神の不在と越境について:『桐島、部活やめるってよ』

格差があって、戦争がある。だから――学校は、世界だ。

あちこちで評判の良い『桐島、部活やめるってよ』を観たのだが、聞きしに勝る映画だった。いわゆるスクール・カーストがテーマなのだが、高校生活から20年以上経たんとしているおっさんの自分にも、他人事とは思えない描写が満載だった。
あまりにも面白かったので、その後原作小説も読んだ。面白かった。面白かったのだが、映画化するに当たって、どこを切り捨ててどこを膨らませるかの選択が絶妙だと感じた。

ぬおおお…!桐島は原作が映画をレイプするというなかなか珍しい現象を生んでいるやもしれませぬ。

という原作者の呟きが、さもありなんという感じだった。


桐島、部活やめるってよ (集英社文庫)
朝井 リョウ
4087468178
原作は、複数人の高校生による一人称視点での短編が続く連作形式なのだが、映画はこれを『レザボア・ドッグス』や『現金に体を張れ』といった時間軸をシャッフルする形式に置き換えている。金曜日が視点を変えて何回も続いた後、一気に時間が進むドライブ感は、映画ならではのドラマの作り方だ。脚本の段階でかなり推敲したんじゃなかろうか。


小説版と同じく、映画版も同一の事象が様々な視点から異なる物語として語られる。美男美女で勉強も運動もできるけど敢えて部活には入らないリア充グループ、部活動における強さや勝利が人間関係の優位性に影響を及ぼす体育会系グループ、最も下の階層に位置する文化系グループ。
リア充グループにも体育会系グル−プにもリスペクトされまくっていたネ申のようなカリスマ男子生徒――桐島の不在が皆に動揺をもたらす。一方で、文化系グループは全く動揺しない。それは、桐島――キリストがいなくても道に迷わないからだ……というストーリーと演出の素晴らしさは、ネット上で既に秀逸な解説が幾つか書かれているので、ここでは書かない。
中森明夫氏による映画「桐島、部活やめるってよ」のレビューが素晴らしい件【ややネタバレ】 - NAVER まとめ
2012-08-19 - ゾンビ、カンフー、ロックンロール


何が良いかって、緊張感と閉塞感に溢れた作風が良い。
原作では結構描かれていた家庭でのシーンをほとんど撮らず、学校内でのシーンが延々と続く。画面を覆う、くすんだ色の空や後者の壁が、独特の緊張感を醸し出す。稀に、塾やマックやバスの車内でのシーンが映るが、それらは全て夜間撮影だ。そして本音を隠し、「あの人たちにはこんなことしゃべれないよね」と親しい者だけに打ち明け、グループ内に更なるサブグループを作り、分断される。
しかし、それなりに過ごしやすい日常ではある。この日常が永遠に続くかのような閉塞感。一方で、永遠に続くかのように日常が、実は永遠じゃないことに誰もが気づいてる自明感。原作で「ほっとしたような、何かをひとつずつ諦めていくような、だけどやっぱり安心した気持ち」と秀逸な言語表現で説明されていた感覚が、見事に映像として表現されている。この感覚、確かに自分も中学や高校の頃に感じていたような気がするなぁ。


やっぱり自分が感情移入してしまうのは文化系グループ、それも、神木隆之介演じる映画部部長の前田涼也だ。
顧問の先生に『ゾンビ』の素晴らしさを熱く語って呆れられる神木くん。顧問から押し付けられた文芸映画というオーダーを無視して『生徒会・オブ・ザ・デッド』の撮影を強行する神木くん。授業中に絵コンテ描きに精を出す神木くん。体育のサッカーのチーム分けで最期までいらない子扱いされる神木くん。読書しながら親友を待っていたら、オーラを消す上手さから、うっかり女子のヒソヒソ話を聞いてしまう神木くん。しかも、あいつなら聞かれても大丈夫だよとはなから非人扱いの神木くん。自分は孤独かと思いきや、ソウルメイトであることを再確認した武文に抱きつく神木くん。愛読誌は勿論「映画秘宝」だ。「今月はなかなか頑張ってたよ」という上から目線の台詞が秀逸すぎる。
もうさ、他人事とは思えないよ。中学や大学時代のおれ*1かと思ったよ!


気分でも変えようとお気に入りの映画を観にいったら、同じ劇場に気になっていた同じクラスの娘がいて、普段は親友にも奢らないジュースを奢って、映画の感想で話が弾む(弾んだような気になる)……そんな妄想、高校の頃に何度としたことか! しかもその娘がおかっぱの橋本愛ときたもんだ! おれ達がこの夏観なきゃいけなかった映画は『プロメテウス』でも『アベンジャーズ』でもなく、これだったんだ!


以下ネタバレ。


しかも、この妄想をきっちり裏切る監督の上手さといったらない。
映画化にあたり、最も改変されたのが桐島の神性(小説版では桐島の不在に映画版ほどうろたえない)と前田周辺のエピソードだ。
原作における前田の愛読誌は「キネマ旬報」、好きな監督は岩井俊二だ、親友の武文が「昨日また観ちゃったよー」とのたまう映画は『ジョゼと虎と魚たち』だ。それが「映画秘宝」になり、ジョージ・A・ロメロになり、『スクリーム2』に置換されている。映画館で『鉄男』のリバイバル上映まで観る。対立する顧問の机の上には日本語版「PREMIERE」まで置かれている芸の細かさだ。
映画が映画を扱う時、それは自己言及となる。本作でも、前田周辺の描写はメタ性が高い。かすみとの会話で出てくる「タランティーノ」は構成のスタイルについての説明だし、『鉄男』からわざわざ股間のドリルを回すシーンを引用してくるのは、前田のかすみに対する性的な思いを説明している*2。原作ではポニーテールだったかすみの髪型が映画版ではショートであることすら、ゴダール映画におけるアンナ・カリーナに代表される、映画史におけるショートボブのミューズの系譜を参照しているようにさえ思える。
一方で、その後の会話で、かすみが本当は映画に興味無いことを暗示してもいる*3。原作では、わざわざ文庫化にあたって中学時代のかすみ視点の一編を書き下ろし、かすみが本当に映画好きであることを説明しているのだが、映画版のかすみは、高校生になった時点で映画に興味が無くなってしまったようにみえるのだ。ていうか、仮に映画版のかすみがまだ『ジョゼと虎と魚たち』が好きな娘だったとしても、『鉄男』は好きじゃないよ!!
更に更に、ここが一番重要なのだが、原作ではあくまでも親友の武文が脚本を書きコンテを描き、前田はあくまでも武文に引っ張られる形で自主映画製作に突き進んでいったのだが、映画版では前田自ら部を引っ張っていく。その契機が、恋愛であり、失恋なのだ。だからもう、クライマックスは泣けて泣けて仕方なかったよ。



多分、監督は映画化に当たって「オトナの視点」を入れ込むことに気を使ったんじゃなかろうか。
原作は、作者浅井リョウが19歳の時に発表した小説だ。すなわち、僅か数年前の感覚や経験を活かして書いている。原作最大の魅力は、スクール・カーストの切実さや言及されるサブカルチャーのリアリティでも無く、授業中に脚の間を通り抜けていく風とか、汗と共に噴出す悪意のこもった成分とか、ジャージを通して肌に触れる風の冷たさとかいったような、当事者にしか書けない瑞々しい描写の数々だと思う。
でも、これを映画化するのは至難の業だ。文章表現を映像化する難しさといった話ではない。いつか通ってきた道とはいえ、30や40のおっさんが、17、18の頃の感覚を取り戻すのは困難なのだ。
じゃ、どうするかといったら、30や40のおっさんにならなければ手に入れられない視点を入れ込むことなのではないかと思う。
現実社会の反映としての学校――という視点だ。


前田周辺の改変は、明らかに監督自身の人生の反映だろう。どのグループも一見フェアに描いているものの、桐島の不在にうろたえまくる梨紗や、最後にミューズからの制裁をうける沙奈が悪人として描かれているのと比較すれば、監督の思いは、幾分かの成長を遂げる宏樹や、沢島や、前田、「敗者」として描かれる実果や風助にある。
もっといえば、「映画秘宝」を上から目線で愛読しつつ、ゾンビには人生の全てがあると強弁し、8ミリフィルムでの撮影に拘る前田――ってのは、2000年代というよりも、70年代や80年代に青春を送ったであろう監督のメンタリティのように思える。や、80年代にまだ映画秘宝は創刊されてなかったけれども、現代の高校生ならHDカメラで撮影しそうだ。
あの、儚くも美しいフィルム撮影のクライマックスは、遠景からのショットで唐突に終わる。よくみると映画部員は全員正座させられているので、あのクライマックスは前田の妄想だったことが分かる。現実には、前田は敗北している。しかし、現実では負けていても、フィルムという「映画」の中で勝利したのは前田だ。映画における「映画」――映画内映画はもう一つの現実だ。ことが終わった後、宏樹が聞くことになる前田の台詞は、全て監督のメッセージそのものだ。


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また、本作の高校生活描写からは暴力的要素が排除されている。自分が通っていた中学や高校は偏差値的に中の上くらいだったのだが、それでも小突きあいや小競り合いは日常的にあった。本作における物理的暴力の無さは、現実社会の反映のようにも思える。体育のサッカー試合中にファールを偽装して陰湿に暴力を振るわれるとか、読んでいる「映画秘宝」を取り上げられて囃し立てられるとか、あっても良さそうなものだが、全然無い。それとも、今の偏差値高い高校ってどこもこんなにノー暴力なのかね? 本作は『エレファント』と共に語られることが多いのだが、『エレファント』にあった暴力描写が本作にはほとんど無いことにも注目したい。



現実社会は、高校以上の格差社会だ。しかも、高校ほど分かりやすく階層化されていない。どの階層が「上」で、どの階層が「下」かを単純な視点で判断できない。収入が「上」でも見下されている者もいれば、外見が「下」でも尊敬されている者もいる。暴力も周到に隠されている。しかし、はっきりと分断されてはいる。正規雇用は非正規雇用の気持ちを完全には理解できないし、スタバのイケメン店員は汗水たらして営業にかけまわるおっさんの気持ちを理解できない。独身ニートはシングルマザーの気持ちを理解できないし、サッカーの国際試合に熱中する人間はオリンピックの中継中に映画館でボンクラ映画を観る人間を理解できない。映画部の前田や吹奏楽部の沢島がリア充グループや体育会系グループに馬鹿にされていようとも、単純な「上」や「下」の構図で図れない結末を迎えるのは、監督の希望であると同時に、現実の反映とも思える。


この分断を解決する手がかり、それは越境じゃなかろうか。
ボンクラグループの前田はかすみに思い切って声をかけ、そして勝手に失望することで成長する。武文には理解できなかった吹奏楽部の沢島のやむにやまれぬ気持ちも、なんとなく理解できるようになる。沢島もリア充グループの宏樹に恋焦がれ、勝手に失恋することで自分の気持ちに決着をつける。女子グループの実果は体育会系グループの風助に自分と同じものを見出す。そして宏樹は、自分が一度は捨てた体育会系グループのキャプテンやボンクラの前田に神性を見出す。グループを越えた越境が、桐島の神性を代替するのだ。越境者に神は必要無い。
それでもやっぱり最後は神に電話をかけてしまう宏樹の結末に、青春映画ならではの物哀しさを感じた。自分は前田に感情移入しまくったのだが、前田の台詞に心動かされるってことは、実のとこと宏樹に近い人間なのかもしれないな。

*1:高校は男子校だったので事情が違った

*2:説明するまでもないけどな!

*3:橋本愛のうわべトークな返事が最高すぎる!