ポストコロニアリズムと『食人族』

この冬、最も観なくてはいけない映画といえば、『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』でも、『007 スペクター』でもなく、当然『グリーン・インフェルノ』であるわけだ。
月初めに観賞してきたのだが、当然のように面白かった。


せっかくなので、以前ブロマガで書いた文章を、ちょっと手直ししてアップしたい。


食人映画――イタリアン・カニバル・ムービーといえば、安い作り手が安い役者を使って作ったゲテモノ映画と考えている人もおられるかもしれないが、実のところどれも真面目に作られた映画だ。真面目でなければ、とてもじゃないが人が人を食べるシーンなんて撮れないだろう。


批評の一分野として、ポストコロニアル批評がある。
16世紀、いや古代ローマ時代の昔から、ヨーロッパ各国は侵略によって海外領土を獲得してきた。植民地、すなわちコロニーだ。
すごく大雑把に書くと、中南米は16世紀からスペインとポルトガルが、インドネシアは17世紀からオランダが、インドは18世紀からイギリスが、植民地として支配してきた。アフリカ大陸なぞ、19世紀も半ばになると、フランスが東海岸と西海岸、イギリスが南部と北部に植民地を作り、残りをドイツやイタリアが分け合う……といった具合に、欧米各国が群がるように支配した。第一次大戦も第二次大戦も、もとをたどれば帝国主義に基づく植民地獲得競争が戦争の理由だ。
ところが第二次大戦が終わると、世界各地の植民地が「解放」され、次々と独立することになった。戦争によって、それまで宗主国であったヨーロッパ諸国が経済的に衰退したのが主な理由だ。たとえ戦勝国であっても、6年にわたる戦争状態の維持は重い負担だったのだ。
以後、それまで西欧人にとっては「ロマン」であり、「チャンス」であり、「冒険」であり、ポジティブなものとして捉えられていた植民地政策は、次第に「搾取」であり、「収奪」であり、「暴力」であり、ネガティブなものとして認識されるようになってきた*1
そして遂に、これを契機にそれまでの長い植民地政策の歴史を見直そうというムーブメントが生まれた。
具体的には、それまで植民地だった国や文化圏から生まれた/生んだ文学作品や、帝国主義文化圏出身の作家が植民地をどのように描いた/描いているかについて、研究・分析するというもの――ポストコロニアル理論に基づくポストコロニアル批評の誕生だ。
これには、ヨーロッパ諸国の経済的衰退だけでなく、別の側面もある。人間の意識という面からみると、二度の世界大戦で「世界」を知ったヨーロッパの人々――文明人が、アジア、アフリカ、中南米といった第三世界に住んでいる人々は決して野蛮人ではなく、同じ人間であるということに気づいた、というのも理由の一つだ。


Cannibal Holocaust
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こういった歴史の流れを念頭に入れて『食人族』をみると、単なる見世物やゲテモノ的側面だけではなく、別の面もみえてくる。
『食人族』はそのほとんどがイタリアで作られた一連の映画群――イタリアン・カニバル・ムービーの一つだ。
本作では、食人族をフィルムに収めてビッグになろうという野心たっぷりのアラン率いる野心溢れる若者4人組が、アマゾンの奥地で原住民に対してやりたい放題やりまくる。原住民の飼っている子豚を撃ち殺し、原住民の女性をレイプします。これは明らかに宗主国による植民地支配が略奪であり、搾取であり、レイプのような蛮行であったことの象徴的表現だ。
一方で、原住民をなんとか理解しようと努力し、文明の象徴である服を脱ぎ捨て、原住民と裸同士で水遊びに興じるモンロー教授はポストコロニアル時代の、なんとかフェアであろうと努力する知識人の象徴といえる。
アランたち4人組は、報復として殺され、食べられる。アランはちんこを切り落とされ、4人のうちただ一人女性であるフェイはレイプされ返される。まさに因果応報だ。
一方、原住民と同じ立場で交流しようとしたモンロー教授は、原住民女性にやさしくちんこを弄られる。ちんこの扱いも対照的なのだ。
ここには、いかに歴史的な潮流があったとはいえ、現代の西欧人が元植民地に対して感じるであろう原罪的な罪悪感がある。もっといえば、歴史的に中南米を植民地としたことがない我々日本人が感じられない罪悪感を、西欧人はどうしても感じとってしまうのではないだろうか。最後に顕わになる「野蛮を撮影する文明人こそ野蛮」というテーマは、西欧では「植民地支配をする我々西欧人こそ野蛮」という告発として受け止められるわけだ。



さて、比較的若い国民国家であり、植民地の連合体から出発したアメリカは、あまり積極的な植民地政策をとってこなかった。ロシアを買収、ハワイを併合し、キューバプエルトリコ、フィリピン、グアムを植民地化しましたが、比較的すぐに独立を認めている。
一方で、アメリカは長い期間、自国民のマイノリティ――インディアンや黒人奴隷に対してその主権認めてこなかった。いわば、自国内に植民地があったわけだ。
映画大国であるアメリカでは、イタリアが作った『食人族』のような食人映画はほとんど作られなかった。代わりに作られたのは蘇った死体であるゾンビが人を食べるゾンビ映画だ。ゾンビ映画の祖である『地球最後の男』や『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』の吸血鬼やゾンビは、ベトナム反戦運動や公民権運動に敗れた若者や黒人の象徴だったのは有名な話だが、ゾンビ映画が食人映画のアメリカバージョンであると考えると、納得しやすい。


また。野蛮と文明の二分法的価値観に基づく食人映画の根底には、はっきりとした差別心がある。「どちらが野蛮か」という価値観の転倒は、「あいつらは野蛮である」という価値観を前提としないと成り立たないからだ。
しかし、今や世界中がインターネットと物流のネットワークで繋がれ、マサイ族が携帯電話でライオン狩りの情報伝達を行い、Amazon配送がブラジルにも届く、グローバル化の時代だ。
このような時代では、どちらも文明人であり、どちらも野蛮人である――というのが前提と存在します。食人族が携帯電話で連絡しあったり、ネットに食人サイトがあったり――という映画が現代の食人映画といえましょう。
だから、きちんとインターネットが登場し、食人組織が携帯電話で連絡しあう『ホステル』や『ホステル2』は現代の食人映画として良くできていると思う。


そんな映画を作り上げたイーライ・ロスが満を持して「未開の食人族」を登場させる『グリーン・インフェルノ』がどうだったのかというと……次のエントリを読んで欲しい。
2015-12-15 - 冒険野郎マクガイヤー@はてな


あんまり関係ないがせっかくなので、
日本は歴史的に西欧列強国による植民地化からなんとかサバイブするために、富国強兵と共にアジア各国を植民地しようと試みた、という側面がある。世界的な植民地政策の潮流において、被害者と加害者両方の側面があるわけだ。日本が作る食人映画もゾンビ映画もイマイチなものが多いのは、そういった歴史的理由もあるのかもしれない。
731部隊生物兵器としてゾンビ兵士を作ったり、バブル経済下で東南アジアに派遣された日本人駐在員が食人族に遭遇する――みたいな映画が成立すると思うのだが、なかなか作られない。かろうじて『マタンゴ』や『モスラ』にはそのような側面を描こうとした残滓のようなものがあった。誰か手塚治虫の『グリンゴ』を映画化しないかなあ。


ちなみに、ニコ生で『食人族』を扱った回はこちら。

*1:元々、初期の植民地支配――スペインやポルトガルによる中南米の植民地化は、富や資源を根こそぎぶんどり、天然痘や麻疹などの病気までひろめる、どこからどうみても略奪だった。 ただ、そんな植民地支配は長期的にみるとあまりメリットがない。いつまでも貧乏すぎる相手と取引すると、いつまでも旨味が少ないままになるからだ。そこで、18〜19世紀にイギリスやオランダが選んだ植民地政策は、相手国に投資し、インフラを整備して産業育成させ、「上前をはねる」というやり方だった。 それでも、(大勢の同国民が移民し、大規模な独立戦争で勝利したアメリカを除いて)国家としての自治や独立は完全には認められないままだった。植民地政策はやはり「搾取」であり、「収奪」であり、「暴力」だったのだ。故に、20世紀後半、第三世界で相次いだ元植民地の独立は、念願であり悲願であった