良い女とはなにか

 私は遺伝子をクローニングしたり、血液から血球を分離して染色したり、抗体を生成して標識したりする仕事で食い扶持を稼いでいるのだが、ちょっと健常人検体が必要になって、診療所に採血を依頼した。一応産業医がいるので、こういう依頼にも対応してくれるのだな。


 とりあえず、男女各一名ずつの採血をお願いした。男性は勿論自分、女性は後輩の女の子だ。本番はもっと人数を増やすつもりなのだが、preliminaryな実験で様子をみたいのでこれで充分だろう。


 診療所にいくと、いつも顔をみる看護士の女性の他に、見慣れない女性がいた。どうも新人らしい。そういや、ここは去年ベテランの看護士が辞めた後、追加で入ってきた一人も辞めて、長い間彼女一人しかいなかったのだな。
 お互いに挨拶を交わし、採血して貰うことになったのだが……どうも手つきが危うい。新人って、新人って、新入社員ってことだけじゃなくて、看護士としても新人ってことか!


 例えば、今回は10 mlの真空採血管で3本お願いしたのだが、半分ほどでホルダーから抜いてしまう。「(次の管は)もうちょっと多めでお願いします」と伝えたら、なんと採血管をホルダーに戻そうとするんだよね。それ無理無理!もう真空が限りなく弱まってるから!
 止血する時の動作もアワアワしていて、片手で採血管を抜針しつつ、もう一方の手で血液提供者(私のことだ)の採血部位を酒精綿の上から圧迫しなくてはならないのだが、腕が二本ではどうにもこうにも足りない感じ。思わず自分で止血するから良いですよと言ってしまったよ。


 まぁ、採血ってのは難しいもんだよな。私は医者でも看護士でも臨床検査技師でも無いのでヒトから採血したことは無いのだが、学生の頃マウスの尻尾から採血する時は、朝の10時から初めて授業終了時刻である午後の4時になっても終わらなかったよ。尻尾の先を切り、ポタポタとしごき出す手法があると知った時には驚いたものだ。ウサギの耳から採血する時も、羽根つきの針、つまり翼状針(角度の調節が用意なので初心者や採血手技に自信が無い人なんかが良く使う)じゃないと自信が無い。
 そういや「ER緊急救命室」でも第一話でカーター君が採血に苦しむシーンがあって、他人事とは思えなかった。目の前の彼女の苦労も他人事とは思えない。


 そんなことを考えながら後輩の女の子が採血される風景を見守っていたら、なんと三度も採血に失敗。三度目は翼状針を使ったのだが、それも失敗。うひょー!こいつは一大事だ。
 私は男なので血管もそれなりに太いし血圧も高いのだが、比較的血管が細い女性だとやりにくいのだろうな。後輩の女の子は体も小さくて痩せ型なので、腕を穴だらけにされるとちょっと可哀想だ。


 通常、老人で血管が硬いとか、小児で血管が細すぎるなどの理由で肘の裏の静脈から採血しにくい場合、手の甲や肘の横なんかから採血するのだが、患者の場合はなんだかんだいってもpreliminaryな実験なので、一人でも良いですよと先輩看護士に伝えたら、驚くべき答えが返ってきた。


「私の血液でも良いですか?」


 スゲー!流石先輩だよ!責任感あるよ!!と、後輩と二人でコソコソ盛り上がっていたら、なんとそれも失敗。「もう、私自信がありません……」と、新人看護士はションボリとしていた。



 結局、先輩看護士が新人看護士から採血し、それを受け取ったのだが、いやー、あの先輩看護士は良い女だなと思ったよ。
 やっぱりさ、各人が自分の仕事に責任感を持たないと、社会ってのは動かないわけですよ。いくら自分の部下とはいえ、(下手であることがはっきりと分かった時点で)自分の身を捧げるってのは、なかなか出来ないよねぇ。
 一方で、最初から先輩看護士が採血すれば良かったという考えもあろうが、それだと部下が育たないよね。結局のところ、こういうのは経験がものをいう。ウチの会社はケチ臭いので人件費抑制に励んでいるせいか人の入れ替わりが激しく、折角入った新人に辞められたら困るという心理もあろう。だから、最後の最後まで見捨てないで、新人にやらせるという方針に、なんだか尊敬の念を抱いてしまった。年下だけど。


 正直な話、それまで私は彼女のことをなんとも思って無くて、ルックス的にはどちらかといえば嫌いな方だったのだけれど、この一件で完全に見方が変わった。あんな良い女だったなんて。良い女とは、ルックスでも内面でもなくて、行動なんだな。彼女となら、結婚しても良い位だよ!(無理だけどな)


 実験の結果は興味深いもので、追試の為に来週から一週おきに採血をお願いすることとなった。ただ、ちょっと心配なのは、新人看護士が辞めちゃわないかということだよね。平気で午前中に10人とか20人の採血をこなさなきゃならないので、あそこまで採血が下手だと辛いだろうな(だから新人が必要なわけだが)。早く適応してくれることを願うばかりだ。