ヤンキー的精神というLeap of faith

頁作さんのブログ「また君か」は自分のネット巡回先の一つだ。頁作さんにはリアルで会ったこともネットを通じてコンタクトをとったことも無い。だが、頁作さんが自分とだいたい同世代のゲーオタでありアニオタであるということは分かり、日常で感じるちょっとした気づきや違和感が言語化された日記が、30代40代を生きるオタクが世界と対峙する上での一つのモデルのような感じがして、愛読していたのだ。


その頁作さんがなんと結婚したらしい。しかも一年前に。Twitterで既に報告していたらしいが見逃した。


自分は既に結婚していて子供もいるのだが、いつでも離婚して一人暮らしする可能性を頭の片隅で考えている。たとえ離婚して家族と別れても、アニメやゲームや映画やオタ友との生活が継続すれば楽しかろうとも考えている。アニメやゲームや映画やオタ友があればオタクとして世界と対峙できる、という考えだ。
自分がこの考えに至ったのは頁作のブログを読んでいた/読んでいる部分が大きいのだが、そんなわけで頁作さんが結婚を明かしたエントリは印象深かった。

おれは自分一人を納得できる期間生き長らえさせる程度の自信なら持っていた。というのは、べつに「充実した人生を送ることのできる余裕を一人分なら将来にわたって確保可能だ」という意味ではない。つまるところ「次の瞬間死んでも、まあしょうがなかったな」と思うことさえできていれば、誰がどんな状態からでも持てる自信なのだよねこれは。しかし夫婦となると話は別で、自分側の命だって簡単に「しょうがなかった」とは言えなくなって、一人分の精神安定さえ揺らぐ。やはり結婚はリスクが高いとしかいえない。子供が欲しいという話が先にあるなら結婚もまあ自然の流れかもだが、いまんとこ子供がどうとか考えられるような余裕はないし。

2011-08-08 - matakimika@d.hatena

つまり結婚て「(将来への(取れない)責任を負うことによって)ひとはオタクを離れヤンキーに近付く」の一例なのだよね。免許を取って、近所の道路を走りながら運転練習をしているとき、ヤンキー的精神・思考・行動様式みたいなものは、「自動車で公道を走る」という行為そのものから帰納的に導き出された境地なのではないかと考えていた。自動車を運転するのは徒歩でほっつき歩くのとはまるで違う。なにが違うか、それは第一に威力だ。自分一人のしでかしのツケが、自分一人の人生で収まらなくなってしまう。ヒヤリハットの不注意で、容易にひとが死んだり障害者になる。自分だけではなく、他人も巻き込みうる。これは恐ろしいことだ。大した努力をしたわけでもないのにいきなり巨大な暴力の中心に立ってしまう、そうしたとき立ち現れてくるのがヤンキー精神なのではないか。
グレートパワーに伴ったグレートレスポンシビリティを、抱えあぐねる精神側の未成熟、それを埋め合わせるための安定的回路。完全にクリアな状態でなくとも周辺状況によって素早く判断しなければならない。誤ったと気付いでもとりあえずはまっすぐ行かなければならない。ほかの通行者に迷惑をかけてはいけないけど下手打って立ち往生してしまったら開き直って脱出できるようになるまでその場で切り返すしかない。取り返しのつかないことになっても、それはそれで引き受けなければならない。

2011-08-08 - matakimika@d.hatena

まあ今回、結婚によっても「あ、これってヤンキーだ」と納得する部分があったので、べつにヤンキーはバイクにのみ育てられるってわけじゃなさそうだなと思ったわけなんだけど(自由を手に入れるための「バイク」、落ち着くための「結婚」、というヤンキー二大通過儀礼アーキテクチャを規定する!)。ともあれ、そうした「空手形を切り続けるような擬似背徳感」から、ひとは「事情」に絡め取られていくのだろうかなー、と思った。

2011-08-08 - matakimika@d.hatena


名文である。
自分も就職・結婚・妊娠(嫁が)という人生の過程過程で似たようなことを感じたのだが、ここまで上手く言語化できなかった。
確かにヤンキーがガンガン結婚してバリバリ離婚してどんどん妊娠してバンバン堕ろしたりするさまは、明らかにオタクと違う。あえて決断するのがヤンキー、あえて決断しないのがオタクだ。しかも、ヤンキーはそれらの行為を通じて社会参加したりもする。



これを読んで、以前岡田斗司夫がライブでいっていた「無宗教の人間はいない」という言説の意味がやっと分かった。「宗教信じてないなら無宗教だろ」とか思っていたのだが、つまり宗教というのは「エビデンスゼロで何かを信じる」ということなのだな。完全なる根拠や証拠や確信なしに何かを行う、行わなければならない時が人生にはある。


ここで自分が連想したのが、”leap of faith”だったりする。
キリスト教文化圏には”leap of faith”という言葉がある。信仰(faith)に基づいて結果を考えずに跳躍するという意味なのだが、現在この言葉の持つ宗教性は薄くなり、「論理を飛躍して決断する」「信頼に基づいて結果を考えずに行動する」「信じがたいことを敢えて信じる」「理屈ぬきに目をつぶって決断する」……といった意味で使われるようになっている。


”leap of faith”はキルケゴールが著書の中で「飛躍」について書いたのが語源とされている。キルケゴールが生きた19世紀は神の存在が疑われるようになった時代だった。理性と論理と理屈で考えれば宗教は矛盾ばかりで、神がいるなんて思えない。しかしキリスト教徒でもあったキルケゴールは、それでも敢えて神を信じる理由として”leap of faith”という概念を考えた。神を信じない人間でも結果を考えずに跳躍しなくてはならない状況はある筈だ。そんな時にこそ神が必要なのだと。


95%が特定の宗教を信じていないといわれる日本では馴染みの薄い言葉なのだが、昨年の町山智浩ポッドキャストにて『インセプション』や『ポセイドン・アドベンチャー』と”leap of faith”の関係性について扱っていたので、このブログをお読みの方の大半は御存知かもしれない。
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しかも、”leap of faith”によって得られた結論はサンデル教授言うところの「共同体にとっての美徳」と通じる部分がある。個々の美徳の中身は理屈や理論では説明しきれない。”leap of faith”によって得られた個人の「美徳」は共同体にとっての「美徳」と向き合わざるを得ない。「功利主義の追求」とも「自由の尊重」とも異なる「美徳の促進」こそ、個人が社会参加する為の要となるのだ。



そういえば、人工知能研究の分野でフレーム問題というものがあった。有限の情報処理能力しかないロボットには、現実に起こりうる無限の可能性全てについて考慮し対処することができず、ハングアップしてしまうという問題だ。
通常、ヒトはこれを解決するために無意識のうちに可能性の限界=フレームを設定している。だが、これが出来ない例もある。たとえば、ひきこもりは自分の部屋の中という限定条件でしかフレームを設定できないために発生する、とも表現できる。
たいていのヒトは、たいていの状況下で、無意識のうちに完全なる根拠や証拠や確信なしでフレームを設定している。全てのデータを集め、分析しつくした上で行動するのは、時間がかかりすぎるし、コストが高すぎるからだ。考えすぎてしまっては何もできない。考えすぎちゃって何も行動できなくなるのがひきこもりなわけだ。


でも、就職とか結婚とか出産とか、状況が変化してそれまでの経験や知識があまり通用しなくなると、無意識でフレームを設定するのが困難になる。これを予測しているのでヒトは変化を嫌がるわけだが、この時に無理やりフレームを引くことこそが”leap of faith”でありヤンキー的精神なのではなかろうか。
そういえば日本のヤンキー精神には古来から伝わる武士道精神や神道や体育会系価値観が複雑に入り混じったものだ。一部のヤンキーがヤンキーを卒業した後に暴走族や右翼や暴力団に就職するのは、ヤンキー精神が成立した歴史的経緯と無関係ではなかろう。そこまで行かなくとも、ヤンキーが妊娠して結婚して出産して公園デビューした結果、初めて地域社会に参加するようになるというのは、普通に見かける光景だったりする。バイクや結婚という選択が社会と対峙することに繋がらざるをえない。



つまりこうだ。
キリスト教文化圏では、まずベーコンやロックの経験論的に自身の経験内でどう判断するか考える。
次にカントの観念論的に理屈を組み立て、ヘーゲル弁証法で理論や予測の精度を上げていく。
それでも対応できない場合は、キルケゴールの”leap of faith”精神で論理を飛躍して決断し、その結果得られた「美徳」を通じてサンデル的に共同体と対峙していくわけだ。


じゃ、我々はどうするのかというと、まず30代40代のおっさん経験論的に自身の経験内でどう判断するか考える。
次にオタク的価値観で理屈を組み立て、オタク的自問自答で理論や予測の精度を上げていく。
それでも対応できない場合は、ヤンキー的精神で就職したり結婚したり出産して、その過程を通じてセカイに向き合い、社会参加していく……なーんつってな!!