友情・努力・勝利:『インビクタス 負けざる者たち』

インビクタス 負けざる者たち』観たのだが、いやスゴかったわ。イーストウッド、スゲー。傘寿近くでこれを作れるって、本当にスゴいと思う。


何処にスゴさを感じたかというと大きく分けて二つあるのだが、一つ目は映画全体としての隠喩の使い方だ。
イーストウッドアメリカ映画を体現する男だ。何十年間も昔から現在に渡って、映画界で生き延びてきた。だから、自分が映画界で置かれている立場とか、政治的な立ち位置とかに自覚的だ。それを踏まえた上でなおかつ、自らが発したいメッセージを発する叡智がある。『グラン・トリノ』なんかはまさにそういう作品だった。
グラン・トリノ [DVD]
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本作でのそれは、選挙で国民がまっ二つに引き裂かれたという状況がブッシュ再選後のアメリカを連想させるとか、南ア初の黒人大統領であるマンデラオバマを重ねちゃうとかいうことになる。つまり、1995年の南アを描くことで、現在のアメリカを照射したり、目配せしたりしてるのだな。まるでSFが遠い未来や異星での出来事を描くことで、目の前の現実に言及するかのように。
たとえば分かりやすい具体例でいうと、スタジアム上空にジエット機が近づいてきてSPが「すわ! テロ?」と慌てふためく場面なんてモロにそう。911以前に旅客機を使った自爆テロなんて可能性を本気で考えていたのは、タリバン以外では「日米開戦」を書いたトム・クランシーくらいだったので、あの場面で大統領を避難させようとするのはちょっと不自然なんだよな。
日米開戦〈上〉 (新潮文庫)
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でも、ポスト911を生きる我々としてはしっくりくるわけで、観客を信じてこういう演出を仕掛けてくるイーストウッドってスゲー! と思っちゃうわけだ。


もう一つは、本作ではスポーツの力=国の力という哲学が徹底されていることだ。
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最強伝説黒沢』というマンガの冒頭にこんなシーンがある。初めてサッカーのW杯に進出した日本チーム。それをテレビで仲間達と観戦する黒沢。シュートが決まる。「感動した!」と仲間達と抱き合って喜ぶ黒沢。だが、黒沢は心中でこう思う。


「感動などないっ…! あんなものに……オレが求めているのは……オレの鼓動……オレの歓喜、オレの咆哮.、オレのオレによる、オレだけの……感動だったはずだ…! 他人事じゃないか…! おんなに大がかりでも、あれは他人事だ…! 他人の祭りだ…!」


自分はこういう考え方が普通だと思うのだけれど、今の日本はそうじゃないよね。W杯やWBCで日本代表チームが点を入れれば国民のほとんどが盛り上がるし、勝てば称讃を惜しまない。それは、国民がそのチームを国の代表だと認めているし、国際試合で勝つことが国の強さの証明であるという価値観を共有しているからだ。
でも冷静に考えてみれば、それはちょっとおかしいんじゃないかとも思う。W杯で優勝してもGNPが上がるわけじゃないし、WBCで優勝したからといって一流国の仲間入りをするわけじゃない。
でも、我々はスポーツの強さ=国の強さという仮想世界に生きているので*1、どうしてもそう考えてしまうのだな。時に、オリンピックやW杯が国家間の代理戦争のように語られたり、北朝鮮フセイン政権下のイラクがW杯にこだわるるのには、そういう背景があると考える。
スポーツと国家、というか政治の関係は古くて、ローマ帝国が剣闘や戦車レースにこだわったのも、おそらく同様の理由からだ。いわゆる「パンとサーカス」というやつで、国家というものを運営していく為には、国民が盛り上がったり、気持ちを一つにしたりする為のサーカスが、時代や場所を問わず必要なのだな。


で、本作は、おそらくラグビーなんて全く興味の無かったマンデラが、ボロボロの国家を復興するに当たって、「どんな色のレンガも使う」的精神でラグビーの代表チームをサポートするという話なのだが、「国の力=スポーツの力」という哲学が、思想だけじゃなくて物理現象というレベルにおいても作品を支配してる点がスゲーと思ったよ。
元々は白人が作ったラグビーチームであるにも関わらず、段々と黒人もそのチームに誇りを持つようになってゆくとか、それに連れて白人と黒人が仲良くなっていくとか、そういうのが分かりやすい所であるけれど、決勝でニュージーランドオールブラックスと相対するところはちょっと凄かった。
ニュージーランド南アフリカと同じく、元々は白人の植民地だった。かつては白人と先住民族であるマオリ族との間に争いや差別があった。しかし、今は違う。白人とマオリ族から成る混成チームが、試合前にマオリの民族舞踊であるハカを踊っている。ハカを踊るシーンでは、必ずマオリ系と白人系のチームメイトを1カット内におさめているのは、おそらく偶然ではない。
対して、うちの国は黒人の方が多いのに、チームにいる黒人はチェスターだけだ。こんなにも民族融和の進んだ国に、つい先日までアパルトヘイトをやっていたわが国は、本当に勝てるのか? ――そんな感じでジリジリさせる演出が、本当に良かった。


勿論、1995年のラグビーW杯で、南アフリカが決勝でニュージーランドと対戦するというのは史実通りだよ。国内に差別があるかどうかがラグビーの勝敗に影響するなんてことは無いよ。でも、この映画内では「国の力=スポーツの力」という哲学が支配している、という演出方法をとっているので、ジリジリしたわけだ。
こういう手法はジャンプとかサンデーとかのスポーツマンガに多いのだけれど(友情=試合の勝利みたいな)、イーストウッドがこういう演出方法を採ったのには、ある種収斂進化みたいな理由があるんじゃないかと思う。


それにしても、本作ではイーストウッドの変態性をあんまり感じなかったな。たとえばピナールが刑務所を訪れる場面で、これまでのイーストウッドだったら、刑務所でマンデラがガンガン拷問されるシーンをインサートした筈なのだが、CGで半透明のマンデラを幻視するだけだった。
なんかなー……などと思っていたのだが、インタビューを読むと「撮影時のモーガン・フリーマンは交通事故の入院から復帰したばかりだったので、釈放されて弱ったマンデラをリアルに演じてくれてたよ。ウヒャヒャヒャヒャ!」なんてことを言っていて、やっぱりイーストウッドはスゲーやと思いましたとさ。

*1:いや、野球中継が延長して深夜放送の録画予約が乱れることを迷惑と感じる自分のような人間は違うけども