歴史の終わりと文明の衝突と新しい戦争:『セデック・バレ』

やっぱり、映画っていうのは半裸の女が泥まみれで乱れ合ったり、半裸の男がジャングルで殺し合ったり、裸の怪獣が放射能火炎を吐き合ったりするものだと思うんだよね。難病を患った恋人のために泣き崩れたり、イケメン男女がお台場で乳繰りあったり、テレビドラマの最終回をシネコンで観ても、それは映画といえるのか? 半裸の男が山刀で首を飛ばす! 子供が子供を殺す! 女は殺して男は犯せ! これこそが映画だ!
……そんなふうに考えている自分にとって、『セデック・バレ』二部作は最高の映画であった。


現在、台湾には大きく分けて三種類の住民がいる。第二次大戦後、蒋介石と共に台湾に中国大陸から移住してきた漢民族を中心とした外省人。第二次大戦よりずっと前、16〜17世紀くらいから開拓民として台湾に移住してきた漢民族である本省人。そして、そのずっとずっと前から台湾に住んでいるマレー・ポリネシア系の原住民だ。
日清戦争の結果、台湾は1895年から1945年まで日本の植民地になった。で、『セデック・バレ』は1930年に起こった最大の抗日暴動である「霧社事件」をテーマにしているのだけれど、延々と差別と人殺しと野蛮な行いが続くんだよね。それも、前後編合わせて約4時間半。これだよ! これが映画だよ!


面白いのは、日本側と原住民側、どちらにも肩入れせず、なるべく事実のみを描こうと務めているところだ。というのは、『アポカリプト』でも『ズール戦争』でもそうなのだけれど、どちらかを悪でどちらかを善、みたいにした方が、簡単に面白くなるんだよね。勿論、それは差別なのだけれど、差別的な方が面白くなる場合というのが、こと映画に限っては確実にある(映画の本当の恐ろしさというのは、そこにこそあると思う)。
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でも、『セデック・バレ』は、そんな安易な道をとらないんだよね。
たとえば第一部は、主人公であるセデック族の頭目モーナ・ルダオが首狩りという通過儀礼を通して「大人」になるシーンと、下関条約で台湾が日本に割譲されるシーンから始まる。わざわざCGIで台湾にやってくる艦艇まで描いている。これが台湾の近現代史の始まりだった、というわけだ。
で、その後描かれるのは、原住民の「文明化」と、日本人によるセデック族への差別と、耐えかねたセデック族が霧社事件を起こすまでだ。
リン・チンタイ演じるモーナ・ルダオはとにかくカリスマ性溢れるおっさんで、えらい格好良い。ワンワン吠える犬を気合一発でおとなしくさせるさまは感動的ですらある。
そんなモーナが、若者から請われ、とうとう行動を起こす。すっかりモーナに感情移入しているので、『パラダイス・ナウ』みたいに、ここまで追い詰められたらしょうがないよ、とさえ思う。でも、そんなモーナにすっかり「文明化」した娘が「なぜ出草(首狩り)なんてしたの?」なんて問い詰めたりするんだよね。「民族の自決」とか「民族としてのプライド」なんてものに拘るのは男性だけで、女性は「文明」というか日々の暮らしの平穏さの方を望んでいるんだよね。
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日頃、理不尽な差別を受けてきたセデック族の子供たちが、「霧社事件」を契機に教師を殺害するところはテンションが上がるのだけれど、その後、さっきまで友人だった日本人のクラスメイトまで殺して、そのおかげで刺青を入れられる=「大人」として認められる(このシーンは冒頭でモーナが「大人」になるシーンと対応している)シーンが続いたりするんだよね。
その後、セデック族の子供はマシンガンを抱えて日本軍の大人をガンガン撃ち殺したりする。ハリウッド映画が絶対に描かない光景だ。ここに至ると、どちらが「善」でどちらが「悪」なのか分からなくなる。本作は、単純な善悪を描く映画はないのだ。
「野蛮」と「文明」の衝突というのが主要なテーマの一つなのだが、必ずしもセデック族側が「野蛮」で日本側が「文明」というわけでもない。キム兄はじめ、日本人キャストが好演する警察官がセデック族に行う差別は野蛮なものとして描かれるし、日本に同化し、日本人より学歴の高い花岡一郎や花岡二郎は日本人より文明人にみえる。
更に、第二部では、セデック族のゲリラ戦に手を焼いた日本軍が化学兵器を使うのだが、これは完全に野蛮な行為とみなされる。遂にびらん弾を使用することを決めた河原さぶの台詞が凄い。「野蛮人め。せっかく文明を与えてやったのに……我々に野蛮なことをさせるなんて」まさか、河原さぶからこんな哲学的な台詞が聞けるなんて!


監督のウェイ・ダーションは、多分本省人なのだけれど*1、日本側と原住民側、どちらにも肩入れしていないというか、どちら側にも寄り添っているんだよね。
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面白いのは、現代の日本人の視点からみると、映画の中で描かれる日本人よりもセデック族の方がある意味日本的にみえるし、その後の日本が辿る道を示唆しているかのようにみえることだ。
たとえば、セデック族は「大人」になれないまま死ぬことを恐れている。ただ漫然と生きるよりも、狩りや闘いの中で死んで「虹の橋を渡る」ことを望んでいる。これって、太平洋戦争時の靖国神社の役割をどうしても連想してしまうんだよね。「虹の橋を渡る」と「靖国で会おう」のどこが違うのか。日本に勝てないことを承知の上で暴動を起こしたモーナ・ルダオは、勝てないことを薄々予想しながら真珠湾を攻撃した日本とどう違うのか。山桜が散るシーンも、靖国神社の桜を重ねてしまう。
映画で描かれる霧社事件は、単なる暴動というよりも戦争映画のようだ。戦いの重荷になるまいと首をくくって自決する女性たちの姿には、万歳と叫びながら崖を飛び降りたサイパン島の日本人を連想してしまうし、終盤、美しい山々に投下されるびらん弾には、広嶋や長崎に投下された原子爆弾を重ねてしまう。
そして、映画の中で死を恐れず首狩りに邁進するセデック族が野蛮人と日本人から呼ばれていたように、死を恐れずに組織的に特攻したり玉砕したりする日本兵は野蛮人とアメリカ人から呼ばれていたわけだ。


更に、映画の中で描かれる「野蛮」と「文明」の衝突に、ある程度の普遍性をも読み取ってしまう。霧社事件は現在の目でみれば一つのテロだ。我々「文明人」は、自爆テロを起こすテロリストを「野蛮人」と呼んでいるわけだ。
80年以上前の事件を描きつつ、実は現代を描いているのではないか、とさえ思う映画であった。

*1:「多分」というのは、もし本省人外省人かと聞かれたら、「私は台湾人です」と答えるタイプの人だと思う