最後の武器、それは東映動画スピリッツ:「サマーウォーズ」

べ、別に細田守監督のことが好きってわけじゃないんだからね!「ぼくらのウォーゲーム!」や「どれみと魔女をやめた魔女」でヤラれちゃったなんてことないんだから!「ワンピース オマツリ男爵と秘密の島」に「ハウル」降板騒動を反映させたなんて、つまんないこと言ってんじゃないわよ!!「時をかける少女」だって、仕方なく劇場で三回観た後DVD買ってあげただけなんだから!か、勘違いしないでよ!!


……というわけで「サマーウォーズ」観てきた。面白かった。やっぱりさ、敢えて「嫁」と書くけれども、嫁の親戚ってのは「他者」なわけですな。で、その「他者」が、主人公の努力やコミットや生き様や志で、だんだんと「仲間」や「家族」になっていくところが感動的なんですな。そして、それは現代というか近代的な感動であるとも思う。
ちょっと気になったのは視点の不統一だ。この映画、童貞主人公が好きな女の子の家族にコミットすることでオトナになる物語だと思うのだが、途中でキングカズマのデジモン救世主伝説になり、最後はナツキの花札遊戯王話になるんだよね。最後はちゃんと童貞主人公が鼻血を振り絞って超頑張る話に戻るのだけれど、あくまでキングカズマやナツキを見守る視点に留めておいた方が良かったのではないかな。これは家族が世界を救う話なので、できるだけ多くの登場人物に見せ場を作りたいというのは分かるのだけれど、排熱で熱々の六畳間を開けたり、侘助を呼びに行ったりとか、そういう活躍をさせてあげても良いと思うんだよね。
ああ、あと氷を補充しないのも気になったな。でも、あそこのグーで殴るシーンは、実に溜飲が下がると同時に、親族内でもゴタゴタがあるのが実感できる良いシーンだった。



ただ、なんか、あれですな。細田守は、映画興行的な意味合いで、ポスト宮崎アニメの位置に最も近づいたのですな、なんて思ったよ。我ながら、嫌〜なアニオタ的感想だと思うけれど。


つまりですな、これまでは、色んなアニメスタジオやら広告代理店やらテレビ局やらが「ポスト宮崎アニメ的なもの」を作ろうとしていて、盛大に失敗していたと思うのだよね。ここでいう「宮崎アニメ的なもの」はあくまで映画興行的な意味合いが第一となる。

  • アニオタだけでなく、普段アニメを観ないような一般人の足を劇場に運ぶ力がある
  • 子供だけ、或いは大人だけでなく、老若男女が楽しめる
  • ドラえもん」や「名探偵コナン」のような、シリーズものやプログラムピクチャーでない
  • 現代、或いは現代を反映したファンタジー世界が舞台であり、映画内において現実世界と幻想世界を行き来する
  • 劇場を出た後、「家族愛」や「エコロジー」といった分かりやすいテーマが残る*1
  • 日テレやフジテレビといったテレビ局がスポンサーとなれるほど、間口が広くてテレビ放送等で利益が見込める作品

……被っている要素もあるけれど、上記あたりが定義となろう。いくら面白くて客が入ろうとも「ガンダム」や「エヴァ」や「グレンラガン」の監督やスタッフが宮崎アニメの後継者足りえないと書けば納得して貰えるかもしれない。また、基本的にボーイ・ミーツ・ガールな話」、「全ての要素が美少女とメカと説教の三点に還元できる」、「よく考えれば物語的に破綻しているのだが、映画を観ている間は演出の力に押し切られる」みたいな、宮崎駿の作家的特質は、この際あまり関係ない。


で、「時をかける少女」→「サマーウォーズ」という、現代日本が舞台で高校生が主人公で「恋愛」→「家族愛」という流れは、宮崎アニメの継承者として申し分の無い流れだと思うね。
勿論、上記要素を満たす作品は過去色々と作られてきたよ。例えば「ポスト宮崎アニメ的なもの」の失敗作として具体的な作品名を挙げると、「ブレイブ・ストーリー」とか「銀色の髪のアギト」とかいった手合いだ。それは、当のスタジオジブリも同様で、「ゲド戦記」なぞ、失敗したという結果を含めて、全くの同種であった。
そういったポスト宮崎アニメ失敗作と真の宮崎アニメのどこが異なるのかというと、前者はDVDで観ようとも思わないほどつまらない一方で、後者は劇場公開日に観た後に再度劇場で見たくなるほど思わせるほどに面白い、という個人的だが万人に普遍的と思える事実に尽きる。しかし、「サマーウォーズ」は上記ポスト宮崎アニメ的特長を満たしつつ、老若男女が観て面白く感じるという点において、現実的な後継者足りえる作品であった。細田守の「ハウル」降板というバイオグラフィーを振り返るに、ジブリにとっても細田守*2にとっても、実に皮肉なことであるのだが。



じゃ、どこが面白かったのかというと、少々説明が必要だ。


これまで細田守監督作に共通して感じてきた特徴的印象がある。それは、濃厚な「死」のイメージと、未来や地震の居場所の無さなどに関する漠然とした不安感がないまぜとなったものだ。「ぼくらのウォーゲーム!」にて、核ミサイルという「世界の終わり」がデジタル・カウントにて迫り来る恐怖感。「オマツリ男爵と秘密の島」にて、ルフィが感じる本物の孤独と絶望。「どれみと魔女をやめた魔女」にて、どれみが感じる「おじゃ魔女」というアイデンティティを喪失するであろう将来への不安感。「時をかける少女」にて、未来に起こると予告される戦争。


それらを通して感じるのは、細田守のクリエーターとしての真剣さだ。切実さや問題意識と言い換えても良い。つまり、押井守富野由悠季宮崎駿といった同じ業界内での先輩作家に対抗する為には借り物でない武器が必要で、それには自身の精神の内奥を掘り起こすしかなかったのではなかろうか。そう、庵野秀明が「エヴァンゲリオン」で延々と自己啓発セミナーをやったのと同じ理由だ。コピー世代にとってのオリジナルは、自分自身の苦悩や絶望や生き様しかないのだ。


特に、ハウル降板後に制作された「オマツリ男爵と秘密の島」以降、居場所の無さという主題が作品内で重要な役割を占めるのは、偶然ではないだろう。細田守は、ジブリや宮崎アニメの継承者になりたいなどとは思ってなかろうが、クリエーターとしての対抗心は人一倍あるんじゃなかろうか*3


だから本作でも、「夜と昼」すなわち「死と生」の狭間に開花するアサガオや、登場人物達が大広間から入道雲を呆けたように眺めるさまをカメラの横移動で描写するさまなどは、強い印象を残す。


だが、「サマーウォーズ」で特筆すべきは、そのような「死」とか「孤独」とか「居場所の無さ」とかいったものを、物語の結末ではなく途上で、映画の最後ではなく中盤で、主人公が克服するところにある。この映画で描かれる「死」は一つだけだ。だが、それは嫁じゃなかった夏希の親族全員に大きな衝撃をもたらす。これを克服するのは*4、「あいつを倒しましょう」「これは戦争です」「まだ負けてない」などといった、主人公が口にする少年マンガ的台詞だ。
それは言葉の力であり、新しい価値観でもある。別に、妾の息子という他人がやったことだと無視しても構わないのに、主人公の提示する価値観が皆を巻き込み、世界を救い、妾の息子も家族の一員として救うわけだ。


で、それはやはり、本作で細田守がとった作戦と重なるのだよね。
つまり、自身の内奥を掘り進むやり方では、ちょっと限界がある。また、「エヴァ」や「グレンラガン」でガイナックスがやっているような、クリエーターとしての立ち位置や周囲への鬱憤と、コピペと引用とサンプリングとを、何重にも折り重ねて別の意味を与えるようなやり方に勝てない。
ならばどうするか?もう一つ自分に残された借り物でない武器、それはまがりなりにも東映動画で14年間やってきたという経験だけだ。


だから、「サマーウォーズ」の主人公は、ロボットものの主人公が説得力のある理由ゼロでロボットを操縦できるが如く、驚異的な暗算能力を持つ。だから、オタ友とのこれで負けたら話が成り立たないよねというジャンケンで、当然のように勝つ*5ホワイトベースじゃなかった好きな先輩の実家にはマジョリカも光子郎も亀仙人も比古清十郎もいて、先輩は加持リョウジに惚れている。カメラ同ポジションは「ウテナ」からのお得意技だが、アバターによる電脳世界内でのアクションは「デジモン」、花札バトルは「ウォーゲーム」の三目並べへのオマージュというよりも「遊戯王」からの財産活用だ。


中盤で「死」や「孤独」や「居場所の無さ」を克服した主人公。その後描かれるのは、努力と友情と勝利であり、少年マンガ的かつ東映動画的魅力の沢山詰まったアクション・シーンだ。これは細田守の作品史からみて、新しい。
で、そのような理由から、最後の、葬式と誕生会の同時開催に、涙腺を刺激されるんじゃなかろうか。あれは新しい家族の誕生会であると同時に、新しい「細田アニメ」の誕生会でもあるのだ。


というわけで、「サマーウォーズ」の武器は「つながり」なんかじゃないぞという妄想話でした。


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*1:勿論、それが主題の全てではない

*2:おそらく、細田守は宮崎アニメの後継者になろうなんて、これっぽっちも考えていないに違いない

*3:それは宮崎駿本人ではなく、「宮崎アニメ」というシステムに対してのものかもしれないが

*4:最初は万助に乗っかっていた部分もあるけれど

*5:そのジャンケンシーンを当然のように省略するのが上手いところだ