邦画はなにを殺すためにあるのか:『映画は父を殺すためにある』

映画は父を殺すためにある: 通過儀礼という見方 (ちくま文庫)
島田 裕巳
4480429409
島田裕巳の『映画は父を殺すためにある』読了。本を読む遅さには自信がある自分だが、本書はさっくり読めた。めっさ面白かったよ。


本書の内容は、大きく分けて二つある。通過儀礼という観点からハリウッド映画を分析した部分と、日本映画を分析した部分だ。


キリスト教文化圏にあるハリウッド映画を通過儀礼という視点で考えるというのは、今や真っ当すぎるくらい真っ当だ。冒頭ではジョセフ・キャンベルの『千の顔をもつ英雄』を引いているのだが、「分離」→「移行」→「結合(帰還)」という三部構造は、そのままハリウッド映画の三幕構成に通じる。父を――肉体的もしくは精神的に――「殺す」ことが大人になることであるというテーゼは「ビルドゥングスロマン」という言葉が使われ始めた19世紀初頭からあった。主人公を手助けする年長の男、通過儀礼を乗り越えた後に主人公と結ばれる女、父との和解といった要素は、今やアメリカ映画どころか教養小説からコミックやゲームに至るまで、そこら中にみられる。正直な話、ハリウッド映画の評論としては、島田裕巳を師と仰ぐ町山智浩による『映画の見方がわかる本』や、内田樹の『映画の構造分析』の方が面白く感じた。まぁ、本書は95年に書かれた『ローマで王女が知ったこと』の(書き直しを含む)文庫化であり、件の二冊より何年も前に上梓されたのだけれど。
映画の見方がわかる本―『2001年宇宙の旅』から『未知との遭遇』まで (映画秘宝COLLECTION)
町山 智浩
4896916603
映画の構造分析
内田 樹
4794965753


この本の白眉はもう一方、すなわち、邦画における「通過儀礼」を小津や黒澤作品、『魔女の宅急便』や『男はつらいよ』を例に出して分析した部分にあるのではなかろうか。


その昔、『ドラえもん』は西欧文化圏では親御さん達にあんまり評判がよろしくないという話を聞いたことがある*1ドラえもんのび太くんの求めに応じて便利な道具をポンポン出すのは如何なものか、これではのび太くんが自分で努力して困難を克服したり、試練を乗り越えたりすることがないではないか、こんなに甘やかしすぎるとスポイルされてしまうぞ!……という主旨だった。
でも、日本人の視点からみると、ドラえもんのとる保護者的態度は、別に普通に思えるんだよね。むしろ、失敗したら死んでしまうほど過酷で、実の父親を「殺す」ほどに否定する通過儀礼が、過激で過剰なもののように思える。これは日本人だけでなく、西欧文化圏に対置する東アジア文化圏に共通する価値観なんじゃなかろうか。
一方で、西欧圏の人間からみると、こうした価値観は未熟で幼稚なもののように思えるだろう。正徳太子のいう「和を以て尊しとなす」はムラ社会の論理にみえるだろうし、マッカーサーからみれば日本社会は「12歳の少年」の集団にみえるだろう。通過儀礼は、社会の中で一人前とは決して認められない子供を、義務と責任を負う大人に生まれ変わらせるための儀式だ。中途半端な通過儀礼しか日本人の大人が負う義務と責任も、中途半端なものでしかない。
そういう風に考えると、本書で挙げられる日本映画独自の「通過儀礼」のあり方――或いは「通過儀礼」の無さというものに、ものすごく納得してしまう。


たとえば『男はつらいよ』について、井上ひさしが評する「貴種流離譚のパロディ」としての側面について一考した後、車寅次郎は48作かけて成長したのではないかと続ける。

寅さんは、第五作の『望郷編』で舎弟の登に「徐々に変わるんだよ、いっぺんに変わったら体に悪いじゃないかよ」と答えていたが、そのことばに嘘はなかった。寅さんは、個々の作品では少しも変化をとげたようには見えないが、四半世紀にわたる歳月のなかで、確実に成熟への道をたどっていったのである。
(中略)
しかも、彼らは自分の思いを捨てたり、現実に妥協しようとはしない。あくまで、自分の世界を守り、それを崩さないかたちで変化をとげていく。ときには、自分の思いがとげられない事態に遭遇することがあるが、そこでも自分を曲げることなく、現実を受容していく。その姿は、はたからすれば、頑固でかたくななものに見えるかもしれないが、彼らにはそうする以外に道はないのだ。
あるいはそれが、日本的な通過儀礼の特徴であるのかもしれない。むしろ、主人公が試練を突破して成長をとげるという物語に、日本人はうさんくささを感じてしまうのかもしれない。

勿論、成長したのはスタッフや役者であり、その結果としてのキャラクターの成長なのだが、東アジア、特に日本人が好む、もしくは日本人に受けいれられる通過儀礼として考えると、凄くよく理解できる。


自分はオタクなので、新しい映画知識をすぐにアニメや特撮に当て嵌めてみたくなるのだが、これを『エヴァンゲリオン』や『ハルヒ』や『まどマギ』に当て嵌めてみると、なんとしっくりくることか。テレビ版『エヴァ』ではいつまで経っても成長しなかったシンジ君が新劇場版『ヱヴァ』で格段に成長したようにみえるのは、そこがパラレルワールドや世界のやり直しだからではなく、十数年経ってスタッフやキャストが成長した結果なのだ。世界のループ構造やパラレルワールドでのやり直しは、おれたちがゲームやネットに親和性のある世代であるからではなく、元々日本人に親和性のある構造だったのだ! うわー!!


たとえば『魔女の宅急便』。島田は、キキが試練を乗り越えているようにみえて、乗り越えていないと指摘する。宮崎アニメの主人公達がどういった矛盾に直面しているかは常にあいまいで、有名な「にしんのパイ」のシーン*2の後、キキが落ち込んだ理由について、島田はこう分析する。

キキはおばあさんの好意が孫娘にも通じると考えていた。(中略)つまりキキは、自分の思い込みが通じなかったことで落ち込んでしまったのである。(中略)自分の立場だけを正しいと考え、相手の気持ちをくむことができないということは、その人間がまだ子どもだということを意味する。
(中略)
僕には、キキが、全ての好意がそのまま相手に受けいれられることを望んでいるかのようにみえた。

その結果として、キキは飛べなくなるのだが、クライマックスでキキが飛べるようになるのは、彼女が試練を乗り越えたわけではない、これは宮崎アニメに共通する特徴で、通貨儀礼を果たしたことが明確に描かれない、ということを原作との比較で解説するさまは圧巻だ。確かにそう思う。


なのに、宮崎アニメは日本でヒットする。
やはり、日本人は、ここでキキが孫娘の気持ちをくんで精神的成長を遂げる云々〜みたいな物語にうさんくささを感じるのだろうか。そして、辛い通過儀礼に挑戦するよりも、「全ての好意がそのまま相手に受けいれられる」価値観を持った仲間同士の「和」で集まり、少しずつ成長していく、または成長しない方を選ぶのだろうか。まるで、宮崎駿高畑勲鈴木敏夫スタジオジブリに集まったように(そしてそれを一つの理想とするように)。少なくとも、「全ての好意がそのまま相手に受けいれられる」というのは、宮崎駿が理想とする価値観そのもののように思える。


その他、女性に性的な魅力を求めると同時に貞淑さを要求する小津映画における「いやらしさ」は最早誰も指摘しないたろうし、『男はつらいよ』の第一作がキャスティングで小津と黒澤にオマージュを捧げていたり、第十作に漱石モチーフキャラが出演していたのには全く気づかなかった。


気になったので、島田裕巳の文筆業デビュー作という『異人たちのハリウッド』と『怪獣学入門』の記事も再読してしまった。「神話的な英雄になるには自らの命を引き換えにするしかない」というのは、今読むとやっぱり『まどマギ』を連想してしまう。



町山智浩による解説も必読なのだが、これを読むと、映画を離れて、「自分にとっての通過儀礼」に思いが及んでしまう。そんなもの、自分にあったのだろうか。確かにあったようにも思うし、無かったようにも思う。入学試験や就職活動は現代日本人にとっての通過儀礼だと思うのだが、大学のサークルでゲロを吐いたときとか、認知症の祖父が死んだ時とか、結婚して子どもが生まれた時なんかも、通過儀礼といえば通過儀礼だったし、それほどショックを受けることなく――自分を曲げることなく、受容した現実ともいえる。
そんな風に自分の人生を思い返すと、頭に浮かぶのは『モーレツ! オトナ帝国の逆襲』のひろしの回想シーンだったりする。ヒロシは、卒業、上京、就職、結婚、子どもの出産、そして大人になってからの日常と……通過儀礼といえば通過儀礼のような、あくまで自分の世界を守ったかたちでの変化といえばそうであるようなイベントの集積のような人生を送り、あの場所にたどり着いたのだ。あれこそ日本的通過儀礼の最たるものだろう。


そう考えると、『カールじいさん』は日本的通過儀礼の後にハリウッド的通過儀礼を経験する映画か? いや、でも小津作品みたいに老人になってからの成長だから……と、読後も色々と考えが止まらない本だったよ。いや、面白かった。
映画 クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲 [DVD]
B0041IY9KY

*1:BSマンガ夜話』だったか?

*2:そういや「フード理論」の福田里香もここを名シーンと評していた