パヤオ勃ちぬ:『風立ちぬ』

かつて庵野秀明は『紅の豚』について「全裸の振りして、お前、パンツ履いてるじゃないか!」「おまけに、立派なパンツ履きやがって!」と評した。その庵野秀明が主演声優として参加した『風立ちぬ』を観たのだが、宮崎駿の最高傑作ではないかと感じた。宮崎駿がパンツを脱いでいるところが良い。パヤオの立派なパンツに隠されていたチンコは、意外にもデカかったのだ。
風立ちぬ』はとにかくエロい映画だ。「右手がメカで左手は美少女、そして口からは説教」*1が宮崎アニメの特徴であるが、本作のメカニックと美少女はとにかくエロい。単にキスシーンが多くて初夜のときめきが描かれているからとか、飛行シーンが美しいからという理由からだけではない。ヒューマンビートボックスすれすれのとんでもない手法で作られたSEが単なるメカニックである飛行機や自然現象である地震を生き物のように描いているという理由もあるが、どちらのエロさも死と結びついているからエロいのだ。
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何故そう思ったのか、順に説明していこう。
堀辰雄堀越二郎に捧ぐ」などと謳われているが、『ハウルの動く城』以降の宮崎作品と同じく、本作は宮崎駿の話だ。宮崎作品において少女でも豚でも幼稚園児でもなく青年を主人公とした作品は珍しい*2。しかもタバコをスパスパと吸い、メカニックと美少女の「綺麗さ」に魅入られ、時に一番弟子と称される庵野秀明が声優を務めるメガネ男子ときたもんだ。『魔女の宅急便』のトンボや『となりのトトロ』の父親が主人公になったようなものだ。堀越二郎を主人公としたのは九試単戦開発を描きたかったからに過ぎず、堀辰雄トーマス・マンを引用したのは結核美少女を出したかったからに過ぎない。豚やキムタクや5歳児といった仮面も無い。「子供向けに作る」といった言い訳も無い。『風立ちぬ』が72歳を迎えた青年 宮崎駿の話でなければ何になるのか。
菜穂子―他五編 (岩波文庫)
堀 辰雄
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何故、少女でも豚でも幼児でもなく、72歳の青年の話なのか。老人になると、人は夢の世界に生きるようになってくる。度々白昼夢をみたり、想像上の存在を幻視したり、若い頃の思い出を脳内で何度も反芻するようになってくる。だから、『風立ちぬ』では現実と夢のシーンとの境界が、曖昧だ。1920年代から敗戦を迎えるまでの二十数年に渡る話であるにも関わらず、キャラクターの加齢や変化も積極的には描かれず、時間経過は蒸気機関車の形式変化や戦闘機開発の進展といったメカニックの進化で表現される。歴史的パースペクティブが夢とメカニックで大胆に――作中の言葉を借りれば「アバンギャルドに」――象徴化されているのだ。『ALWAYS 三丁目の夕日』が現在の中年によって作られた60年代のファンタジーであったように、『風立ちぬ』は現在の老人によって作られた戦前のファンタジーなのだ。


そして、そんな72歳の青年の欲望が、明け透けに開陳される。
本作の主人公は飛行機と女性を愛している。いや、「綺麗な」飛行機と女性以外のことはほとんど頭の中に無い人間として描かれている、といっていい。国民が貧困に苦しんでいるにも関わらず、大量のカネと資源を使う飛行機作りに「綺麗なものが好き」という理由で全精力を傾ける。嫁を褒める言葉は「綺麗だよ」しかないし、夢の世界のメンターであるカプローニの飛行機に乗り込む「社員の家族連中」も綺麗な女性ばかりだ。妹の「お兄ちゃん、ずるい」という台詞や、会社の上層部や海軍との会議後に上司である黒川がいう「お前、何にも考えていないだろ」という台詞は、一つの笑いどころとして描かれるが、本質を捉えているのだ。
特に、深夜、弟を負ぶう幼女にシベリアを差し出すも拒否されるシーンは圧巻だ。宮崎は自信のロリコン趣味に自覚的だし、それを表に出しても何も成就しないことを知っているのだ。
ほとんど棒読みの庵野秀明の口調が、それを増幅する。上司の指示に「はい」と答える口調に、あざとさを越えて狂気すら感じてしまう。このメガネ男子は単に素直だからとか、良いやつだからとかいった理由で「はい」と答えているのではない。自身の心の内に在る悪魔的なもの――「綺麗なもの」を得るためには何でもやってやるという悪魔に無自覚に従って「はい」と答えているのだ。ものづくりの悪魔だ。当然これは「美しいアニメ」を作るためにはどんなことでもやってやるという宮崎の自覚と自負を表している。


それでは、ものづくりの悪魔とは何か。
冒頭の夢のシーン――幼年時代の主人公が、自宅の屋根から飛立ち、自在に空を舞うシーンは素晴らしい。夢の中で飛行機に魅入られた堀越二郎が『白蛇伝』でアニメに魅入られた宮崎駿に重なる。しかし、幼い頃から既にして禍々しい予兆が夢に現れる。暗雲の中から、邪悪な生き物のように動く爆弾を大量に抱えた爆撃機が現れる。飛行機は大空を自由に翔ける乗り物であると同時に、戦争の道具でもあったのだ。
その後、飛行機と禍々しさは切り離せないものになる。カプローニの飛行機は夢の中で墜落する。航空機開発で「二十年先を行っている」ドイツは、日本とは明らかに色使いが異なる禍々しい国だし、「世界をみてこい」と言われて乗った列車からみる夕陽(朝陽?)は血のように赤い。夢の世界の住人であるカプローニは人間ではないし、軽井沢で世界のありようを教えてくれるカストルプも(瞳の描かれ方から分かるように)確実に人外の存在だ。黒川や自身が作った飛行機も、九試単戦を除いて必ず墜落する。本作の航空機SEにより「生きているもの」として描かれるので、墜落=死だ。その九試単戦も、国を滅ぼす遠因となり、零戦は一機も帰ってこない。
でも、主人公はそういった禍々しさと付き合っていく。ドイツでは嬉しそうに金属の光沢艶かしいユンカースに登場するし、赤い地獄を走る列車の中ではカプローニに再会する。カストルプとは煙草と知識を交換し、一緒に歌まで唄うのだ。これらは主人公がものづくりの悪魔と付き合い、取り込んだ――或いは契約したことを表している。全て飛行機のため――アニメのためだ。
カプローニが発する台詞がこれまた凄い。「ピラミッドのある世界とない世界がある。君ならどちらを選ぶかね?」これは貧富の差がある世界とない世界のことを意味している。主人公はこの問いに答えず、ただ「ぼくは綺麗なものがみたい」と答える。
資本主義国家でなければスタジオジブリは成り立たないし、良いアニメは作れない。映画を幾つものシネコンで公開して、DVDを売りまくらなければ新作を作れない。しかし、資本主義は幼女が深夜弟を負ぶってひもじさに絶望するような弱者も生み出す。東映動画の労組書記長として激しい組合活動を行い、一度はマルクス・レーニン主義を通過した宮崎駿は、誰よりもそのことを自覚している。その上で、「ぼくは綺麗なものがみたい」と言っているのだ。


そう。本作の真の主題は「戦争」でも「零戦」でも「国家」なく、「ものづくり」と「恋愛」だ。「綺麗なもの」を得るためには、何でもするという狂気だ。
主人公は、「綺麗なもの」を得るために、航空機開発という面ではものづくりの悪魔と契約したように、恋愛でも悪魔と契約する。結核美少女という名の悪魔だ。


悪魔と出会ったのは、これまた禍々しい生き物として描かれる大地震であった。しかも当初、主人公が恋していたのは菜穂子ではなくお絹の方だった。女性が尋ねてきたと聞いて、真っ先に頭に思い浮かべた姿はお絹だったことを思い出して欲しい *3。しかし、主人公はお絹ではなく菜穂子を選んだ。成長した菜穂子がお絹に劣らず綺麗だったこと、そして菜穂子が自分のことを好いていてくれたことがその理由だ。
しかも、都合の良いことに、菜穂子は結核だった。「目病み女に風邪引き男」との言葉もあるが、宮崎駿の好みは幼女だったら元気溌剌としたショートカットかおさげ娘、大人だったら、『となりのトトロ』の母親像からも分かるように、病弱タイプだ。
主人公が航空機開発にあけくれている間、菜穂子は文句の一つもいわない。姑と喧嘩もしない。子育ての煩わしさに追われることもない。老いさらばえて醜い姿を晒すこともない。ただただ美しい存在として、布団の中から主人公を応援してくれるのだ。その昔、『Tomak』という美女の生首を育てるギャルゲーがあったが、これは男にとって一つの理想だ。
Tomak-save the earth-
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凄まじいのは、部屋で仕事をしながら煙草を吸うシーンだ。結核患者と同じ部屋で煙草を吸うということは、残された僅かな寿命を奪うということだ。それでも菜穂子は構わず吸えという。ただ手を握っていて欲しいというのだ。このシーン、とんでもないエロさで描かれる。布団の中で菜穂子の手を握るということは、布団の中の菜穂子に挿入していると捉えてさえ構わないと思うほどだ。女性に挿入しながら煙草を吸い、図面書きという仕事もする。アニメを描きながらセックスもできる。これが宮崎にとって、いや、ものづくりに魅入られた全ての男にとっての理想の女性でなくてなんだというのか。
じゃ、何故菜穂子は主人公のことを好きなのか。こんな、仕事にばかり熱中して、綺麗な女なら誰でも良いという男のどこが好きなのか。それは彼が主人公だから――弱者や困った人をそのままにしてはおけない映画的主人公だから――というのが一応の理由だ。ラナもシータもソフィー*4も主人公に惚れるのに理由は無かった。だが、本作において宮崎駿はパンツを降ろしているので、シベリア幼女につけお絹につけ、主人公が他人を助けるのは下心があるからというのをちゃんと描いているんだよね。そして、多くの観客と同じく、菜穂子はそのことに薄々気づいてもいる。だから、菜穂子が主人公に惚れる理由として「チンコがデカいから」以外の言い訳が思いつかないよ!


しかし、菜穂子は単なる結核美少女ではなく、やはり悪魔だった。商業映画として心地良いラストという体裁をとってはいるが、主人公は最後に二人の悪魔と契約したつけを払うこととなる。九試単戦や零戦を開発したせいで日本はズタズタになる。菜穂子以上に「綺麗な」女性は二度と現れず、今後主人公が女性と愛を交わすことは無いだろう。国は滅び、愛も去った。主人公に出来ることといえば、夢の中のおっさんと酒を飲み、一時的に悔いを忘れることだけだ。


そういうわけで『風立ちぬ』はものづくりの悪魔と結核美少女の悪魔が悪魔合体するというとんでもない手法で描かれた映画だった。作り手の欲望を様々な形で実現するのが映画という芸術だ。とんでもなく自分勝手で身勝手で狂った欲望を、とんでもなくロマンチックで共感可能な形として描くのが良くできた映画といえる。だから、真面目に書くと、72歳の青年宮崎駿の覚悟と欲望とクリエーター魂が、怖るべき技術と気迫で開陳された宮崎映画の最高傑作といって良い。本作がカルト作品にならず、大ヒットする国民的映画となるところに日本人の民度の高さが現れているとアイロニー無しで思う。

*1:たしか江川達也の言葉だったと思う

*2:「成長しない」キャラであったルパンを除けば『もののけ姫』くらいか

*3:ここら辺「自分はロリコンじゃなくて幼女“も”好きなだけなんですよー」という、聞かれてもいないことに対するパヤオのエクスキューズにみえて面白い

*4:一応書いておくと、『ハウルの動く城』の真の主人公はハウル