熱意 その2

今夏も大学院の方で高校生向けのサマースクールがあり、一応ラボの一員としてのCall of Dutyから講師役として参加することになった。
講師なんて書くと聞こえは良いが、具体的には、高校生二人ばかりの面倒をみつつ、一緒にエタ沈したり電気泳動したり、分子生物学の初歩的実験をするという、まあトレーナーだ。
DNAを抽出しますとかいって、頬の内側を噛みつつ蒸留水でうがいした液なんかを材料として使うわけだけれども、エタノール入れると現れる白いモヤモヤを見て「これがDNAなんですね!」と感激する高校生達を微笑ましく見守ったりした。その白さのほとんどは、プロテナーゼKとそれで分解しきれなかった唾液に含まれる蛋白質かもしれないから!と一応補足ツッコミを入れたりもした。


期間は3日間で、余りまくっている有休を使ったわけだが、共同研究してる教授がお呼びなら絶対に参加しろという上司の言葉により、素直に取得できた。まぁ、昼から始まって5時には終わったので、ちょっと早い夏休み気分だな。


今年は、残念ながらというかなんというか、昨年のように過去の自分を思い起こしてしまうような気持ち悪い奴というのはいなかったのだけれど、皆やる気に溢れていて、やりやすかった。まぁ、わざわざ夏休みを使って来ているわけだから、当たり前か。


彼らが通う高校は制服が無く、授業も私服で受けるらしい。良いね自由で、などと口にすると「でも、自由を履き違える奴が多くて困るんですよ」などと返してくる。若いのに優秀な奴らだなぁ。いや、冗談抜きで、そういう考えを頭の片隅にでも置いといてくれれば君たちの未来は明るいよ。



そんなことを考えてしまうのはさ、久しぶりに大学院のラボを訪れたわけなのだけれど、とある修士の姿が見えなかったからなんだよね。そいつは偶然にも私と同じ出身大学で、しかも同じ学部で、つまりは関係性の近い後輩だ。私は同じ大学にくっついている大学院に行ったのだけれど、彼は外部の、つまりこちらの修士に来たのだな。で、わたしもこちらの博士に社会人コースで進学することになって、年齢は十以上も離れているけれども、偶然の出会いに驚いたものだった。


だが、そんな修士くんの姿が見当たらない。これはもしやと思い、恐る恐る博士の先輩にきいてみると、やはりそうだった。数ヶ月前からラボに来なくなったらしい。うひょー。


だいたい、理系の修士・博士課程における学生の日常なんて、自由なもんですよ。や、実験が大規模かつ大人数でオペレーションする必要がある物理学科なんかは分からないけれども、医学・農学・生物学といった、個人ベースで実験して論文書いてそれを実績とするような分野における院生は、限りなく自由だ。
まず、座学の授業がほとんど無い。また、実験手技やラボの流儀*1なんかの初期教育が終わると、余程のことが無い限り担当教官から放っておかれる。
何故かというと、学生は自らの意思で実験し議論し論文を書き、周囲を巻き込みつつ学んでゆくことが期待されているからだ。いや、期待じゃないな。結局、当人がやる気出さなきゃどうしようもないという冷酷な事実を、ラボの誰もが知っているからだ。勉学に励むという熱意が大前提になっているのだな。


勿論、ポスドクやテクニシャンのような、ラボから給料貰ってる職種はちょいと事情が違うよ。でも、学生は金を払って通う身だ。だから、論文セミナーや進捗をサボっても、最初こそ咎められるが、次第に誰も何も言わなくなる。ラボに来なくなっても、病気や怪我で無い限り、誰も心配しない。そして見放される。


後輩修士くんも、最初は熱意があったんだと思うよ。それこそ、サマースクールで来た高校生のように、キラキラした目で実験してたんだと思う。最初の頃は。でも、あり余る自由を御し切れなかったんだろうな。


ただ、私も三十数年生きてきて、それなりの人々に出会って、やっとわかったことがある。「熱意」とか「やる気」とか簡単に書いたけれども、モチベーションの維持というのは、そんなに単純なものじゃない。
特定の分野や業界に限らないのだけれど、なんというか、「呪い」とか、「怨念」とか、「狂気」とか、どうかしてるとしか思えないほどの情念を込めて仕事してる人達がいて、その類のものが内奥に無いと駄目なのだろうと自戒を込めて思う。

*1:ゴミの捨て方や掃除の仕方