おれたちの暴力:『イエローキッド』


大学院の修了制作という触れ込みである『イエローキッド』を観てきたのだが、堂々たる劇映画だったよ。
制作費は200万円らしいのだが映画のどこにも貧乏臭いところが無くて、学生が作る映画に特有の劇団っぽさとか素人臭さみたいなものが全く無い。それどころか、シネコンでかかっているテレビドラマの続編のような映画をスピリットやテクニックにおいて完全に上回る作品であった。


なんでも、監督の真利子哲也はこの作品を作るチャンスを見越して大学院に入学したらしい。天晴だ。

黒沢清が教鞭をとり、北野武が名誉教授を担う東京藝術大学大学院映像研究科「監督領域」。07年4月、自主映画作家として国内外の映画祭の常連だった真利子哲也は、あるカリキュラムに惹かれてこの学舎の門戸を叩く。それは、修了制作には200万円の製作費が支給され、大学の機材が使い放題で、作品は映画館で上映されるというもの。真利子監督はそのチャンスをフルに活用し、プロの俳優もキャスティングして、『イエローキッド』は完成した。

 


この監督、はっきりいって上手い。上手すぎて可愛げが無いくらいだ。


映画の上手さとは何か。その定義は人によって異なるだろうが、「できるだけ多くのことを映像で語る」という点に重きをおくべきだと思う、映画が小説やマンガといったメディアと最も大きく異なる点はそこなのだから。
つまり、登場人物の個性や背景、心情や信条、意志や決断を描き──同時にそこで何が起こっているのか、起ころうとしているのか*1、あるいは起こってしまったのか*2を、なるべく映像だけで、なるべく短い時間で、なるべくこれまでに無かった手法やアイディアで描く、というのが上手い映画ということになる。一方、ナレーションをたっぷり使い、登場人物の心情を言葉で説明し、ただ家に帰って飯喰って寝るだけの描写に30分も1時間もかけるような映画は、当然下手糞な映画だ。


この点、『イエローキッド』は、もの凄く上手い。
たとえば本作はアメコミっぽいイラストとセンス溢れる音楽のみのオープニングのみで始まるのだが、これが実に良い。一瞬にして現実とは別の世界、つまりは映画世界にに引き込まれるような勢いがある。前作の粗筋をアレックス・ロスのイラストと音楽のみのオープニングで説明してしまった『スパイダーマン2』のような軽やかさをとパワーを感じたよ。オープニングが良い映画は大体良い映画ってのは本当だよな。


もう一つ。オープニングの後、主人公の一人である田村がボクシングのポスターを見てニンマリした後、ボクシングの練習をする。ここは至って普通で、ああこいつはボクサー志望の若者なんだなということを表す、極めてベタなシーンだ。
その後、いかにも狭そうな建物の階段を降りた田村は、階下で部屋で寝たきりの祖母に向かって寸止めパンチを繰り出す。この男はもしかして祖母を虐待してるのかしら? と戸惑っていると、シャドーボクシングの勢い余って割ってしまった電球の破片をしおらしく掃除するんだよね。この田村という男が祖母に対してどのような意識を持っているのか、どのような経済状態か、どのような性格の男かというのを、僅か数分で説明する。しかも、代わりの電球を買うシーンへの伏線にも使われる。上手いわー。
その他にも、ジムのガラスを使って二つの事象を一時に説明するというテクニカルなシーンや、商店街での長回し等々、印象的な演出があちこちにあり、思わず引き込まれてしまった。


ただ、こう書いてはなんなのだけれども、最近の若手監督って皆上手いのだよね。特に映画学校や映画畑出身の若手監督、井口奈美や西川美和など*3は本当に上手い。それは多分、それなりの競争を勝ち上がらなければ作品を発表できないという状況があるからだとも思う。


じゃ、『イエローキッド』の魅力は何かというと、それは本作で描かれる「暴力」の独自性にあると考える。


これまで映画は様々な暴力を描いてきた。たとえば『プライベート・ライアン』における戦場の暴力。『チェイサー』における猟奇犯罪の暴力。『ホテル・ルワンダ』で描かれた民衆の暴力。『シティ・オブ・ゴッド』で描かれた子供の暴力、とみせかけた貧困の暴力。『バトル・ロワイアル』で描かれた子供の暴力、とみせかけた大人から子供への暴力。特に、最近の韓国映画には「暴力」に真正面から挑んだ作品が多い*4


だが、最近の日本映画界で、「暴力」と真正面から対峙する者は少なくなった。深作欣二は死んだ。北野武はヤクザ映画から離れた。阪本順治崔洋一はプログラム・ピクチャーを撮りすぎた。
かろうじてまだ、三池崇史井口昇は暴力映画を撮っている、かのように見える。だが彼らの作品で描かれる暴力は、一種のギャグとして異化された暴力だ。ヤッターマンロボゲイシャが殴られる時、そこに痛みを感じるだろうか*5


現在──という枕詞がつくが──韓国映画界で生産される数々の暴力映画に対し、胸を張って対抗できるのは『イエローキッド』くらいなんじゃなかろうか。それくらい本作の暴力描写は苛烈だ。単に人間がボロボロになるとか血をいっぱい流すとか言うレベルではない*6。映画から痛みを感じるか、アクションに感情が籠もっているか、狂おしいまでの感情が暴力として表現されているか、ということだ。
加えて、本作は史上初めてヤクザでも殺人鬼でもない、「DQNの暴力」を、ギャグに逃げないで真正面から描いた映画なのではなかろうか。
主人公二人に暴力を振るうこととなる元チャンピオンと先輩ボクサー、三国と榎本はDQNそのものだ。主人公二人が彼らと相対した時にみせる不安で落ち着かなげな所作や、首にちりちりくるような怖さと嫌悪感が入り混じったような感触は、我々が中学や高校でDQNと対峙した時のそれそのものだ。
我々の大半は戦場に行ったことがない。猟奇殺人鬼の被害者になったわけでもない。ヤクザが暴力を振るう場面に出会ったこともない。でも、学生時代にDQNと机を並べた経験はある。だからこそ、DQNの暴力にリアリティを感じるわけだ。
また、暴力を振るいつつも、その暴力の理由となるDQN達の気弱で不安な精神的背景が、観客にきっちりと理解できる作りになっている点も上手い。
ヤンキーやDQNを扱った映画は数あれど、ギャグに逃げないDQNの暴力をDQN以外の視点から描いたという点において、本作は新しいと思う。いや、「DQN」という概念自体が新しいものなんだけどさ。


で、主人公二人は、そのDQNの暴力に対して、彼らなりの暴力で抗うんだよね。それも「イエローキッド」というマンガの力を借りて。ここいら辺、世界中のトラヴィスロールシャッハやジョーカー予備軍が興奮すること間違い無しの展開で、「他人のイメージでも自分の現実になるんだよ!」という名台詞に熱くなること間違いなしだ。


でも本作の本当に素晴らしい点は、そんな抗う為の暴力も暴力を再生産し、愛する人を傷つけ、精神の井戸の奥底に落ち込むさまをきっちりとみせつける点にあると思う。スタッフロールの後、我々が観てきた映像は現実とイメージが混交した結果であったことが示される。その時、イメージや想像の力というものは、視点や観点を変えれば狂気の力なのだということに、合点するのだ。
真利子哲也恐るべし。


東京での公開は来週金曜までらしいので、気になる方は是非鑑賞を。
ちょっとこのクラスの映画はDVD出るかどうか分からん*7ので、尚更だ。

*1:これを重視すると上手いサスペンスということになる

*2:これを重視すると「省略の美」ということになる

*3:真利子哲也より一回り上だけれども

*4:そういや、今月の映画秘宝で特集が組まれていた。

*5:むしろこの二人の作品には、アクションを扱わないシーンにこそ、精神的な痛みを感じる描写が多いんじゃなかろうか、『恋する幼虫』とか

*6:単にビジュアルという点なら三池崇史井口昇の方が勝っている

*7:現に『サイタマノラッパー』は未だにDVD化されていない