我々は蓮舫をどうやって説得するべきか その1

先週学会に行ったのだけれど、興味深い講演があったのでそのことについて書きたい。


私が行った学会というのは免疫学会の学術集会で、免疫に関する基礎研究を発表する場だったんだよね。だから抄録集をみればどういう発表が行われるのかある程度分かるのだが、ひとつだけ内容がちんぷんかんぷんな発表があった。


「哲学なき科学、あるいは科学は哲学から何を学ぶことができるか」


という演題だった。


しかもこの講演、昼に行なわれるという。この種の学会では通常、昼には弁当が振舞われつつ、企業がスポンサーを務める機器や試薬の紹介や、単なる研究発表に収まらない総括的なセミナーが行なわれたりする。でも、このセ講演だけは内容がよく分からない。
怪しいセミナーかとも思ったのだが、演者の名前で検索した名前でたどり着いたブログは、至って真面目なものだった。研究者として退官まで務めた後、哲学を学ぶ為パリに留学したらしい。


特に、下記エントリに興味を惹かれた。

このような貴重な機会に、単に予算削減について抗議するだけだったり、それぞれの学会の利益保全的な発想しかできないとすると、問題の本質的解決にはならないような気がする。これを機に、科学者がそもそも科学とはどういう営みなのか、それが人類にとってどのような点で有効なのか、なぜそれがこの社会に必須な営みなのか、それを理解してもらうために科学者は何をしなければならないのか、などの根本的な議論が必要になるだろう。つまり、社会から科学など必要ないと言われた時に何と答えるのかという問題になる。科学者が自らを、そして科学を哲学せざるを得ない状況にあると言えるだろう。

http://hidetakayakura-essai.blogspot.com/2009/11/blog-post_19.html


で、参加してみたのだが、こんな講演に参加する物好きは演者の知り合いと私くらいなものかと思いきや、結構人が多くて驚いた。席の8割は埋まっていて、今年から昼のセミナーへの参加は事前申告制となったことと考え合わせると、この種の話題に敏感になった人が多くなったということだろう。特に、先の事業仕分けで、科学関連の予算がバッサバッサと削られて以降。


講演の内容は、一言でいうと科学者が科学する意味について今一度考えましょうというものだった。象徴的に思ったのは、講演の内容というよりも、その後の質疑応答で交わされた議論だった。
まとめると、次のようなことだ。


たとえば科学が進歩して、全ての疾患に治療法がみつかり、病気というものが根絶されたとする。その時、免疫学は必要なくなるのか?医学は必要無くなるだろう。でも、免疫学が、もっといえば生物学が必要ないと言い切ってしまって良いのか?
だから先の事業仕分けのように、科学の意味を問われた際、病気が治るからとか、日本に金銭的な利益をもたらすとか、そういう実質的な理由だけで押し切って良いのか?
しかし、現実的に考えると、病気は無くならない。あと100年経っても、全ての病気が根絶されるとは到底思えない。自分たちが生きているうちに、一つなり二つなりの疾患の治療法が見つかれば御の字だろう。
逆にいえば、科学が持つ実質的な力というのもその程度のものだろう。


自分が考えたことも重ね合わせると、そのような議論だった。


「科学」というのは、ものの見方の一つだと思う。一つの「認識」のしかただ。混沌と未知に溢れた自然を、「科学」という認識法に基づいて、幾つかの法則や規則性の元で、捉える。そして、新しい「認識」や「世界観」を得る。しかも、その法則や規則性や認識や世界観は、文化や民族を越えて共有可能であるし、日々アップデートされる。「病気が治る」とか「金銭的な利益」といったものは、結果の一つでしかない。


例を挙げれば、近代的自意識の誕生に自然科学の発達が関連しているという歴史的認識がある。両者は「世界」や「自己」を対象として観察する視点を持ったという点で共通しているからだ。近代以前、「世界」と「自己」もしくは「自意識」は不可分なものであった。だが、自然科学の発達によって「世界」を観察する術を知り、翻って「自己」を観察するようになり、「世界」と「自己」が分かれるようになった……という歴史観だ。


しかし、「科学」というものはカネのかかるものだ。その必要性を問われた際、新しい「認識」や「世界観」というアウトプットは、「カネ」という投資に見合うものなのだろうか?投資に対するリターン足りえるのか?


自分は一応科学者の端くれなので、その問いに自信をもってイエスと答えるよ。でも、科学者でもなんでもない人、そこらへんの道端でウンコ座りしてる女子高生や、鼻くそほじりながらワイドショーみているおばさんや、元クラリオンガールで元タレントで元ニュースキャスターでメディアというものを知り尽くしていてオーラルでの議論すなわち討論という場において圧倒的に強者である女性政治家は、それで納得するものなのだろうか?新しい「認識」や「世界観」という理由で、説得できるものなのだろうか?


たとえばこれが「文学」や「哲学」だったら、新しい「認識」や「世界観」で説得することも可能だろう。必要な「カネ」も少ない。


たとえばこれがスポーツだったら、「観ている皆が元気になる」で納得するかもしれない。や、私はサッカーのW杯で日本代表が優勝したとしても、それは自分の人生に全く関係ないと最強伝説黒沢ライクに考える人間なのだが、W杯時の熱狂をみるにつけ、私以外の人間はそうではないように思えるもので。


しかし「科学」に投資する、して貰う理由として、新しい「認識」や「世界観」、「観ている皆が元気になる」で説得することができるのだろうか?蓮舫は、蓮舫の向こう側にいる何千何万人の納税者は納得するのだろうか?
どう考えても、現状では難しいと思う。


ここで重要になってくるのは、やはりアウトリーチだろう。それも、専門誌に論文を発表するとか、学会で同業者に向かって喋るとかではなく、一般の、普通の、そこいら辺を歩いているような人たちの理解と共感を得る為のアウトリーチ活動だ。


そう考えると、分子生物学会の市民公開講座眞鍋かをりを呼ぶというのはナイスアイディアだ。


http://www.aeplan.co.jp/mbsj2009/program/open_lecture.html


おれたちは皆、酒に酔った眞鍋かをりが大好きなんだYO!


来年は安めぐみだな。