来るべき虚淵ライダー:『語ろう!クウガ・アギト・龍騎』

次の秋からの新ライダー『仮面ライダー鎧武』の脚本が虚淵玄であることが発表された。わくわくである。自分は『フォーゼ』や『ウィザード』のコメディっぽさがあんまり好みじゃなくて、ここ最近の『ウィザード』がシリアスになっていることに興奮しているクチなのだが、虚淵玄が脚本で久しぶりの多人数ライダーということは、当然ながらライダー同士の命を賭けたバトルロイヤルとか、1クールごとに世界改変とか、最後は全員死ぬとか、怪人と組んで人類粛清するとかループして最初に戻るとかやるんだろうなーとか妄想してしまう。


虚淵ライダーといえば、先日虚淵玄がライダーについて語ったインタビュー本が発売され、ちょっと前に読んでみたら大層面白かった……などと思っていたところに虚淵ライダーの発表だ。うへぇ。
語ろう!クウガ・アギト・龍騎 【永遠の平成仮面ライダーシリーズ】
レッカ社
4862551785

(新たに手がけている子供向け作品について問われて)
虚淵 すいません、まだそれについてはお話できないので(笑)。

(『クウガ』のマインドに立ち戻った「毒」満載のライダー脚本を期待するという言葉に対して)
虚淵 もしもそんなチャンスが訪れたら……頑張るしかないですね(笑)。

その気で読んでみると、含むところありありの内容だ。
公式Twitterによると、どうやらインタビュー時も来期ライダーの脚本を務めることを知っていたらしい。

良い機会ということで、きちんとご紹介したい。


本書でインタビューされるのは7人――順に紹介すると、毎週ラジオで映画評を披露するラッパーで御馴染みライムスター宇多丸、前述したゼロ年代を代表する脚本家である虚淵玄、史上初の女性仮面ライダーを演じた加藤夏希ゼロ年代に対する一つの回答であった『鈴木先生』を描いた漫画家 竹富健治、アニメや特撮の評論で著明な評論家 切通理作、そして本書を読むような人間なら既にご存知であろう、『クウガ』『響鬼』のプロデューサー 高寺重徳と、『電王』以外の平成ライダー初期十作全てに携わった脚本家 井上敏樹である。
切通理作が書いた記事は何度も読んだし、高寺Pや井上敏樹のインタビューも幾度となく読んだ。中には切通理作が二人にインタビューしたものもあった。しかし、宇多丸虚淵玄や竹富健治がこれほどの分量で平成ライダーについて語るのは珍しい。
果たして、本書は切通理作井上敏樹にインタビューした『特撮黙示録』で特撮に目覚めたことを興奮気味に語る宇多丸のインタビューから始まる。一応、初期三作を中心に語るというテーマではあるものの、話は平成ライダースーパー戦隊ウルトラマンといった特撮番組の現在や未来、特撮以外のアニメや一般ドラマにまで及ぶ。ある意味ボンクラ偏差値の高い内容なのだが、各人の話し方やまとめ方が上手いので、すんなり読める。
特撮黙示録1995‐2001 (オタク学叢書)
切通 理作
487233678X


面白いのは、複数のインタビューイーが同一の作品やテーマに関して正反対の意見を述べていることだ。
たとえば『アギト』の終盤の展開に関して、「完全に上手く終わってるエヴァ」と絶賛しているのに対し、虚淵は脚本家の立場から「終盤の方向転換に難あり」と残念がっていたりする。「そもそも自分が悪の組織の後継者らしい」「BLACKとシャドームーンのどっちが勝ってものゴルゴムの勝ちというノーフューチャーぶりにシビれた」と『BLACK』を絶賛する虚淵に対し、アシスタントプロデューサーとして参加した高寺は「この程度で新しいのか……」と絶望していたりする。平成ライダーにシビアでシリアスなものを求める武富に対し、コメディ要素が多くなった『W』や『フォーゼ』も認める宇多丸は時代と向き合った内容を求め、最後に井上が「時代なんて考えたことは一度もない」とひっくり返す。
とりわけ面白かったのは高寺と井上の好対照ぶりで、オタク的アプローチを大切にする高寺に対し、井上は「視野が狭い」とオタクを切り捨てたりする。インタビュー時間を自ら延長したり、思わず感極まったりするほど入れ込む高寺に対し、「とにかくホンウチ(脚本打ち合わせ)が長い。12時間とか20時間とか平気でやる」と揶揄する井上という構図は爆笑だった。ユリイカ増刊に掲載されていた角川書店社長 井上伸一郎による評――高寺と白倉伸一郎という二人のプロデューサーの持つ異なる価値観の衝突こそが平成ライダー進化の原動力ではないか――を思い出すエピソードであった*1
ユリイカ2012年9月臨時増刊号 総特集=平成仮面ライダー 『仮面ライダークウガ』から『仮面ライダーフォーゼ』、そして『仮面ライダーウィザード』へ・・・ヒーローの超克という挑戦
白倉伸一郎 國分功一郎 高岩成二 井上敏樹 宇野常寛 川上弘美 井上伸一郎 福士蒼汰 井上正大 綾野剛
4791702425


一方で、こんなにも立場が違う論客達が「作り手の真摯な姿勢」=「子供番組は子供のために作っちゃいけない」という点においては、意見の一致をみているのだ。
宇多丸や武富が「こんなにシビアなことを扱っているテレビドラマはない」と絶賛したり、加藤夏希が劇場版の1キャラクターを演じただけなのに十数年経っても未だに仮面ライダーファムと呼ばれることへの驚きと自覚を語ったりする。
「非暴力をテーマとしてリアルに描くにはリアルな暴力を描くしかない」と肩に力の入った高寺に対し、「特撮はキャラの生死を描かざるをえないのだから、普段は書けない異常なドラマを書ける」と構造的利点を語る井上は、一見正反対にみえて実は同じことを語っているのだ。


もう一つ共通していることは、平成ライダーの作風変化への認識だ。初期平成ライダーはシビアでシリアスだったが、現在はコメディやファンタジー的要素が強くなってきている。『龍騎』の浅倉威のような犯罪者ライダーを登場させることはもう難しいだろう――というのが作り手のみならず受け手からも出てくるのだ。
で、肝心の虚淵玄なのだが、どうもこの状況に抵抗しようと試みているも、難しさも感じているようなんだよね。

クウガ』のマインドにもう一度立ち戻ってほしいという思いはありますけど、それが難しい現状も大変よくわかるので……

やむを得ないですよね。自分の好みとしては「毒」はあってほしいですけど、今それが許可される流れなのかといったら、全然違うでしょうし、そういう思いで動かすにはコンテンツそのものが大きすぎるんですよね。このシリーズにはいろんな思いで参加している人が大勢いますし、その思惑の中には一人ひとりの子供たちのお母さんも含まれていると思います。


とはいっても、石原慎太郎から敢えて東京アニメアワード脚本賞を受け取った虚淵玄のこと。下記のような発言を読むと期待してしまう。

クウガ』は、そういう特別な能力のあるなしじゃなくて、問題というのはもっと根本的な勇気や責任感で解決していくものなんだよっていうのをちゃんと見せてくれていたんですよね。

普段は完全に人間の顔をしていて、周りからは見分けがつかなくて、そのくせこっちからは理解も及ばないような理由で、ただ人間を虐殺していく。グロンギのあのシリアルキラー感っていうのは、子供が子供なりに感じ取る、最悪の化け物だったろうなって。

(『ブラスレイター』や『まどかマギカ』といった虚淵作品では人間が怪物になってしまう恐怖が重要なテーマになっているという指摘に対して)
まさにそれこそが、自分が子供の頃に感じた仮面ライダーという作品の醍醐味じゃないかなって気がするんですよ。

たとえばの一例ですけどね。記録映像でヒトラーユーゲントの子供たちがユダヤ人の家に落書きしたりするとか、ああいう光景を見ていて、これが優等生の行いだって奨励されていた時代に、もしも自分がいたら、やっぱり同じことをしたんじゃないかって。
ある一定の民族が国をダメにして、そいつらがいるおかげでお前のお父さんは仕事がもらえない、みたいなことを延々と大人たちから説教されたら、やっぱりやっちゃっていたのかな俺も……って思った時に怖くなりましたね。その結果としてガス室送りのような話があるわけで、周りの流れに乗ってしまうってことは、子供ながらに「嫌だな、怖いな」って。

漠然とですけど、佐倉杏子の最初のイメージは浅倉(威)だったんですよ。

(『555』の「夢は呪いと同じだ」という台詞について)
あの言葉はシビれましたね。(中略)夢や願いを持つのはいいことですよ、これを買うと叶うかもしれないですよっていうのが、今はあらゆる経済の基本になりつつある概念という気がするんですよ。自己実現というビジョンを持って、そこに向かって突き進めっていうのが。
それが間違いだとは断じて言いませんけど、それがすべてだっていうのはかなり欺瞞があると思いますね。
(中略)
ただ、やっぱり悲劇っていうのは糧にはなりますよね。『Zガンダム』のジェリドを見て「よし、俺は余計なことにはこだわらない人間になるぞ!」と思いましたから。

宿敵を倒すことそのものでカタルシスを得るのではなくて、そうせざるを得ないという状況に追い込まれたり、そこに至るまでの選択肢を奪われてしまった運命をどう受け入れたかっていうのが、ヒーローイズムの条件なんだと思いますね。
(中略)
怪人を倒すためにソマリアあたりから傭兵団を雇って爆殺しましょうとか、ゴルゴムを倒すために署名活動して社会的に抹殺しましょうとか、そんなことはしないじゃないですか?(笑)
それをやってしまったら、ヒーローじゃないんですよね。あくまでもゴルゴムって力に対抗する力を与えられてるのは俺だけだ、どうしよう、やるしかないっていう葛藤そのものが、ゴルゴムよりも恐ろしい敵なんですよね。そういう葛藤や、何かの決断を迫られる場面というのは、誰もが向き合いかねない課題ですから、そこに共感できるし、ヒーロー性が生じるんだと思います。

仮面ライダー魔法少女といった、ある程度フォーマットが決まったジャンル物の面白さについて問われて)
データベースというか、ライブラリーがある強みでしょうね。
(中略)
長い伝統とか、シリーズ物のお約束が多ければ多いほど、それだけライブラリーが豊潤なんですよ。いろんなパーツを持ってきて組み込んで、お客さんに対する説明を省略できる。(中略)余分な説明をショートカットできるんです。
(中略)
たとえば『龍騎』は、いわゆるジャンル物のライブラリー性っていうのをブチ壊したことによって、自由を得た作品だったのかなって気がします。そもそも仮面ライダーのDNAをちゃんと使ってない、それに依存していないから出来たんじゃないかって。

『鎧武』で注目したいのは、ライダーのデザインよりも、「敵」をどういった存在にするか、なのだと思う。井上敏樹も言っていたように、「敵」をどうするかが一番難しい。社会に潜み殺人ゲームを娯楽として楽しむ『クウガ』のグロンギ、実は「人間」の守護者だった『アギト』のアンノウン、自分と同じライダーが「敵」だった『龍騎』と、平成ライダーが成功したポイントはそこをおろそかにしなかったからだと思うのだ。


もう一つ。(自分にとって)相変わらず印象的だったのは切通理作で、同じくユリイカ増刊にのっていたクウガ=勧善懲悪&民族絶滅論への疑義を申し立てていたり、平成ライダーと比べて平成ウルトラマンが何故上手くいかなかったかについて解説していたり、平成ライダー第二期とも呼べる『W』以降は「ライダー+探偵」「ライダー+宇宙」「ライダー+魔法」といった組み合わせで作られており、テレビ版ライダーの石森章太郎 脚本・監督回*2という原点を参照している、という話には納得だった。この人はブレないよなぁ。


他にも、竹富健治による平成ライダー女子そうめくりとか、敏樹のインタビューがコーヒーを淹れるさまから始まるとか、*3良き企みに溢れた良著であった。さすがインタビューイーの文章が太字になっているだけのことはある。普通は逆だと思うのだが、「おれの企画・取材・編集したこの本を読んでくれ!」というインタビュアー動揺の熱さがほとばしった結果なのじゃなかろうか。『語ろう!555・剣・響鬼』にも期待したいところだ。白倉伸一郎は当然として、會川昇黒田勇樹あたりの話を聞きたいなぁ。

*1:本書でも言及されている

*2:イソギンジャガーに改造されたチョコの友達の父を助けるため、普段はライダーキックで怪人を殺すライダーが、集中力の要する大技ライダーポイントキックで頭の返信スイッチを破壊して助けるという話

*3:日本SF大賞における宮部みゆきの『まどマギ』選評を借りれば