我々は蓮舫をどうやって説得するべきか その2

前回の続きのような続きで無いような話題。


たとえば、科学的研究に予算を配分してもらう理由として、技術進歩に伴う利益を挙げるとする。つまり、「科学」というものを投資の対象とみなす、という観点に科学者も乗っかっていくわけだ。


この時、一応科学者の端くれとして主張したいのが、「科学」の実相がトライ&エラーの積み重ねであるという事実だ。


つまり、実際に手を動かして、実際に実験して、ある程度時間をかけて仲間と議論して考察しないと、全然分からないことがあるんだよね。いや、むしろ、やってみなければ分からないことがほとんどだ。だからやる。つまり、投資に対するリターンを予想しにくい、ということだ*1。トライ&エラーの繰り返しのみが、科学を進歩させる。山と積まれたネガティブな結果の上に、ポジティブな結果は乗っかっている。
勿論、テーマを決める際、或いは研究活動を計画する際、リスクやリターンを戦略的に考える。この分野にはまだ誰も手をつけてないないからやろう!とか、この分野はホットで競争相手も多いけれど我々の技術や知識がオリジナリティを発揮するだろう、とか。
しかし、それが一つの実験結果で覆されることも良くある話だ。


ここで問題となってくるのは、「色々とやってみた結果のリターン無し」と、「何にもやらない結果のリターン無し」が、同じ査定となってくることだ。額に汗して、家に帰らず、ドロドロになって実験を繰り返してもポジティブな結果が出ない研究生活と、常に事務室に座り、時折論文を斜め読みしながら定時にきっちり帰るそれとが、同じ評価となる。


内田樹は人文系の研究者だけれども、昨日更新されたエントリに我が意を得たり!と思ったもので、引用したい。

ところがちょっとやってみてわかったことは、数値化できるのは「どうでもいいこと」だけで、研究教育の本質にかかわる活動はまったく数値化できないということであった。
そして、もっぱら数値化できない部分において、教員たちの「オーバーアチーブ」は果たされていたのである。
評価はこの「オーバーアチーブ」をゼロ査定した。
そのせいで、大学の研究教育活動に貢献しており、同僚に信頼され、学生たちに慕われている教員と「そうでない教員」のあいだの「差」が見えなくなってしまった。
評価活動は「どの教員にも給料分の仕事をさせる」ことを目指している。
そのせいで、「もらっている給料の何倍分も働いている教員たち」のフリーハンドを縛ってしまった。
給料分働いていない教員のもたらす損失はせいぜい彼らの「給料分」でしかない。
しかし、給料分以上は働いている教員のモラルを損なうことで失われるものは「給料分」では済まない。
科学研究上のブレークスルーは研究者のオーバーアチーブによってしかもたらされない。
しかるに、オーバーアチーブは予見できず、マネージできず、利益誘導できない
誰が、いつ、どういうきっかけでブレークスルーをもたらすかは事前にはわからない。
だから、ブレークスルーを軸に考えるなら、「どうやれば研究者は給料分の働きをするか」ではなくて、「どうやれば研究者は給料分以上の働きをするか」というプラクティカルな問いに向かうべきなのである。
その上で私は、「研究者に給料分以上の働きをしてもらうためには、潤沢な資金と余暇を与えて、放っておくに如かない」と考えている。

若手研究者育成事業の削減について - 内田樹の研究室


ここで内田樹のいう「オーバーアチーブ」が、私が頭に思い浮かべる研究活動におけるトライ&エラーの積み重ねとほぼ同一と考えて良いんじゃないかと思う。結果がエラーであったトライは評価の対象とならない。給料はトライの数ではなく目に見えて言語化可能なリターンにのみ支払われる。エラーばかり繰り返す研究者に支払われる給料、それは投資の観点から考えると「無駄飯」となる。
これが純粋にビジネスだとしたら、リターンの見込みの無い事業に無駄金を投資する必要も無いだろう。だが、「科学」はトライ&エラーを積み重ねることで前に進む。
エラーとは、一時は主流の一つであったものの、現在は否定されている学説のことだ。たとえばラマルクの用不要説。たとえば脚気の伝染病説。たとえばサプレッサーT細胞の存在。生物学だけに絞っても、具体例は山ほどある。
そのようなエラーは無駄だったかというと、そうでもない。むしろ、議論や考察の為の補助線として、比較や対照の相手として、より正しいと思われる学説を導くために機能してきた。

もちろん、それで無駄飯を食う研究者も(少なからず)いるであろう。
けれども、給料を食いつぶす研究者を野放しにしておくのは、オーバーアチーブする研究者を生み出すための「コスト」なのである。
そしてこのコストは費用対効果を見るかぎり、きわめて低額であると私は思っている。
今回の事業仕分けは「無駄飯を食うな」という原則で行われているように思う。
政治家たちはたぶん「無駄飯」抜きで、投じた研究助成の「すべて」が国民的利益として還元されるような研究のありようを要求している。
それは知性のパフォーマンスはどうすれば向上するかというテクニカルな問題を一度も真剣に考えたことのない人間の言いそうなことである。

若手研究者育成事業の削減について - 内田樹の研究室


というわけで、全ての科学者のみならず研究者の心情を代弁してくれた内田樹よありがとうと思った。



でも、この考えに科学者でも研究者でも無い人は共感してくれるのだろうか?元クラリオンガールで元タレントで元ニュースキャスターな女性政治家とその背後にいる大多数の納税者を説得できるのだろうか?

もちろん、その相当部分はさしたる成果をもたらさぬであろう。
だが、それでも、そのような機会が与えられなければ決して実現することのなかった学術上のブレークスルーがあったらなら、私はそれだけで帳尻は合うと思う。

若手研究者育成事業の削減について - 内田樹の研究室


科学者や研究者なら、「帳尻は合う」と考える。でも、そうでない人はどうか?


ここで大事になってくるのは、やはり教育なんじゃなかろうか。つまり、学生時代に研究者や科学者としての体験をさせておくことが、上記のような考えに共感する人間を増やす最も効果的な方法なんじゃなかろうか。
それも、単に理科室で実験をする、ということではない。トライ&エラーの積み重ねで、真にオリジナルな、新しいものを生み出す、という体験だ。それは時に先が見えず辛く苦しいけれど、新しい「もの」を作り出す喜びに満ち溢れている、というような。


理系文系に関わらず、大学での卒業研究や論文製作とは、もともとそのような体験をするべきものであった筈だ。しかし、大学進学率が5割を超え、二人に一人が大学に進学する現在でもなお、このような教育が行なわれているとは思えない。


じゃ、どうすれば良いかというと、とりあえず一研究室に一人眞鍋かをりを用意すれば良いと思う、とフザけたことを書いて今日は終わり。

*1:だからこそ「科学」にはサプライズがある、という言い方をする人もいる