『グラン・トリノ』から学べるもの、学ぶべきこと、学ばない人

映画を観たり、小説やマンガを読んだ感想として、自分はよく「面白かった」とか「感動した」とかいう言葉を使う。
他人の感想やブログやTwitterなんかでもそのような言葉を使う人は多いのだけれど、その「面白かった」とか「感動した」って具体的にどういうことなのだろうか。
自分にとっての「面白かった」や「感動した」は、例えば映画を観る前と後とで自分の一部が決定的に変わるような何かを受け取ってしまった場合のようなことをいう。フィクションのせいで自分の心の一部がリアルに変質したようなことをいう。それがフィクションの、というか物語の面白さだと思う。
これは映画や小説やマンガを愛する人にとって自明のことで、わざわざ口に出したりこうやって文章にするまでもないことだと考えていたのだが、そういうわけでもなかったんだな、と思ってしまうことがあった。


グラン・トリノ [DVD]
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あのさ、去年公開された『グラン・トリノ』という映画があるじゃないですか。映画観る習慣のある人なら絶対に観てる、まぁ、傑作ですよ。
アメリカ映画」を一人で体現する男クリント・イーストウッド渾身の一作であり、「イーストウッドの映画史」「アメリカ近代史」「他民族国家アメリカ」「アメリカン・ウェイの継承」等々……様々な見方が可能な出来の良い映画であり、宇多丸師匠いうところの「2009年の映画ベスト1が『グラン・トリノ』じゃない人は、それより上位にランクした映画に何がしかの理由がある筈!」的な傑作であるわけですよ。
だから、皆が褒めてる。私も褒めた。そして感動した。確かに『グラン・トリノ』は良い映画だ。


でもさ、ある時ネットの海を漂っていたら、『グラン・トリノ』に「感動した!」と叫んだその口で、「外国人参政権反対!」とかいってるブログをみつけちゃったのだな。おいおい、ちょっと待て。キミは『グラン・トリノ』の何に「感動した!」んだ?


こういうことを書くと、『グラン・トリノ』に「感動した」ことと外国人参政権を認めることは全くの別問題だ! と反論する人が出てくるかもしれない。ある意味では、「感動した」という言葉の定義問題を脇に置いておくなら、その通りだよ。ここはアメリカじゃないし、日本の自動車会社はグラン・トリノなんて車作ってないし、日本にラオスの難民はあんまりいないし、日本は先進国で最も難民を受け入れない国だし、近所にクリント・イーストウッドみたいなオヤジは住んでいない。
でもさ、どんな映画からでも普遍的なメッセージというやつを読み取ることはできるわけじゃん。ミーアキャットが子育てする姿を見て家族を大切にしようとか思ったり、餓死するシロクマの姿をみて涙したりするわけじゃん。いわんや『グラン・トリノ』のコワルスキーじいさんをや。
つまり、本当に「感動した」のなら、違う民族の人間に対してもっと寛容になる筈なんだよな。無闇矢鱈と異民族を排斥しない筈なんだよ。たとえ政治的観点から反対するにしても、絶対になんらかのエクスキューズが付く筈なんだよ。


そうならないのは何故か。


多分、映画というものを完全に別の世界の出来事だと思っているからだ。映画の中の出来事と現実とは、全く関係ないと思っているからだ。私はゲームばっかりやってる子供だったので「ゲームばかりせずに現実を見ろ!」的なことを良く言われたのだが、なんということはない、現実を見ないのはゲーマーに限った話ではなかったのだ。


もしくは、島本和彦いうところの心に棚を作っているのだな。「それはそれ、これはこれ」ってヤツだ。安倍晋三がまだ首相だった時に『硫黄島からの手紙』を観て「感動した!」とコメントしたのと同じだ*1


身も蓋もない言い方をしてしまえば、本気で感動していないのだな。


つまりこれはさ、○○人だから××みたいな問題にみえて、実はそうではない。嘘っぱちで絵空事で100%フィクションな物語から、何を受け取るかという問題だ。絵に描いた餅であるフィクションを現実に変えるのは観客の仕事なのだから。


ついでに書いておくと、いったいオマエは外国人参政権に反対なのか?賛成なのかと問われれば、条件付で賛成といったところだ。きっちり納税してる人にはきっちり政治に参加する権利も義務もあるけれど、日本語話せない人ばかりになったらそれはそれで困るわけで、外国人参政権を議論するよりも、帰化条件の明示や帰化申請を容易にする議論の方が先なのではないかと思う。勿論、自民党が反論として持ち出す以上の真面目さで。

*1:最後の最後まで自決を拒否する若者を主人公に据えた時点で、作品の主張は明らかである筈なのに