映画は誰の味方か:『キャプテン・フィリップス』

いよいよ冬休みに突入だ。この機会にどんどん更新すっぞ!
……というわけで随分前に『キャプテン・フィリップス』を観たのだが、気になっていたことを書こうかと思う。


キャプテン・フィリップス』は傑作である。『ゼロ・グラビティ』もそうだったが、こういったワン・シチュエーションで、アクションたっぷりのハプニングとその解決がジェットコースター的に続き、最後の最後までサスペンスが続く映画は本当に面白い。おまけに、登場人物が銃をばんばん撃ち、殴る蹴る投げ飛ばすのアクションシーンがあり、死人が多数出る。これで面白くならないわけがない。
しかし、本作が傑作である理由は他にある。途中で観客の共感をおいてけぼりにする構造を持っているのだ。


映画は二人の船長が航海の準備をする場面から始まる。一人は題名にもなっているアメリカ人のフィリップス。もう一人はソマリア人のムセだ。
フィリップスが愛する家族に心配されながら乗船準備をし、空港まで見送られるのに対し、ムセは粗末な小屋の中、ゴザの上で孤独に寝起きする。フィリップスが(約半分は)長年一緒に仕事をした信頼できる船員と共に出港する一方、ムセはボスからカネを前借りし、カネ目当ての仲間を集める。全てが対照的だ。一見、主人公とそのライバルが対決する背景をドキュメンタリー・タッチで淡々と描いた映画であるかのようにみえる。
そして、フィリップス船長のコンテナ船がムセ率いる銃器で武装した海賊に襲われる。人数ではフィリップス側が勝っているものの、非武装のコンテナ船だ。銃器で武装したムセ率いる海賊に乗り込まれたらひとたまりもない。おまけに海賊たちはコンテナ船よりも船足の速いボートで追いかけてくる。無線で通報してもまったく頼りになるサポートをしてくれない。フィリップス側が圧倒的に弱者である。急激に進路を変えたり、放水したり、無線でブラフをうったり……あの手この手で海賊の襲撃を避けようとするさまは、本当に面白いし、興奮する。


弱者。そう、「弱者」だ。
映画の主人公はたいてい「弱者」だ。マイノリティであったり、経済的に困窮した貧乏人であったり、鬱屈やコンプレックスや病気や借金や暗い過去を抱えた一市民であったりする。彼らは常に被害者であり、「弱者」だ。
観客が共感し易い平々凡々な人間であったとしても、映画の中では様々なトラブルに巻き込まれ、様々なプレッシャーに襲われる。主人公が会社社長や政府首脳や独裁者や王族であったとしても、それは例外ではない。『クリスマスキャロル』や『英国王のスピーチ』や『ヒトラー最期の12日間』や『太陽』といった映画の主人公達が、どれだけ孤独で、どれだけでプレッシャーに襲われ、どれだけ「弱者」であったことか。
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映画の主人公は弱者でなくてはならない――これには、主に二つの理由がある。
一つは、映画業界の産業構造的理由だ。映画はその発祥から現在まで、大衆向けの娯楽であり続けている。大衆にとって、自分と同じ階層の人間が権威や権力に反抗するシチュエーションほど興奮するものはない。ローマ皇帝や大企業の社長が持つ支配者の憂鬱やエリートの悩みといったものは、「周囲に心を許せる者がいない皇帝の孤独」とか「○千人の社員の命運を握っているCEOのプレッシャー」とかいったような演出技術により、必ず大衆が共感できる形に「翻訳」される。その過程で、主人公の「弱者」化が起こるのだ。
もう一つは、(主にハリウッド製の)娯楽映画は主人公の成長や変質を描くものであるという理由からだ。何者でもなかった「子供」が何がしかの通過儀礼を経て「大人」になる、あるいはイノセンスを失う――そういったストーリーが娯楽映画として表現されるわけだ。具体的には、様々なトラブルや様々なプレッシャーに襲われ、それを克服していくことが、「通過儀礼を経る」こととして描かれる。
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最初からどんなトラブルをものともせず、どんなプレッシャーにも挫けない「強者」では映画が成立しない。従って、主人公は「弱者」として描かれるのだ。勿論、完全な「弱者」として描かれるのは映画の冒頭であり、映画が進むに従って主人公は成長し、最後には「強者」になるのだが、全体的にみれば主人公はたいていの場面で「弱者」だ。
つまり、映画は「弱者」の味方なのだ。


そういうわけで、「弱者」であるフィリップス船長が、知恵と勇気で弱者が危機を乗り越えようとするさまは、映画的魅力に満ち溢れている……のだが、映画も中盤を過ぎると、これが裏切られるのだ。


以下ネタバレだが、事実を基にした映画だし、公開から一ヶ月近く経っているしなので、書いてしまう。


コンテナ船乗組員の抵抗に遭い、海賊たちはフィリップスを人質にとり、救命ボートで船から逃れる。拉致された形となったフィリップスを救出するためにアメリカ海軍が出動するのだが、これが凄い。なんと駆逐艦やら強襲揚陸艦やら、軍艦が三隻も集まるのだ。おまけに、アメリカ市民一人を救助するために。
対して、ムセたち海賊は軍艦の数十分の一の大きさしかないちっこい救命ボート一艘のみ。おまけに彼らのサポート役だったソマリア漁船は早々に逃げ帰ってしまった。
いったい、この映画における「弱者」は誰になるのだろうか。
一番の弱者はフィリップスだ。それは間違いない。救命ボートに繋がれ、銃でを突きつけられ、いつ死んでもおかしくないフィリップスは一番の弱者だ。
と共に、アホみたいにデカい軍艦三隻からプレッシャーをかけられ、海賊資金を前借りしているためにフィリップスを捨てて逃げ出すこともできず、ネイビーシールズが構えるスナイパーライフルのスコープに捉えられればすぐさま命を失うであろうムセたちソマリア人四人組も、また弱者なのではなかろうか。「漁師に戻れ」というフィリップスの台詞を「アメリカならな」と嘲笑するムセ。このシーンの意味は重い。アメリカに生まれていれば、海賊などする必要なかった。アメリカに生まれていれば、ピンチになっても見捨てられるどころか軍艦三隻も助けにきてくれた。そもそもソマリア近海で魚を乱獲して漁場を荒らしたのはアメリカを始めとする先進国だ。ムセたちが漁師から海賊にならざるをえなかったのは、先進国の経済活動のせいともいえる。この台詞を「ケーキを食べればいいじゃない」と評する三角絞めさんはさすがだ。


ここに至って、冒頭にてフィリップスとその妻との間で交わされた何気ない会話が生きてくる。「俺たちの時代はシンプルだった。頑張って働いていれば船長になれた。子供たちは大変だよ」フィリップスに銃を突きつけている海賊たちは、大変な子供たちそのものだ。単に頑張って働いても――頑張って海賊行為をしても、幸せになれない。


監督であるポール・グリーングラスはこれまでにも『ユナイテッド93』や『グリーン・ゾーン』等、ドキュメンタリー・タッチのアクション映画を撮ってきた。いいや、「ドキュメンタリー・タッチ」などといった生ぬるいものではないな。『ユナイテッド93』に至っては、ドキュメンタリーのふりをしたアクション映画だった。
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ドキュメンタリーや、ドキュメンタリー・タッチをフル活用した作品ではよく客観性や中立性や三人称多元描写――いわゆる「神の視点」といったものが取り沙汰される。しかし、映画監督は神かもしれないが、観客である我々は神ではない。絶対に誰かに感情移入し、肩入れしてしまう。
本作を観て、当初はフィリップス船長に感情移入しつつも、いつの間にかムセたちソマリア人に感情移入してしまった観客は意外と多いのではなかろうか。


ラスト、フィリップスを演じるトム・ハンクスは一世一代の演技をみせる。自分にはそれが、もはやシンプルではなくなった世界で生きていかなくてはならないフィリップスの慟哭にみえた。