『アイアンマン3』のシナリオのおかしさと邪推について

楽しみにしていた『アイアンマン3』、自分は公開初日に観たのだが、面白かったのか面白くなかったのか、未だに自分の中で判断つきかねている。
いや、頭カラッポにして観れば面白い映画だと思うよ。



以下ネタバレだけど、予告編のネタバレを気にしない人なら気にせず読める範囲で書くよ。



冒頭に回想シーンで簡単な説明をし、身近な人物の負傷で主人公のモチベーションを作り、シリーズに共通する「テクノロジーと善悪」「ものづくりの楽しさ」「人間とテクノロジー」といったテーマを描きつつ、主人公の原点を思わせる少年との交流やどんでん返しがあり、シリアスなシーンにも明るい笑いを挟みつつ、アイアンマン軍団大集合というクライマックスを経て、トニー・スタークことロバート・ダウニー・Jrがアイアンマンを「卒業」するまでを描く……アメコミ・ヒーローものの最終作として、申し分の無い要素が揃っている。特に、DIY店で買った道具を使って武器を作ったり、34体の個性的なアイアンマン・スーツがワシャワシャ動いて大活躍するクライマックスは本当に面白い。


でも観賞後、よく考えると、なんだか全然すっきりしないんだよね。


すっきりしない原因は、大きく分けて二つある。まず、まず、ラストの展開が急すぎて、なんだか納得がいかない。
何故トニー・スタークはアイアンマン・スーツを爆破しなきゃいけなかったのか?(勿体ないじゃん!) 何故ペッパー・ボッツは自分の命を救ったエクストリミスを除去しなくちゃいけなかったのか?(これまた勿体ないじゃん!) これまで除去できなかった胸の爆弾の破片が何故突然除去できるようになったのか? スーツやアイアンマンの力の源である胸のリアクターを失っても何故まだ「私はアイアンマンだ」と言えるのか?
いや、やりたいことは分かるよ。とにかく三作目でシリーズを終わらせたい。「テクノロジーと善悪」というテーマに一つの結論をつけたい。エクストリミスとアイアンマン・スーツは「欠損した人体を補い強化する」という意味で同じであり、その開発に倫理や善悪は存在しない。ただ使う人間に善悪がある。技術者であり科学者であるトニーやマヤ・ハンセンにとって倫理や善悪は存在せず、開発や研究に没頭できればそれでいい。ただ、彼らや彼らの成果物をマネジメントする人間に倫理や善悪は必要である。トニーとアイアンマン・スーツにとってのそれはペッパー・ボッツであり、マヤとエクストリミスにとってのそれはキリアンである。そして、トニーも観客もペッパー・ボッツに善性を見出す。だからラスト、ペッパーはアイアンマン・スーツとエクストリミスの両方を保持し、キリアンを倒すことになる……ここまでは良い。
でも、だからといってせっかく作ったスーツを爆発させる理由は無いし、せっかく安定化したエクストリミスを除去する必要は無い。アメコミ界には特殊能力を持ったヒロインが沢山いるのだから、ペッパーがその一人になっても良いではないか。
トニーの被害妄想や強迫性障害――内なる怪物の象徴としての34体のスーツや、アルコール依存症の象徴としてのエクストリミスみたいな隠喩も、分からないでもない。で、「新しく出発する」ためそれらを手放すというロジックも分からないでもない。
でも、手放すまでの「理由」が希薄すぎるし、唐突すぎるんだよね。
結局のところ、ピンチを救ってくれたのはその34体のスーツであるし、善性の象徴であるペッパーは両者を持っていても全然構わない。ましてや、伏線ゼロでアイアンマンとしての「呪い」の象徴たる破片や力の源であるリアクターを除去できる理由も分からない。「理由」が足りないんだよね。


もう一つは、34体のアイアンマン軍団が、トニー・スタークの努力や成長と関係なく登場する点だ。
ハリウッド映画*1が観客を感動させる手法の一つとして、「キャラクターの成長や変化を描く」というものがある。ジョン・ウェインみたいな神話的ヒーローが主人公の場合は脇役の成長を描くし、犯罪者や性格の悪い金持ち*2が主人公の場合は感情移入できる一般人代表みたいなキャラクターを用意し、彼や彼女の視点を通して悪人が善人に成長したり変化したりするさまを描く。
おっさんが主人公である『アイアンマン』シリーズも、きちんとハリウッドの定型に倣っている。『1』では自身が経営会社の兵器産業としての側面と世界平和の矛盾という仕事上の不調、『2』では生命維持のために胸に埋め込んだアーク・リアクターが出す毒素に蝕まれるという身体の不調、『3』では『アヴェンジャーズ』で宇宙人と戦い死にそうになったため負ったPTSDという心の不調……そして、それらおっさんにとって普遍的な不調を克服し、一回り成長する主人公の姿が描かれるわけだ。トニーが変人すぎて感情移入できない観客のために、ペッパー・ボッツやハッピー・ホーガンという一般人よりの視点を代表するキャラも用意している*3
『3』でのトニー・スタークは、自分の原点みたいな少年(技術者や科学者であること以外にも両親の不在が共通する)の一言で「ものづくりの愉しさ」を再確認し、PTSDを克服する。さりげないシーンだが、感動的だ。その後、DIY店でかった商品を素材として武器を作るシーンには、『冒険野郎マクガイバー』みたいな愉しさがある*4。『シスの復讐』や『ドライヴ』にも、主人公が機械を修理することで傷ついた自分の心を癒すシーンがあったが、まるで自慰のような暗いシーンとして描かれていたが、『アイアンマン3』のなんと明るいことか。これだよ! おれ達が映画『アイアンマン』に求めているのは、暗い世の中を笑い飛ばすこの明るさなんだよ!
でも、このPTSD克服は、クライマックスの34体のアイアンマン軍団登場になんら貢献しないんだよね。このシナリオだと、トニーがPTSDを克服してもしなくても、自宅の瓦礫は見も知らぬ他人の手で片付けられ、クライマックスにアイアンマン軍団が登場できることになってしまう。これはマズいんじゃないの?
『2』で出てきたドローン工場を使うとか、S.H.I.E.L.D.の施設を使うとか、リアリティを保ったままでどうにかやる、やりようはいくらでもあったはずだ。とにかく、成長したトニーが34体のアイアンマン・スーツを作るか、あるいは(あくまでもスーツをトニーの内なる怪物の象徴とするとしても)瓦礫を取り除くためのクレーンなり設備なりを作るか、なんでもいいからトニーがもっと貢献するシナリオにしないと、「成長」や「変化」を充分に描けない。



……ただ、上記二点は、自分のような素人ブロガーに指摘されるまでもなく、製作陣は充分に承知していることだとも思うんだよね。だって「ラストを気持ちよく着地させる」とか「主人公の成長を描く」なんてのは、ハリウッド映画の教科書に載っていることなのだから。


観賞後、そういったことを考えながら悶々としていたのだけれども、町山智浩の『たまむすび』でのポッドキャストを聞いて、理由が分かったような気がした。というか、理由を邪推してみたよ。


まず一つ目の「ラストの展開が急すぎる」理由について。
なんと、半分中国資本で製作された『アイアンマン3』は、中国人観客に(無駄に)配慮していて、中国版だとトニーの胸の破片を手術で取り除く中国人医師が登場するらしいではないか。
もしかして、中国語版だと納得いく展開になってるのかね? で、アメリカ版というかその他の国版の展開が急すぎるのは、無理矢理中国人医師を登場させた余波を受けてという、いわゆる「オトナの事情」ってやつなのかもしれない。ここらへんはディレクターズ・カット版を待ちたいところだ。


で、二つ目「アイアンマン軍団が主人公の努力や成長と関係なく登場する」理由について。
本作の監督シェーン・ブラックは、まだ20代と若いにも関わらず『リーサル・ウェポン』で脚本家としてブレイクしたものの、『ロング・キス・グッドナイト』の失敗で仕事を干される……しかし監督も務めた『キスキス,バンバン』の成功で返り咲いた。この、「若い頃に成功」→「転落」→「復活」という流れが、若い頃に天才俳優として持て囃されたものの、薬物問題で逮捕され転落し、その後『キスキス,バンバン』の好演で復活したロバート・ダウニー・Jr.のキャリアに重なるという。
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……もしかして、「色んな問題で仕事干されたけど復活」という流れは、シェーン・ブラックロバート・ダウニー・Jr.のような有能で名前も売れている脚本家や監督や俳優にとって、大事なものの上にのった瓦礫を見も知らぬ他人がどけてくれるくらい簡単なことなのかもなぁ。

*1:に限らないけど

*2:後述するポッドキャストでも言及されていた『クリスマス・キャロル』のスクルージ

*3:しかも、後者を演じるのは監督本人だ!

*4:まぁ、マクガイバーは銃を使わないけどな!