社会を信じるか:『おおかみこどもの雨と雪

おおかみこどもの雨と雪 (角川文庫)
おおかみこどもの雨と雪』鑑賞。凄い映画だった。
一言でまとめるとシングルマザーのお伽話なのだが、狼男の子を生んだシングルマザーの話なのだ。世にシングルマザーの映画は数あれど、人外魔境で地底獣国出身の狼男の子を孕んだシングルマザーの映画を監督するのは細田守だけ! ……よくこんな映画作ったなぁ。


「おおかみ」が何の隠喩かであるかは映画を観た方にとっては一目瞭然なのだが、細田守の演出力により全く理屈っぽくなっていないところが凄い。同日に観た『メリダとおそろしの森』は「おおかみ」ではなく「熊」でそれら(の一部)表現しているのだが、中世を舞台にしている『メリダ』より現代が舞台の『おおかみこども』の方が全然ファンタジーでお伽話だったよ。
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どうしても連想してしまうのは河島英五が歌ったアートネイチャーのCMソング「オオカミ」だよなぁ。旦那が正体をバラした後、すぐベッドシーンだったのには笑ってしまったよ*1
自選集
河島英五
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念のために書いておけば、本作の「おおかみ」は単に男性の動物的属性のみを意味しているわけではない。ニホンオオカミは絶滅したし、他のオオカミも絶滅危惧種だ。どこにでもある話をどこにでもない形で語る、あるいは、どこにでもない話をどこにでもある形で語る。どちらにとっても重要なのは、マイノリティやマージナルな存在の視点なのだ。


凄まじいのはやはり細田守の演出力で、本棚の本の題名、服装や髪型、背景やその天候で登場人物の心理や物語を語るのは、細田にとってもう当たり前の行為なのだろう。や、映画的にも当たり前なのだが、この頻度とクオリティで語る映画はそうそう無い。
また、花がホイホイ渡る橋を旦那が絶対に渡らなかったり、教室とカメラのパンで時間経過を表現したり、華が山で出会った熊に子供が(きちんと二匹)いたのには唸った。あんなに暴力的な清掃車も初めてみた。



でもさ、一番凄まじいのは、やっぱりストーリーだよな。
本作は『時をかける少女』にあったサスペンスも無いし、『ぼくらのウォーゲーム』や『オマツリ男爵』や『サマーウォーズ』にあったアクション要素も無い。でも、細田守の過去作のいずれに比べてもクライマックスでドキドキするんだよね。それは、過去作のいずれに比べても登場人物が成長するさまがしっかりと描かれるからではなかろうか。
誰がって、母と子供たちが。


本作はお伽噺でありファンタジーであるので、細かいことをいうのは野暮というものだ。だから、「おおかみおとこ」である旦那がどうやって普通自動車免許をとったのかとか、たとえどうにかして住民票をとって免許を取得したとして、旦那の死亡通知をどうやって出したのか……なんてツッコミはしても仕方が無い。だって、今の世の中なら、どんなマイノリティでも自動車免許をとれるのだから。
でも、旦那が死んだ後、花が誰にも頼ろうとしないのは、やはりおかしい。母子家庭のための児童手当や育児支援サービスは申請したのか? とりあえず役所の福祉課に相談すべきじゃないのか? 児童虐待を疑って役所の人らしき二人が家に押しかけてきたけど、逆にチャンスだったんじゃないのか? 宮崎アニメなら居候しているパン屋のおじさん・おばさんや風呂屋の先輩が助けてくれるところだ。しかも、無条件で。
その一方で、こうも思う。もし自分が同じ立場だったら、つまり親戚や両親がいない状態で、学生で、子供作って生活に苦しんだら、役所に相談するだろうか? 隣人に相談するだろうか?
……いや、しないね。何故なら社会を信用していないから。どうせ相談しても、あちこち窓口をたらいまわしにされた挙句、追い返されるだけだから。隣人なんて、夜中に五月蝿いと文句つけてくるだけだから。
なによりも、愛する人の死に様をみたではないか。清掃車に回収されるということは、人間として扱われないということだ。社会は我々を人間として扱わない。そんな社会は信用できない。
いじめを先生に相談せずに自殺に追い込まれる生徒、貧困に苦しんでいるにも関わらず生活保護を申請せずに餓死する人々、なによりも、親にも隣人にも行政にも頼れず育児ノイローゼになるシングルマザーの心持ちって、そのようなものではなかろうか。
肌を合わせた愛する人や、血を分けた家族は信用できる。でも、冷たくて、非人間的で、顔の無い社会は信用できない。社会を信用して裏切られるよりも、孤立する方がマシだ。そういう意味で、この映画は「現在」や「社会」というもののリアルを抉っているのだ。これは素朴な共産社会を信じていた宮崎駿や、コンビニの商品しか信じていない押井守や、登場人物が全員死ぬ富野由悠季には無かった視点だ。
だから花は常に笑っている。あの笑顔は子供を虐待しないための精神的セッティングであると同時に、本音を隠し、社会から身を守るための、花が父親から受け継いだ鎧なのだ。


以下、ネタバレだけどなるべくネタバレにならないように書くよ。


でも、そんな花が、少しだけ成長するんだよね。そして、子供はもっと成長する。
菅原文太演じる韮崎は、そんな花を見透かしている。見透かした上で協力している。彼は花に、形だけでも社会というものを信用して、上手くつきあうことを教えたいし、その契機を与えたいのだ。「笑うな」というのは、「本音を言え」という意味だ。「畑が大きくなくてはならない理由が分かりました」というのは、花にとっての一種の敗北宣言だろう。
けれども花は、自分の子供たちが「おおかみこども」であることを、この段になっても絶対に言わない。自分を信用してくれている筈の韮崎のおじいちゃんにも絶対に明かさない*2。冷たい都会は信用できないけれど、田舎もやっぱり信用できない。「おおかみおとこ」のように警戒心の強い花は、やっぱり社会を完全に信用できないのだ。
でも、そんな花の子供たちは、成長して、社会を信用しはじめるんだよね。
雨や雪は「死」や擬似的な「殺人*3」といった彼らなりの通過儀礼を契機に成長していく。そして、社会を信用していく。旦那の「死」を契機に社会を信用しなくなった花とは対照的だ。
雨は「先生」を通して山という別の社会を全面的に受け入れるばかりか、「先生」の跡を継いで社会をまるごと引き受ける。雪は母の言いつけに背いて自分の正体を打ち明ける。今後も、彼らはそうするだろう。
だから、二人の子供が去った後、一人で食事をする花の姿は、どこかしら寂しい。でも、親離れというのは、そういうものだ。親は子供に負ける。子供は親を殺す。そして親を越えていく。小津映画のような寂しさが本作のラストにはある。この寂しさを受け入れるのが人生だ。


シングルマザーを扱った映画としては『KOTOKO』という快作があったのだけれども、『KOTOKO』とはまた違った手法で同じような話を描いた作品だと思ったよ。
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で、ちょっとズルいと思ったのは、やっぱり旦那が死んだという話にしたことなんだよね。
この話、構造的には、シングルマザーではなくてシングルファザーの話にしても充分成り立つと思うのだ。生活のディティールを大量に入れ込むこの作り方なら、絶対シングルファザーの話か、旦那を生かして家族四人の話にした方が良い。「世の中にはシングルファザーよりもシングルマザーの方が多い」という反論は反論にならない。何故なら、過去作をみるに、どう考えたって細田守は自分の抱える問題意識を作品に入れ込むタイプの監督だからだ。生涯独身だった小津だって「老いた男」という形で『晩春』や『秋刀魚の味』に自分を入れ込んでいたではないか。
これは全くの想像なのだけれども、多分、細田守は父親としての育児に自信が無いのじゃなかろうか。自分の仕事が楽しくて楽しくて、ある程度家庭に戻って育児をやらなきゃいけないと思ってはいるのだけれどもやれなくて、そのことに対して罪悪感があるのではなかろうか*4
何故そんなことがいえるのかというと、おれもそうだからだ!

*1:……なんてことをツイートしたら、@ngctmhrさんから『アリスSOS』のオープニングも……と返された。確かに!

*2:多分、気づいていると思うけれども

*3:本作で身内以外の血が流れるのはあのシーンだけだ

*4:そういや同様のことを富野由悠季も書いていたし、宮崎アニメに父親の存在感が希薄なのも「父ちゃんはアニメで忙しいから死んだことにしといてくれ」というのが理由だと思う