であるゴセイジャーが顔出し的な立ち位置で参戦*1するのだが、ちょっとこのゴセイジャーにはイラっとしたな。特に、腑破十臓や薄皮太夫を瞬殺するシーンにはイライラした。
これはさ、やっぱりゴセイジャーがこの時点においては内面の無い「キャラ」でしかない一方、テレビ版を視聴している観客にとっての腑破十臓や薄皮太夫はきちんと悩んだり苦しんだりする「キャラクター」であるという事実が大きいと思う。
テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ
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この映画一本だけみると、腑破十臓や薄皮太夫っていうのはゴセイジャーと同じくゲストキャラ的扱いにみえる。だって、この2グループが戦う場面というのは映画にとって不必要で、どう好意的に考えても新戦隊のプロモーション映像にしかみえないから*2
でもさ、毎週熱心に日曜朝の放送を観ている子供たちや我々大きなおともだちにとっては、そうじゃないんだよな。人と外道の狭間であがきつづける、業深き哀しき存在、つまりは内面のある人間そのものにみえる。


特に、薄皮太夫なんてここ数年のスーパー戦隊で一、ニを争う名キャラクターだと思う。番組当初は、血祭ドウコクと過去に何かあったんじゃないかと、単純に思っていた。こういう特撮番組によくある、敵幹部同士の過去の因縁→内紛→自壊みたいのをやられるのかと。
でも、小林靖子が戦隊でメインを張るのももう何年目かで、そんなお決まりコースをやらないわけよ。

腑破十臓もそうなのだが、薄皮太夫は元々人間だ。「太夫」の名の通り、薄雪という名の花魁だった。薄雪は自分を身請けすると言ってくれた武士、新座と愛し合う。しかし、新座は薄汚いヘルス嬢なんかではなく、JJモデルみたいな町娘とくっついちゃうのだな。怒り心頭で結婚式に乗り込み、火を放って、自分もろとも新座を焼き殺す太夫。勿論、件のJJモデルも焼死だ。
しかし、炎の中にあっても花嫁を探す新座の姿に、薄雪は絶望する。


「最後までわちきではないのか!」


この世だけじゃない。あの世においても、新座を他の女と結ばせるわけにはいかない。そんな薄雪の女の情念と怨念と喪女のパワーが、彼女の身を外道衆――薄皮太夫へと転生させた。外道の力で、新座の魂も三味線に変わる。だから薄皮太夫はどんな時でも三味線を手放さない。こういったエピソードが過去の話として本編中で語られる。
そんな薄皮太夫に血祭ドウコクは完全にホレている……のだが、昔の男を忘れられない太夫はドウコクのことなど相手にしない。外道衆としての力量はドウコクの方が何倍も勝っているのだが、ドウコクの願いは太夫と愛し愛される関係になることなので、結局何もできないのだ。別に太夫を支配したいとかセックスしたいとかじゃないのだな、子供番組だからという理由ではなく。
しかし、何百年経っても新座に対する思いを捨てられない太夫は、ドウコクに自分を斬れと頼み込む。


「外道に堕ちて数百年。身内にある思いは一向に晴れん。泥のように溜まるばかりだ。斬れ!思いごと全てバラバラに!それこそ骨まで!わちきが望んでいたのはきっとそれだ」


でも、太夫の「女」という性を見透かしているドウコクは、太夫を斬る代わりに、三味線に火をつけちゃうのだ。パニックになってその場を飛び出す太夫。以後、数ヶ月に渡ってなんとか三味線を修復しようと人間界を彷徨う太夫の姿が描かれる。
その途中で、太夫は筋殻アクマロという悪い男に騙されちゃうのだな、三味線の修復と引き替えに。で、色々ありながらも、ドウコクはアクマロから三味線を取り返し、自らの体の一部を使って三味線を修復して太夫に付き返す。ドウコクが壊したのだから当り前といえば当り前なのだが、その姿をみて薄皮太夫は気づくわけよ。自分の傍に、こんな良い男がいるのを、こんなにも自分を見てくれる男がいるのを忘れてたわ! と。
これが過去の回想エピソードという形ではなく、主人公であるシンケンジャー達の物語と並列で描かれる。つまり、薄皮太夫は血祭ドウコクとの間に過去に因縁があったわけじゃない、現在進行形の恋を生きてるわけだ。


この一連の流れが痛いほど胸に迫ってくる。というか、多分、小林靖子はあんまりモテなかったんだろーなー、いつも柱の影から好きな人を覗き見ていたような人生を送ってきたんだろーなー、なんて想像を逞しくしちゃうんだよな。


やっぱり、こんな薄皮太夫を倒して良いのは、父母との関係に悩んだり、自らの立場を押し隠すことに苦しんだりする、シンケンジャーだけなんだと思うんだよね。お前らにカカロットの何がわかる! ゴセイジャー太夫のなにが分かる! と。


以上は全部テレビ版の話で、映画『シンケンジャーVSゴーオンジャー』では全く言及されないのだが、どうしてもテレビ版の情報をデータベース的に参照してしまう観客の我々としては、このよう悩み苦しむ太夫がどこの馬の骨かわからない新戦隊に倒されるというのは我慢ならないのだな。つまり、いかに「悪い奴」とはいえ、しっかり内面のあるキャラクターが、たとえ「正義の味方」であっても内面なぞまったく感じられないキャラ(これが初登場だから当り前なのだが)に倒されることに、もの凄い不快さを感じてしまうのだ。


以前、島本和彦がラジオで、「マジンガーZ」の最終回でピンチに陥った兜甲児を颯爽と救うグレートマジンガーの姿をみて、グレートが大嫌いになったと言っていたが、おそらく同じような理由だと思う。


勿論、あと何週間か経って、ゴセイジャーの面々の人間的背景を理解できるようになったら、話は全く違ってくるよ。でも、本作の公開は『ゴセイジャー』開始の二週間前なわけで、それは不可能な話だ。
新戦隊活躍シーンをむりやりねじ込んだのは、せっかくこの時期に映画を公開するのならば、あと二週間でビジネスチャンスが終わっちゃうシンケンジャーじゃなくて、これから一年以上商戦を担うゴセイジャーを売り込んどこうぜ! という目的だと想像するのだが、というかそれ以外に理由が考えられないのだが、はっきりいって逆効果なんじゃないかと思うわけだ。
昨年夏の『劇場版 仮面ライダーディケイド オールライダー対大ショッカー』でも、同じような感じで仮面ライダーWが先行登場していて、その時は『ディケイド』という作品の構造もあってあんまりイヤさを感じなかったのだけれども、多分東映はこれから先も同じようなことをすると思う。でも、しない方が良いよ、という話でした。

*1:なんかスパロボみたいな表現

*2:勿論、所詮特撮番組なんて玩具を売る為のプロモーションでしかないんだという意見とはまた違ったレベルでの話だよ