すべてのヒーロー・チームはファイト・クラブである:『キック・アス ジャスティス・フォーエバー』

キック・アス ジャスティス・フォーエバー』観賞。なんだかヒーローについての論考や論文を意地悪く映画化したみたいな映画だった。この意地悪さは、狙ってやった結果かどうかが判断できないのだが、はっきりいって好みだわあ。


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前作『キック・アス』はケレン味たっぷりの快作だった。ボンクラで貧相なガタイで童貞でアメコミのスーパーヒーローに憧れていてちょっと正義感が強いだけのそこら辺にいそうな男子が本当のスーパーヒーローになる――というさまをポップなアクションと血まみれバイオレンスを両立させて描いていた。
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その後、原作を読んでみて驚いた。主人公は正義感ではなく思春期ボンクラ特有のこじらせた自意識*1からヒーローになる。ビッグ・ダディがヒーローになる理由は復讐ではなく主人公の人生の延長線上にあるものだし、レッド・ミストはまるでジョーカーの如きものに変貌する。ヒーローとヴィランの両方が屈折しており、アメコミの「お約束」を逆手にとったような展開が連続する。『キック・アス』はアメコミヒーローというジャンルの解体(と再構築)を『ウォッチメン』とは別の視点でやろうとした作品だったのだ*2
これをもって映画を見直すと、映画版に隠された悪意が良く分かる。ヒーローとしてのキック・アスが誕生した結果、ヴィランとしてのレッド・ミストも誕生する。ビッグ・ダディやヒット・ガールのみならずキック・アスも殺人を犯す。そしてその殺人こそが、ヒーローの一員として認められる資格になるのだ。
世の中には二種類のアクション映画がある。ポップでケレン味たっぷりなアクションシーンが愉快で楽しい気分にさせてくれる「普通のアクション映画」と、凄惨で残酷なバイオレンスシーンがバイオレンスについての考察を促す「バイオレンス映画」の二種類がだ。『キック・アス』はバイオレンス映画なのだ。しかも、アクションシーンがポップでケレン味たっぷりなので、余計性質が悪い。これこそ映画の悪意だ。



キック・アス ジャスティス・フォーエバー』は前作が持っていた悪意を更に増幅したようなお話だ。
もはや主人公は貧相なガタイのボンクラではない。演じるアーロン・テイラー・ジョンソンはしっかり筋トレをこなし、最後には腹筋が六つに割れる。トイレでのセックスもなんなくこなすところからみると、随分前に童貞も捨てている。
かといって一人前のヒーローというわけでもない。義父への恩義から普通の女の子になりたいヒットガールとのダイナミックデュオ結成*3を断られたキック・アスは、自分と同じようなボンクラ以上ヒーロー未満の半人前たちとヒーロー・チーム「ジャスティス・フォーエバー」を結成する。いわゆるチームアップだ。
このメンバーがまた良い。行方不明の息子を捜すためにヒーローになった夫婦二人組「リメンバー・トミー」は普通のおっさんおばさんだし、重力を操る物理学者――という脳内設定の「Dr. グラビティ」は当然博士でも科学者でもないし、殺された親の復讐で戦う――という設定の「バトルガイ」の両親は健在で、しかも主人公の高校のボンクラ友達だ。皆そこら辺のDIY店で買った素材で作ったようなお手製の安っぽい衣装に身を包んでおり、リメンバー・トミーに至っては水色ジャージの下に「息子を探してます」Tシャツだ。A級予算で作られたハリウッド映画なのに、まるで井口昇の映画に出てくるキャラクターのようだ*4


で、また面白いことにジャスティス・フォーエバーの連中がやるヒーロー活動は、真実や正義やアメリカンウェイを守るためにやっているわけじゃないんだよね。彼らが犯罪組織と戦うのは、単に「ヒーローになりたい」からなのだ。つまり自称ヒーロー版『ファイト・クラブ』だ。
ショボくて生き辛い現実生活をしばし忘れるために、カッチョ良い(と自分たちは思い込んでいる)衣装に身を包み、コミックの中のヒーローの真似をしたいだけなのだ。
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だから本作ではヒーローが無垢な一般市民を助けたり、平和を守ったりというような描写が全く無い。キック・アスやDr. グラビティがチンピラに絡まれるのは彼らがヒーローの衣装を着ているからだし、レッド・ミストがマザー・ファッカーと名を改めヴィラン・チームを結成するのもキック・アスがヒーロー・チームを結成したからだ。唯一、デリヘル事務所みたいなところに乗り込んで娼婦を解放するシーンが「市民の平和を守る」に該当するかもしれないが、描き方の意地悪さといったらない。ケバい娼婦の求めに応じてお金を渡したりするのだ。彼女達はお金を使い切ったら娼婦に戻るのだろう――つまり、誘拐されて売春を強制されてなどいなかったのだ。


そんなわけで、こういったシーンが連続し、彼らは本当にスーパーヒーローなのか? 彼らがスーパーヒーローだとしたら、「スーパーヒーロー」とはいったいどういう存在なのか? 彼らの謳う「正義」に正当性はあるのか? ある意味すべてのヒーロー・チームがファイト・クラブ的要素を内包しているのではないか? ……といった問いについて考えさせられることになる。


以下ネタバレ


コミックの中の多くのヒーローたちは肉親の死をきっかけにヒーローやヴィランになるが、キック・アスもマザー・ファッカーもヒーローやヴィランになった結果父親や父親同然の人間が死ぬ。そしてその死を、ヒーローやヴィランになるための資格として――ヒーローやヴィランの物語を強化するために利用するのだ。レッド・ミストにとっての「アルフレッド」だったハビエルが死ぬシーンと、キック・アスにとっての「ベンおじさん」だった父親が死ぬシーンは対置されている。彼らは肉親が死んだからヒーローやヴィランになったのではない。ヒーローやヴィランになるために肉親の死を精神的に利用するのだ。


そして、『キック・アス』世界のヒーローは殺人をためらわない。だから暴力が暴力を産み、どんどん拡大する。『ファイト・クラブ』がテロリズムに行き着いたように、ヒーロー・チームとヴィラン・チームとの血みどろの闘いに発展する。もはやそれはやくざ同士の抗争に過ぎない。
本作を観ているとスーパーマンバットマンが殺人を忌避する理由が良く分かる。行き着くところはここなのだ。
アメリカは歴史的理由から自警団的活動に一定の「正義の正当性」を見出す国だ。だから、過去、こういったテーマに触れた作品が無かったわけではない。『パニッシャー』は犯罪者を必ず殺害したし、スーパーヒーローものを離れれば『奴らを高く吊るせ!』や『ダーティハリー2』といった作品はそれそのもの――自警団による私刑と正義の正当性をテーマにしていた。しかしヒーローに憧れる(元)ボンクラ男や無茶苦茶強くて口の汚い美少女といったキャラクターを用いて語られるのは初めてだ。『スーパー!』の主人公はおっさんだったし。
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だから、本作で普通の女の子を目指すヒット・ガールが学校でゲロゲリ棒を使うシーンは――本当に面白いけれども――本当に意味深に思えてくる。おそらく、殺人を行なわない本当のアメリカンヒーローに許される私刑行為の限界ギリギリがゲロゲリ棒――強制的にゲロを吐かせゲリを噴出させる棒――なのだ。クライマックスで主人公のボンクラ友達二人がゲロゲリ棒を使うのも上手くできている。彼らはあくまでも脇役なので、「ヒーローと殺人」というテーマに絡めないのだ。おそらくあの二人は劇中で殺人を犯してないし、今後も犯さないだろう。


ジム・キャリー演じるスターズ・アンド・ストライプス大佐は弾丸の入っていない銃を持っているし、キック・アスやヒット・ガールの(義)父やマザー・ファッカーの執事は、殺人の伴うヒーロー活動を辞めさせようとする。彼ら「大人たち」は「汚いことを口にするな」と説教する。一方で、ヒット・ガール(とビッグ・ダディ)は汚い言葉を存分に口にし、ヒーロー活動と殺人がイコールになっている。
ここが本作の倒錯的なところなのだが、どちらかといえば前者の方が、コスチュームも着ていないしスーパーヒーローも名乗らないけれど、ヒーローっぽいのだ。
ストライプス大佐やマーカスやハビエルは、一つ前の世代のヒーロー、殺人を犯さず、市民の安全や、正義と真実とアメリカンウェイを守るコミックの中のヒーローの役割を、当人が意識するしないに関わらず、担ってしまっている。
一方で、ヒット・ガール(やビッグ・ダディ)が象徴としているものは現在の――ジャンルの解体と再構築の果てに生まれたヒーローだろう。


更に本作では「現実」と「虚構」というテーマがこれに重ねあわされる*5こととなる。本作ではキック・アスやヒット・ガールが警察組織という「現実」から「しっぺ返し」をくらう展開になる。ファイト・クラブの敵が「現実」であったように、キック・アスやマザー・ファッカーの真の敵は「現実」なのだ。
ボンクラ男の数だけキック・アスは存在するが、ある意味完璧な(脱構築後の)ヒーロー像*6といえるヒット・ガール(やビッグ・ダディ)は存在しない。クロエたんが車の屋根に登って大暴れするシーンは本作随一の燃えるシーンだが、もの凄く合成っぽいシーンでもある。

本作のクライマックスで、マザー・ファッカーのアジトに何故かサメの入った水槽が置かれているというのも象徴的だ。「死んでるんじゃないか?」というくらい大人しいサメだが、水槽に身体を入れれば絶対に噛まれる。普段は大人しい「現実」にちょっかいを出せば、必ず「しっぺ返し」を喰らうように。


だが、マザー・ファッカーは生き残った。これはキック・アスの勝利であり、マザー・ファッカーの勝利であり、ファイト・クラブの勝利だ。三作目が待ち遠しくてたまらない。


おっとその前に、おそらく同じテーマを100倍の残酷さと意地悪さでやっているであろう原作本も読まねば。
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ヒット・ガール
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*1:作中では「孤独と絶望」なんて格好良く表現されるのがまた良い

*2:これは程度の差こそあれ、『アルティメッツ』や『ウォンテッド』でも共通していた

*3:どっちがバットマンでどっちがロビンかというやりとりにニヤニヤする

*4:片腕マシンガール』の「スーパー遺族」を思い出してしまったよ

*5:前作にもあったが、より前面に出てくる

*6:だから皆クロエたんヒットガールたんと萌え狂っているのだ