カルチェラタン、トップクラフト……そしてスタジオジブリ:『コクリコ坂から』
コクリコ坂から (スタジオジブリ, 宮崎吾朗監督) [DVD]
『仮りぐらしのアリエッティ』妄想エントリが思いのほか好評だったので、ブログのネタにでもすべえと半分馬鹿にしながら『コクリコ坂から』を観に行ったのだが、音楽が説明的でちょっとウザいところがあるものの、意外なことに結構良い出来の映画だった。やるじゃん、吾郎!
『ゲド戦記』との最も大きな違いは、映画的演出力の向上だろう。登場人物の心の動きを、台詞や心の声ではなく、ちょっとした仕草や第三者とのやりとりや意図的な省略でみせる、ってのは映画というメディアが持つ魅力の一つだと思うのだが、全部台詞で説明していた『ゲド戦記』に比べれば『コクリコ坂』の上手いこと上手いこと。
以下、ネタバレだけど、ネタバレしても面白い映画だと思うので、きっちり書く。
たとえば、一番分かり易い部分を挙げてみる。
もうCMで幾度となく放映されているので今更ネタバレにならないと思うのだけれど、風間くんが海に実は肉親だと告げるシーンがある。ここで海は「どうすればいいの?」と返す。この時の、ちょっと引きつったような顔の作画とか上擦ったような声の芝居とか凄い上手いわけなのだけれども*1、本当に上手いのはその後なんだよね。
いきなり時間をジャンプさせて、第三者に「海ちゃん、学校でなんかあったの? 今日の夕飯すごかったわよ」と言わせる。その場では気丈に振舞っていても、実はショックだったということをそれまで何回もみせてきた「夕飯の調理」という事象で説明したわけだ。しかも、「すごかった夕飯」そのものは省略する。これ、今までの吾郎だったら、絶対絵に書いて出していたんじゃなかろうか。
その他、風間くんが真相を知って海を避けるようになるさまとか、水沼が二人に気を遣うところとか、全部仕草や省略で説明してるところが、本作のクオリティを一段も二段も上げているところだと思う。絵や写真の使い方*2も上手い。生前の黒澤明が映画監督としての北野武について「省略が上手い」と褒めていたが、こういった所こそ黒澤やスピルバーグからジョニー・トーや西川美和に至るまで、世代や文化を超えて共通する「映画的上手さ」なのだ。脚本で指定されていたのかもしれないが、コンテを描いたのは吾郎だ。吾郎、よく勉強した。吾郎も五年あわざれば刮目してみよ、という感じか。
ただ、こういった部分は単なる「出来の良さ」であって、「面白さ」であるとは限らない。
自分が『コクリコ坂から』で一番面白いと感じた部分は、『アリエッティ』と同じく、「スタジオジブリ」というものに関する屈託だ。
一番驚いたのは、主人公達がカルチェラタン存続を直訴する為に会いに行く学園の理事長――徳丸社長だ。徳丸社長の会社は出版社らしく、新橋に本社があり、廊下にはアサヒ芸能のポスターや返本が……アサヒ芸能? これ、どう考えても徳間書店だよね? 徳間康快だよね? うひゃー、なんてあからさまな!
竜になった男―小説・徳間康快
萩原 信一郎
ここまでくると、それまで薄々と感じていたものに確信が持てるようになる。
つまり、カルチェラタンってスタジオジブリなんだよね。ジブリの前進で、『ナウシカ』を作ったトップクラフトを見出した方が適切なのかもしれない。
この映画のテーマは誰がどうみても「父」だと思う。つまり、吾郎にとっての駿だ。ただ、ちょっと複雑なのは、スタジオジブリにとっての「父」という視点も同時に重ねあわされているところだと思う。
一つめの見方でみてみると、主人公の海は当然吾郎のメタファーだ。父親が朝鮮戦争で死んだというのは、戦争のようなアニメ製作やスタジオ運営で家庭を顧みなかった駿の顕れだろう。海が、子供であるにも関わらず親から受け継いだ下宿屋を切り盛りするさまは、気分的には子供であるにも関わらず親から受け継いだジブリ美術館を切り盛りする様に重なる。「古いものを壊すことは過去の記憶を捨てることと同じじゃないのか」という風間の台詞は、スタジオジブリの伝統を受け継ごうとする吾郎その他ジブリ新世代の姿勢に繋がる。その後、組合活動ならぬ学生活動に熱中する風間や水沼と合流し、カルチェラタン存続の為に尽力するという展開は、何をかいわんやだ。
二つ目の見方でみてみると、風間と水沼は駿と高畑勲ということになる。そういや「駿」は人名として普通に読んだら「しゅん」と呼ぶ方が自然だ。もしかすると水沼は鈴木敏夫で、哲学研のすぐ泣くゴツい男が勲なのかも。あんなイケメンメガネが鈴木敏夫だとは納得いかないのだが、吾郎にとってはそう見えるのかもしれん。「古いものを壊すことは過去の記憶を捨てることと同じじゃないのか」という台詞は、昔ながらのアニメ製作に拘るジブリの姿勢に繋がる。
週刊カルチェラタンという名のアニメ作品を作っていた二人がスタジオの存続を図るために徳間社長の協力を得る――という視点は一つめの見方と同じなのだけれども、重要なのは海の役割だ。宮崎駿のアニメ作品において、ヒロインは常に「アニメ」のメタファーだった。海という『ナウシカ』*3との出会いがスタジオ存続に繋がった、ってことなんじゃなかろうか。
一番面白いし、一番興奮するのは、この二つの見方が合流するところだ。つまり、海にとっての風間と父の同一化だ。しかも、映画のクライマックスに。
海と風間が肉親であるという関係性に悩むってのは、吾郎と駿が肉親同士であることに悩んでいることをそのまま反映していると思うんだよね。肉親同士だからお互いの性格や能力ややってることがよく分かるし、行き違いも少ない。自分達にとってそれは自然な関係性なのだけれども、しかし世間は違う見方で自分達のことをみる。それでも、まぁ良いじゃんというのがあの告白シーン――路面電車に乗る前の告白シーンだと思うのだが、どうだろうか。
そんなわけで、二つの視点が合流し、二人の問題が解決したこの後は、単に世間の「承認」を受けるためのやり取りになる。徳丸会長や三人目の写真の男からのやりとりが流れ作業にみえるのはその為だ。何よりも、映画のラストシーンでもまだ海は旗を揚げ続けている。吾郎……三作目もやる気なんだなー。
『コクリコ坂から』で、吾郎が駿を越えていると自信をもって断言できるところがある。成熟した女の描き方だ。駿だったら風間俊の義母をあんなに美人にしないし、すぐ乳をやるなんて演出しない筈だ。
駿の映画に出てくるのはロリがおばさんかババァばかりだ。たまに若い女が出てきた思ったら、クシャナみたいなエロさゼロのキャリアウーマンだったりする。『千と千尋』でロリを演じた柊瑠美が『ポニョ』でいきなりおばさんを演じたのは分かり易い。
そんなわけで、吾郎の次回作は成熟した女のエロさを前面に押し出した作品にして欲しいなぁ。『コクリコ坂』の海にはオトナの女性のエロさがあったんじゃなかろうか。駿がロリコンなら吾郎はマザコンだと思う。まぁ、男はロリコンとマザコンの二種しかいないのだけれども。