負け犬映画の陰と陽:「SR サイタマノラッパー」

宇多丸師匠が「号泣メーン」と評した「SR サイタマノラッパー」であるが、なんと地元の映画館「川越スカラ座」にて埼玉県出身の若手監督特集の一環として上映するという。いや、流石埼玉はダサイタマノ劇場だよ。


TBSラジオクラウド
過去の上映作品 川越スカラ座


で、観てきたのだが、おれも号泣メーン!と叫びたくなるほどの、噂に違わぬ面白さであった。
世の中には「負け犬映画」や「駄目人間映画」とでも表現すべきジャンルがある。貧乏人、アル中、ジャンキー、何も成し遂げていないまま年喰ってしまった男や女……様々な地位や職種に属するうだつの上がらない負け犬的キャラクターを主演に据え、その人物特有の「駄目さ」や「負け具合」について、おれは駄目駄目駄目人間なのさー!♪と唄いだすほどにあらゆるシチュエーションで描く映画だ。
で、「サイタマノラッパー」は日本語ラッパーというか日本のラッパーを題材にした「負け犬映画」なのだな。


ちょっと連想したのは「リンカーン」の一企画、「世界ウルリン滞在期」にて練マザファッカーをフィーチャーした回だ。あの面白さっていうのは、練馬という紛れも無い日本の都市にてディスるなメーン!とかマザーファッカー!とか叫ぶラッパー達の滑稽さと真剣さであった。そして、それらに対してビデオを観ているスタジオの芸人や視聴者達が中川家の剛目線でツッコミを入れつつ、最後はそれなりに共感し、感動してしまうという面白さだった。
「サイタマノラッパー」も、その類の面白さで溢れている。つまり、エミネムや2パックやアイス・キューブ*1がコンビニでおでん喰ってたらヤンキーにからまれるような、面白さだ。


その最高潮は、やはり市役所のシーンだろう。
主人公が所属するHIPHOPグループのSHO-GUNGは、何の因果か「埼玉のド田舎で頑張ってる若者代表」として市役所にてラップを披露することになる。ドタキャンするメンバーがいたりしたものの、いかにも市役所の役人然としたおじさん・おばさんの前にて勇気を振り絞ってパフォーマンスをこなし、なんとか面目を保つ主人公達。おれ達はただのニートじゃないんだぜ!
だが、質疑応答にて一言。「先ほど“国語・算数・理科・社会、学校の勉強なんてなんにも役に立たなかった”なんて歌詞がありましたが、本当ですか?いや、私教育委員会に所属してるもので」
すっかり場に飲まれたメンバーの一員、MC TOMは思わず口走ってしまう。
「いや、少しは役に立ってると思います……」
もうさ、このシチュエーションを思いついただけで、勝利だよね。


最初こそ荒いデジタル映像*2と拙いアフレコ演技に違和感を感じたものの、脚本や構成が上手くできているので、次第に引き込まれる。
三叉路やバッグといった、映画史的に意味深い背景や小道具を使いこなしているのも良い。高速道路の歩道橋を三叉路的に使うのは、細田守井口奈己もやっていなかった。みひろのバッグに入っているのは、野暮を承知で書けば、人生とか信念とか自分自身とかいったもので、確固としたそれを持っていない主人公が羨望とレスペクト*3のこもった眼差しで見つめるさまが良かった。


あと、多様な価値観が許容される現代において、万人に共通する要素である「死」と「セックス」と「成長」をシナリオ段階できちんと織り込んでいるのも映画的好感の持てる点であった。なんつーか、最近のシネコンを席巻する、テレビ局主導で作られるような映画よりも「映画」してるのだな。ただ、宇多丸師匠が言うほどフェードイン・フェードアウトや長回しの多用は気にならなかったけれど、「もしかしてカメラ一つしかないの?」とは思ってしまったけど。みひろが初登場するシーンくらい、カットを割れば良いのに。



さて、最近話題の「負け犬映画」といえば「レスラー」だ。これも面白かった。ミッキー・ローク演じる主人公が肉体を酷使しながらプロレスし続ける姿には確かに感動した。


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「サイタマノラッパー」と「レスラー」、どちらも社会的負け犬が家族に疎まれ、好きな女に蔑まれ、自らの拠り所となるライフワークを諦めるも、最後にはアイデンティティを取り戻すという話だ。
両者のプロットは驚くほど似ている。ラストカットの、未来を案じさせるブツ切り感にあふれた終わり方も似ている。いや、「負け犬映画」のプロットなんてどれも似ているだろ!とツッコまれればそれまでだが。


だが一つだけ、異なる点がある。「負け犬映画」は、どん底にいる彼または彼女が何かを決心したり、新しい道へ踏み出すことを映画的な盛り上がりとなるが、その「向き」が180度逆なんだよね。
つまりさ、「レスラー」の主人公ランディは自分の為ではなく、周囲の求めに応じてああいう選択をする部分があるじゃん。勿論、「観客の為のランディ」が理想の自分で、それを求めることが自分の為、というかアイデンティティの確立に繋がるというのもあるよ。でも、プロモーターも仲間のレスラーも観客も、レスラーとしてのランディを求めている。だから、痛みに耐える姿がキリストに喩えられたりもする。


一方、「サイタマノラッパー」の主人公DJ IKKUは、何処の誰も彼にラッパーであることを望んでいない環境にいる。家族は彼にまっとうな職に就くことを望む。仲間のラッパーは彼を置いて東京に出て行ったり、こんなド田舎じゃ無理だと諦めたりもする。
だから最後のIKKUのラップは、世界を変えようとするラップだ。世界の誰もそれを望んじゃいないが、おれだけはそうしたいという叫びだ。


勿論、主人公の年齢や立場が全然違うとか、設定的な違いもあるよ。だが、周囲の求めに応じるのと、周囲を変えようとするのとでは、後者の方が力強いと感じるのだよね。


勝者がいれば、必ず敗者が存在する。簡単なロジックだ。勝者の十倍、いや百倍千倍一万倍の駄目人間を癒し、勇気づけ、新しい一歩を踏み出させる為に、「負け犬映画」は存在するのだ。
だから、我々が道を見失った際のライフモデルとし、心の指針とすべきなのは、「レスラー」ではなく「サイタマノラッパー」だと考えるのだが、どうだろうか?


余談であるが、「負け犬映画」の最白眉は「リービング・ラスベガス」であると思う。だから当初、ニコラス・ケイジが「レスラー」の主人公にオファーされていたというニュースには、何か納得するものがあった。いや、勿論結果的にはミッキー・ロークで大成功だったと思うけどさ。


ニコラス・ケイジ、『レスラー』の主役から外されたことを否定 - シネマトゥデイ


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更に余談なのだが、コカイン問題以降全く噂を聞かない練馬ザファッカーは復活しないのかね?一時期は近所のショッピングセンターにまで営業に来ていたのだけれどなぁ。

*1:知ってる名前総動員

*2:あの劇場のプロジェクターの問題もあるが

*3:なにしろラッパーだから