笑福亭鶴瓶が真実を吐露する時、世界は崩壊する:「ディア・ドクター」

サマーウォーズ」とか「山形スクリーム」とか「ボルト」とか「コネクテッド」とか「セントアンナの奇跡」とか、今週は観たい映画が一杯なのだが、上映館と自分の自由時間の都合がつかないので、とりあえず公開終了間近っぽい「ディア・ドクター」を観た。……この出来で、監督は35才らしい。西川美和天才だわー、邦画の将来は彼女がいれば安泰だわー、終わり……では芸が無いので駄文を綴ってみたい。



キャスティング手法の一つで、タイプキャストというのがある。シュワルツェネッガーの演じる役はいつも軍人や元軍人や特殊部隊員ばかり*1とか、アンソニー・ホプキンスの演じる役は孤独で偏屈な老人やレクター博士ばかり、というあれだ。勿論、シュワルツェネッガーがインテリ弁護士やマイホームパパを演じたり、アンソニー・ホプキンスが熱血漢を演じる面白さもあるが、それはタイプキャストの対極にある、いわゆるミスマッチの面白さというやつだ。


もう一つ、役者の芸能人としての立ち位置や、振る舞いや、パブリックイメージを織り込んだキャスティング手法がある。最近の作品でいうと「レスラー」のミッキー・ロークや「その男ヴァン・ダム」のジャン=クロード・ヴァン・ダムなんかがそれに当たるだろう。「レスラー」や「その男ヴァン・ダム」は紛う方無きフィクションだ。だが映画というものは、たとえそれが演技であっても、カメラの前の現実を記録するという性質がある。マットの上で血だらけになるミッキー・ローク、カメラの前で独白するヴァン・ダム。それらは演技であるが、カメラの前で実際に起こったことではある。映画とは、本当にその場で起こったことを捉えるメディアなのだ*2。それ故に、フィクションの中の登場人物と現実の役者のイメージが幾層にも重なり合い、虚実が入り混じり、映画ならではの感動を生んだりする。


さて本題だ。
笑福亭鶴瓶のパブリックイメージとはなんであろうか。人懐っこい笑顔、柔らかい物腰、だが眼鏡の奥の瞳は笑っていない、時に暴走する、うさんくさい、すぐ裸になる、師匠クラスにも関わらず今もって体を張りまくる、師匠クラスにも関わらず笑いに対して貪欲……等々が挙げられよう。


一つ重要なところは、あの年齢と立ち位置にも関わらず体を張り続け、笑いに対して貪欲であることを、視聴者のほとんどが当然だと考えている点だ。あんなにも裸にならなくても、あんなにも若手芸人とからまなくても、笑福亭鶴瓶は一生喰っていけるだろう。しかし、鶴瓶は芸人として「攻め」続ける。まるでそれが既存のテレビや「お笑い業界」というシステムに反抗する唯一の術であるかのように、或いは、周囲に集う若手芸人や旧知のベテラン芸人とカラんだりイジったりすることで彼らにパスを出したり救ってやったりするかのように、鶴瓶は挑戦し続ける。
そして視聴者は、それを意識下で敏感に感じ取ると同時に、そのような振る舞いが当然であるとも思う。それが単なるタレントでも芸能人でもなく、芸人・笑福亭鶴瓶の存在理由であるからだ。だから、たとえ笑顔でも、眼鏡の奥の眼は笑っていない。そう感じてしまう。
それは要するに、人間・駿河学が芸人・笑福亭鶴瓶を常に演じ続け、最早両者の区別が本人にもつけ難くなっていることを、テレビの前の視聴者が当然だと考えているということでもある。そう、笑福亭鶴瓶とは虚実入り乱れた存在なのだ。そして、我々はそのことを当然だとも思っている。


で、「ディア・ドクター」だ。
笑福亭鶴瓶は近年、役者としても活躍している。人懐っこい笑顔で皆から愛される善人か、うさんくさくて一癖ある悪人なんかを演じている。「ディア・ドクター」にて鶴瓶が主役として起用された理由も、そのようなタイプキャストからだと最初は思える。
だが、映画も半ばを経るに従って、それは違うのだと分かる。予告編にてもうバレバレであるので思い切って書いてしまうと、「ディア・ドクター」にて鶴瓶が演じる伊野という男はニセ医者だ。しかも、周囲の人間のうち何人かは彼がニセ医者であることに半ば気づいてもいるが、医療過疎の観点から、もしくは、医者としてではなく人間としての尊敬から、それを容認し、医者を演じ続けることを期待してもいる。
「ディア・ドクター」はそのような二重性を持った男である伊野が失踪した直後から映画が始まり、刑事が捜査する現在パートと、伊野が医者として活躍する過去パートを交互に行き交う構造をとっている。その理由は明らかで、ニセ医者であることが判明するシーンが映画的クライマックスになるのを避ける為、そして、虚実を折り重ねる為だ。


そしてある時、映画内で伊野という男が持つ二重性すなわち虚実が、現実における芸人・笑福亭鶴瓶の虚実とシンクロするのだ。そう、この映画は「レスラー」や「その男ヴァン・ダム」と同じく、役者がスクリーンに自らの人生を投影し、映画内世界が役者の現実に影響を与える、虚構とリアルとが響きあう映画だったのだ。


「ディア・ドクター」において伊野が抱える二重性は、半ば周囲から求められたものだ。だから、伊野が真実を吐露することは許されない。それは、虚構世界を破壊する行為であるからだ。
ある時、堪えかねた伊野は、瑛太演じる研修医に告白する。「俺はニセモノやねん。医者の資格ないねん」しかし、瑛太はそれを医師免許の有無ではなく医師としての本質の有無と解釈する台詞を返す。この時、瑛太が真実に気づいているのか、それとも純粋すぎて伊野の告白だということに気づかないのか、判断は、観客に委ねられる*3。しかしいずれにせよ、この映画内世界は伊野の告白を許さない。伊野の告白を認めた時、映画内世界の秩序は崩壊するからだ*4


この時、伊野は諦念にも安堵にも似た薄ら笑いを浮かべる。この笑いに、笑福亭鶴瓶がテレビのバラエティー番組でよくツッコまれる、顔は笑顔だけれど眼鏡の奥の眼は笑っていない笑いを重ねてしまうのは、私だけではないだろう。


SWITCH vol.27 No.7(スイッチ2009年7月号)特集:笑福亭鶴瓶[鶴瓶になった男の物語]
猪野辰
4884181476

*1:これが嫌で知事になったというのは穿ちすぎか

*2:CG使いすぎ!という類の批判はこの「実際に起こった感」を裏切るという意味で、それなりの正当性があるように思う

*3:こういう演出が随所にあり、西川美和って上手!と痛感する

*4:だから結局、伊野は言葉での戦いと諦め、逃げるしかなくなる