怪獣映画における人間ドラマと怪獣ドラマについて:『GODZILLA』

しつこく『GODZILLA』について書く。
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マーク・コッタ・ヴァズ 富原まさ江
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GODZILLA』は本当に面白くてよく出来た映画だと思うのだが、自分が不満に感じた点は、核の扱い……ではなく*1、人間ドラマについてだった。


人間と怪獣との関わり描かないと、作り手にとっても観客にとっても他人事になってしまうというのは分かる。怪獣同士の戦いを観て、ただただ呆然としたり、男塾の冨樫みたいな解説役ばかりになってしまうのが不味いというのも分かる。ギャレス・エドワーズが故郷を目指すロードムービーという形式に何らかの拘りを持っているらしいというのも分かる。
それでも『GODZILLA』の後半、アーロン・テイラー=ジョンソンが米軍の様々な部隊に相乗りしつつ、行く先々でムートーと出会いながら、なんとか妻と子供の待つサンフランシスコに帰りつこうと奮闘する人間ドラマパートは、やっぱり退屈だった。
ムートーは二匹しかいない*2のに一人の人間が怪獣に襲われる偶然がそんなに重なるのかよと思うし*3、米軍は同じ軍属ならそんなにもフランクに飛行機列車への相乗りを許してくれるのかよとも思うし、まず何よりも、そんなに家族を安心させたいのなら電話じゃなくメールで連絡とれよ……とか思ってしまうんだよね。


そう思ってしまう最大の原因は、怪獣映画で人間ドラマなんてみたくないからだ。格好良かったり怖ろしかったりする怪獣をみたいから怪獣映画を観に来ているのに、怪獣より格好良くも怖ろしくもない人間が走ったり泣いたり銃を撃ったり窮地を脱する姿をみても、なんだか冷めてしまうのだ。


もっといえば、怪獣映画でみたいのは人間ドラマではなく怪獣ドラマなのだ。


じゃ、「怪獣ドラマ」とはいったい何なのか? これは簡単だ。「人間ドラマ」が人間によって演じられる人間的感情を描いたドラマなら、「怪獣ドラマ」は怪獣によって演じられる怪獣的感情を描いたドラマだ。
人間的感情とは、愛や友情、成功や挫折、精神的な苦悩やその克服に伴う成長といった人間に特徴的とされる感情のことだ(「とされる」と書いたのは、必ずしもそうではないからだが、これについては後で言及したい)。


それでは怪獣的感情とは何なのか? これには二種類の解釈がありえるだろう。
一つは、擬人化された存在としての怪獣が持つ感情だ。
たとえば『猿の惑星: 創世記』や『ウォーリー』は猿やロボットによって演じられる猿的感情やロボット的感情を描いた猿ドラマやロボットドラマだった。ここで描かれた猿的感情やロボット的感情は明らかに人間的感情と同一のもので、その意味でこれら作品に出てくる猿やロボットは擬人化された猿やロボットだった。
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猿の惑星: 創世記』や『ウォーリー』が凄かったのは、可能な限り台詞を排して猿やロボットの人間的感情を描いていたことだ。映像メディアである映画では台詞に頼らない感情表現こそが観客の心を打つという理由以上に、これは重要だ。言語を操る生物である我々人間は、人間的感情といったものを言語で理解しがちだ。しかし人間的感情が非言語的表現で描かれた時、人間性というものを別の視点から観察することになる。更にそれが人間以外の生物によって描かれる。これこそが猿ドラマやロボットドラマが猿やロボットである最大の理由だろう。
同様な怪獣映画は過去に幾つかあった。我々はキングコングの中に人間と同じ愛情や慈しみの心があるのを感じたし、モスラやシーゴラス・シーモンス*4やエイリアン・クイーンの中に兄弟愛や夫婦愛や子供への愛を感じたし、サンダとガイラに兄弟で殺しあわなければならない哀しさを感じたものだった。
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こういった怪獣的感情――人間のような要素を持つ怪獣たちは、人間のような怪獣ドラマを織り成すことになる。



もう一つは、人間性の対極にあるものとしての「非人間性」や、人間が想像すらしえないものとしての「無人間性」を象徴するものとしての怪物や怪獣が持つ感情だ。
黒人をテーマとした映画で、黒人の感情を描かなかったら、それは失敗作だろう。同じ理由から、怪獣をテーマとした映画で怪獣の感情を描かなかったら、それは失敗作になる――とはいかないところが怪獣映画の難しさだ。何故なら、時に怪獣は荒ぶる神や戦争や災害のアナロジーであり、神や戦争や災害の感情を描くことは困難だからだ。たとえ神や戦争や災害を前述した意味で「擬人化」した結果としての怪獣であるとしても、だ。
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思い返せば、1954年版の初代『ゴジラ』は、ここら辺を実に上手く描いていた。1954年『ゴジラ』のゴジラは誰の理解も共感も不可能な存在であり、圧倒的な恐怖や怨念の象徴だった。唯一山根博士のみがゴジラに対して共感を示すが、その心情は娘すら理解不能で、ある種のマッドサイエンティストとして表現されているのだ。つまり、ゴジラに共感を示す山根博士の感情を誰も理解できないという意味で、ゴジラの怪物・怪獣性や怪獣的感情が表現されているのだ。
同様の例は沢山ある。人間が理解不能な宇宙の深淵からの猛威であるキングギドラガイガンやレギオンや一作目のエイリアン*5の感情は誰にも理解できない。自らの星を核実験で滅ぼしたバルタン星人の哀しさは(『ウルトラマンコスモス』まで時間が経たないと)全く表現されないし、ウルトラマンを倒す程の力を持つゼットンパンドンはまるで機械のように感情移入を阻む存在として描かれる。


ここで一つの問題が発生する。非人間的な怪獣が織り成すドラマ、もしくは非人間的な怪獣と怪獣が戦うことによって発生する怪獣ドラマのどこが面白いのか、誰が観に来るのか? といった問題だ。深海に棲むゴカイのような生き物の恋愛や、顕微鏡でしか観察できないバクテリアの繁殖を面白いと感じ、感動できる人間は少ない。(生物学者以外が)感動できるとすれば、それは(ある程度)擬人化されているからだ。
1954年『ゴジラ』のように怪獣が一体だけの場合はまだなんとかなる。怪獣VS人間の構図をきっちりと決め、怪獣に抗する人間のドラマを描けばいい。しかし、チャンピオンまつりや平成VSシリーズや『GODZILLA』のように、二対以上の怪獣が対決する場合は一気に難しくなる。クライマックスが怪獣同士の対決とならざるを得ないこの種の映画では、映画前半でどんなに人間のドラマを描こうとも、それが映画全体のストーリーの解決に繋がりづらいのだ。


つまり、人間が必要だ。怪獣映画は怪獣さえ出てくれば成立するが、それが面白くなるには、どうしたって人間が必要になるのだ。
怪獣映画でみたいのは怪獣ドラマであるが、我々が人間である以上、究極的には人間ドラマにしか共感できない――これは大いなる矛盾だ。


これを解決するために、怪獣映画では歴史的に幾つかの手段が採られてきた。

  • 怪獣の行動原理と人間の利害が偶然にも一致し、ある種の共生関係にある
  • 怪獣の意思を感じ取れる人間(のような)キャラクターが登場する
  • どんな怪獣も人間の敵であり、怪獣同士のバトルで生き残った怪獣と人間との決着がクライマックスとなる
  • 怪獣の一体はロボットで人間が乗り込んでいたり、元人間だったり、古代の人間が超文明で作り出した生物だったりする
  • 怪獣を倒す「とどめの一撃」に人間が関与する

高島忠男が太鼓を叩いたり、超能力少女が出てきたり、超古代文明生物兵器になったり、エヴァみたく美少女が乗り込んだりするのは、すべて怪獣映画への人間の関与を考慮した結果だ。
当然、平成VSシリーズやチャンピオンまつりゴジラにオマージュを捧げた『GODZILLA』もその例に漏れない。『GODZILLA』が平成ガメラシリーズとの類似を指摘されてしまうのは、この問題を解決する手法が限られている、少なくともメジャー映画が作る怪獣映画が採りえる手法が限られていると思われているからだ。


だが、一つだけ、まだ全面的にフィーチャーされてない手法があるのではないかと思う。それは、非人間的な怪獣や人間のような怪獣に対抗する存在としての、「怪獣のような人間」の登場だ。
前述した1954年版『ゴジラ』における山根博士や芹沢博士は、心の中に怪物性や怪獣性を持った人間――「怪獣のような人間」だった。特に芹沢博士は、ゴジラが戦争や原水爆の象徴であったのと同じく、戦争の傷跡や怨念の象徴であった。ゴジラの表皮がケロイド状だったのと同じく、芹沢博士の顔にはケロイド状の傷跡が(ポスターには)あった。ゴジラと芹沢博士が対決し、両者が海に沈むのは、必然だったのだ。


当然、その後の怪獣映画にも「怪獣のような人間」は登場した。
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モスラ』のネルソンはアメリカやソ連といった大国の経済力というものの擬人化であったし、『モスラ対ゴジラ』の多胡部長は、戦後を乗り越えた人間の心中に高度経済成長から生まれた怪物や怪獣が棲んでいることを表していた。更にいえば、自分が作り上げた戦後ニッポンを破壊するゴジラと対峙する『ゴジラvsキングギドラ』の土屋嘉男や、モスラに破壊される東京を前に「俺が新しく造り直す!」と吼える『ゴジラVSモスラ』の大竹まことは、1954年版『ゴジラ』で描かれた焼け野原となった東京が復興するも、どこかに人としての心を置き忘れてきたのではないかという屈託を描いていた。
商業主義としての「怪物性」だけではない。『ゴジラ・ミニラ・ガバラ』や『ガメラ3 邪神覚醒』や『スーパー8』で少年や少女が心の中で育んでいた怪獣はその時々の時代への違和感だ。
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ピージャク版『キング・コング』は、船員が読んでいる本がしつこく映ることからも明らかなように、ジャック・ブラックエイドリアン・ブロディポスコロ的「闇」すなわち”Heart Of Darkness”という怪獣*6に囚われていた。


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人命や道徳や倫理よりも経済性を優先するという行き過ぎた資本主義や、少年や少女の心の奥底に潜む酒鬼薔薇的「心の闇」や、植民地主義への単なる時代性からの批判以上の狂気を内包する「闇の奥」は、非人間性無人間性として語られることが多い。しかし、非人間性無人間性は、実のところ人間性の一部だ。ナチスや猟奇犯罪者の行為や戦争犯罪を非人間的と評する人間は多いが、人間にしかできないという意味で、非人間的行為は人間的行為の一部だ。犬が行う行為の一部をとって「犬らしくない」と評する者はいないが、人間が行う行為の一部について「人間らしくない」と評するのは普通の行為とされている。何故なら、我々は人間だからだ。


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そして現在、アメコミ映画に目を向ければ、そこは「怪獣のような人間」がヒーローを務める映画ばかりだ。バットマンスパイダーマンも心の中に怪物を飼っているし、スーパーマンやアイアンマンの最大の敵は悪い超人や世の中ではなく「心の中の怪物」というもう一人の自分であるし、ハルクやウルヴァリンがヒーロー足りえるのは「心の中の怪物」を飼いならすことでリアルな怪物であるヴィランに対抗しているからだ。


GODZILLA』で最も怪獣性を備えている人物はブライアン・クランストン演じるジョー・ブロディと渡辺謙演じる芹沢猪四郎だろう。ほとんどブレイキング・バッドなマッドさで原発事故の真相を追い求めるジョー・ブロディや、広島原爆投下で被爆した父の形見の時計を肌身離さず持っている芹沢猪四郎は「怪獣のような人間」だ。


「人間のような怪獣」に対抗できるのは「怪獣のような人間」だけだ。


GODZILLA』の人間ドラマ部分が、アーロン・テイラー=ジョンソン演じるフォード・ブロディではなく、ブライアン・クランストン渡辺謙による「怪獣のような人間」二人のロードムービーなら良かったのになあ……などと思いましたとさ。

*1:何故なら平成ゴジラシリーズにおける核や原発の扱いも決して褒められたものではなかったからだ

*2:少なくとも地球表面には

*3:『GMK』の篠原ともえのような演出は、そのような偶然が滅多に重ならないということになっているから有効なのだ

*4:映画じゃないけど

*5:黒沢清が『エイリアン』を絶賛し『エイリアン2』に失望したというのはここが理由だろう

*6:思い返せば、『モスラ』のネルソンはインファント島だけでなく日本も植民地と捉えていたし、『モスラ』のストーリーは、植民地主義において加害者でも被害者でもあるという日本の立ち位置を実に上手く表現していた