フード理論と映画的記憶(とジロリアン):『ゴロツキはいつも食卓を襲う フード理論とステレオタイプフード50』
タマフルでお馴染み福田里香センセイの新刊を読了。
ゴロツキはいつも食卓を襲う フード理論とステレオタイプフード50
福田里香 オノ・ナツメ
この本、どんな本かというと、映画やマンガといった映像・画像作品における食べ物――「フード」の役割について延々と語る本だ。
まず冒頭、著者は、自身が標榜する「フード理論」について、「フード理論三原則」という形で明快に説明する。
- 善人はフードをおいしそうに食べる
- 正体不明者はフードを食べない
- 悪人はフードを粗末に扱う
- (追加:食べものでたわいもないギャグをするのは憎めないヤツ)
もう、この三原則を聞いただけで、様々な映画やマンガのシーンが頭に浮かぶというものだ。
自分はラーメン二郎狂信者――ジロリアンなのだが、ジロリアンの目から見ても「フード理論三原則」は納得できる。二郎をおいしそうに食べる奴はどんなにルックスがまずかろうが善人に違いないし、二郎を粗末に扱う奴は悪人にちがいない、ていうか土下座だ! ギルティだ!
体裁はエッセイなので入口は軽いのだが、物語における「フード」の重要性を考えるに、かなり面白い本じゃないかと思う。オノ・ナツメのイラストも良かった。
次に、著者は、タマフルにて持論を展開した時と同じく、具体例を挙げたり、フードにまつわる演出の起源を探ったりしつつ、各論に入っていく。
参考:TBS RADIO ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル
参考:TBS RADIO ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル
たとえば「14 動物に餌を与えるひとは善人だ 自分が食べるより先に与えるひとは、もはや聖人並みである」で例に出されるのは『風の谷のナウシカ』だ。
『ナウシカ』以降、「小動物を肩に乗せたヒロイン」というキャラクターが爆発的に増えた。だが、その小動物に餌をあげるシーンをさりげなく挟むのは、宮崎アニメだけだと著者は指摘する。これだけでヒロインが善人にみえる、と。
また、腐海に落ちて気絶したナウシカは、目覚めた途端、自分の肩に乗った小動物――テトにチコの実を食べさせる。自分が食べるよりも早く。同様に、ユパ様やアシタカは愛馬から降りると自分が水を飲む前に馬に水をやるし、バズーとシータに至っては、自分たちの朝食を食べる前に小鳥に餌をあげる。こんなキャラ、もはや善人を超えて聖人ではないか! というのが趣旨だ。確かにそう思う。
こういった、「実際に体験したことがないにもかかわらず、映画やマンガを通してよく知っているフードにまつわる現象」を「ステレオタイプフード」と著者は呼んでいる。
- 「家族で食事している最中、土足で上がり込んできたゴロツキに食卓をひっくり返され、食事を台無しにされる」
- 「少女マンガの世界では、暖かいココアには傷ついた心を癒す効力があると信じられている」
- 「マグカップを真顔でかかえたら心に不安があるか打ち明け話がはじまる」
- 「お菓子と果実はエロスのメタファーとして食べられる」
- 「レストランのテーブルで男女が向かいあって食事をしたらセックスの暗喩」
- 「絶世の美女は何も食べない」
- 「孤独なひとはひとりでごはんを食べる」
- 「煙草を手放さないひとは心に秘密を抱える傍観者」
自分は子供や動物が一心不乱になにかを食べるさまに目が無くて、(たとえそれが実子じゃなくても)ちょっと目が潤んでくるくらいなのだけれど、人間が食べ物――「フード」を食べる存在である限り、こういった演出が持つ効果は普遍的でありつつ、一定のメディアやジャンルの中で、そのバリエーションを増やしていくのだと思う。
……残念なのは、映画やマンガにおける具体例を示している箇所が少ない点だ。「記憶力がないもので」という理由から「ステレオタイプフード」の必要条件のみを説明するに留まっている章が幾つかあるのだが、タマフルでも『七人の侍』や宮崎アニメを題材に説明している部分が一番面白かったのに。
本書でも、起源をきっちり説明している章はしてない章に比べて断然面白いし、勉強にもなった。「ココアに潜む傷ついた心を癒す効力」の期限が60〜70年代のココアのCMに起源を持つことや、50年代に喫煙が「女性の無害なおしゃれアイテム」として認知されていたなんて、初めて知った。『銀河ヒッチハイクガイド』の「イタリア料理店が逆立ちしてるような」宇宙船の動力部分に、そんな意味があったとは……
「お菓子と果実はエロスのメタファー」や「絶世の美女は何も食べない」のように、起源を神話や伝説にまで遡れるものもある。
そう、食べ物は、物語の演出上、感情の機微を伝えるための優秀な装置として機能し、キャラクターの特性をひと目で表すためのアイコン的な役割をも果たしているのだ。
既存作品やジャンルの歴史性といった文脈に則った暗喩や演出。それも、キャラクターの感情や特性、すなわち作り手の狙いを伝えるための演出。多分、このような画像解釈の最初の取り組みは、絵画や彫刻に表された事物に意味を見出すイコノグラフィーやイコノロジーであり(そういや「アイコン」と同じ語源だ)、「フード理論」はそのような意味の捉え方・見出し方の現代バージョンといえるのではなかろうか。
また、映画に限っていえば、それは、ハスミンこと蓮實重彦がいっていた「映画的記憶」そのものなんじゃないかと思う。
シネマの記憶装置
蓮實 重彦
全ての芸術作品は引用から成り立っている。どんな作品もスタンドアローンではありえず、他の作品と関係性や関連性を持つ。映画におけるそれらは「映画的記憶」と呼ばれ、観客の脳内に沈殿する。そして、映画が映画であることに自覚的な演出家は、それを利用するのだ。
ただ、分かりやすさを重視する最近のシネコン映画では、そういった演出――観客の頭の中にある映画的記憶を利用した演出は、残念ながらあまりみられなくなってしまった。観客にジャンルにおける教養や、文脈を「読む」想像力を要求するからだ。さきほど「一定のメディアやジャンルの中で」という言葉で限定したのは、これが頭にあったからだ。
一方で、宮崎駿や押井守といった映画的文法を重視するアニメ監督や、スピルバーグやスコセッシやタランティーノといったシネフィル監督、ジョン・ウーやジョニー・トーといったフランス・ノワール映画に源流を持つ香港ノワール映画監督などは、今でもそういった演出を使いまくっている。
で、フードに纏わる演出手法を「ヌーベルバーグにおける煙草の使い方云々〜」みたいな鼻につくやり方ではなく、ジブリアニメや少女漫画といった視点から語る、という点が「フード理論」の面白さなんじゃないかと思った。
勿論、シネコン映画に限らなければ、「そういった演出」が完全になくなったわけでも、使用されなくなったわけでもない。たとえば「死亡フラグ」みたいなキャラクターの退場に関わる伏線や、「ツンデレ」「ヤンデレ」といったキャラクターの類型的説明は、現代アニメにおける映画的記憶ならぬ「アニメ的記憶」に寄り添った演出だろう。
同様の演出はホラーや特撮やゲームやボンクラ系アクション映画なんかでもみられる。「映画」という宇宙が幾つかの島宇宙に分かれ、「アニメ」や「ホラー」や「特撮」といった新しい島宇宙で新しい歴史や文脈が発生した、というところだろうか。
ま、あれですな。「ジロリアン」という小宇宙の住人から一言だけ言わせて貰えれば、