ババァたちの『エイリアン2』:『デンデラ』

昨年、たいへん面白かった映画の一つに『十三人の刺客』がある。三池崇の映画は面白いのもあれば、つまらないものもあり、『十三人〜』が面白かった理由は監督以外にあるのではないかと考えるのは自然なことだ。
そんなわけで、『13人〜』の脚本を務めた天願大介の新作が公開されると聞き、『デンデラ』を観に行ったのだが、とんでもない怪作だった。『スカイライン』以上に賛否両論なネット上の反応も、もっともだと思った。「姨捨山には続きがあった」なんてキャッチコピーがついているのだが、実際はババァが主役の『エイリアン2』みたいな映画だと思ったよ。


この映画には何十人ものババァが登場するのだが……どのババァもキャラクター造形が良い。物語を説明する為には、とりあえずババァ三人ほどのキャラを覚えて貰えれば良いと思う。



まずは主人公のババァ――浅丘ルリ子演じる佐藤カユだ。
映画はいきなり姥捨のシーンから始まるのだが、カユが寒さに耐えかね、野ションをするシーンがすぐに続く。白い雪を黄色く溶かすさまがアップで写るシーンは、この映画の禍々しささ、あるいはエクストリームさを、冒頭で宣言しているかのようだ。途中、ショートカットにするシーンがあるのだが、女性の髪型の変更は心理や役割の変化を意味するので、注意したい。


二人目はデンデラの長のババァ――草笛光子演じる三ツ屋メイだ。
主人公は女の共和国ならぬ捨てられたババァたちの共和国であるところのデンデラに拾われるわけだが、そこは同時に、自分たちを捨てた村を憎み、暴力を奮う男たちを皆殺しにし、村を支配する金持ちや坊主たちに復讐を果たす為に日夜戦闘訓練に励む、テロリスト集団の里でもあった。デンデラのリーダー・メイは、アルカイダでいうところのビン・ラディンだ。百歳のメイは主人公を「七十の小娘」と呼び、復讐に反対するデンデラ内の穏健派を「意気地なし」と呼ぶ。そして復讐に燃える自らを「鬼」と呼ぶ。メイの使う白い三日月型のかんざしは、まるで鬼の角のようだ。
「歳をとることは罪だか? 罪ではねぇ。年寄りはクズだか? クズではねぇ、人だ」
「男は問答無用で皆殺しだ! 女子供でもデンデラに歯向かう奴は容赦なく殺せ」
メイの口から吐かれるのは虐げられしマイノリティが吐く呪詛の言葉であり、彼女の心の内には怒りと憎悪が燃え滾っているのだ。外見は100歳のババァ。でも一人称は「おれ」。元気なババァが「復讐」とか「皆殺し」とかいった単語を叫ぶさまをみると、何故かテンションが異様にあがるのは自分だけだろうか? 三ツ屋メイはトラヴィスやジョーカーやロールシャッハに通じるキャラクターだと思う。


そして、三人目。この三ツ屋メイと対になるのが倍賞美津子演じる椎名マサリだ。
村の掟を破ったせいで家族が皆殺しになり、片目を潰され、男たちの慰みものになった過去を持つマサリは、穏健派である「意気地なし」グループのリーダーだ。プラチナブロンドみたいな白髪とアイパッチで、ババァのくせにもの凄くエロカッコ良い。若い頃、いっぱい男にレイプされたんだろうなーと思わず想像してしまう。
マサリは「この中で誰よりも村を憎んでいるのは私だけど、それでも復讐は違います」とメイの計画に反対する。それよりも、ババァたちのユートピアであるデンデラをより発展させ、皆で楽しく暮らそうではないかと。


しかし、女だけババァだけのユートピアなぞ、すぐに滅亡してしまうとメイは反論する。それに対し、貴女は自らが作ったデンデラを犠牲にしてでも復讐を果たそうとしているのがみえみえだと看破するマサリ。二人の間で揺れ動くカユ。……ここまでくると、本作はまるで共同体運営におけるイデオロギー対決の様相を呈してくる。



以下ネタバレ。



……でさー、自分はこの映画、自爆テロをやる気まんまんの過激派リーダーのメイと、それに反対する分離独立派な聖女マサリの間を、観客の代表であるところの主人公カユが右往左往しつつ、最終的にはアクション映画として村を急襲する場面がクライマックスにあり、復讐の連鎖がどーたら、弱者の中にも弱者がこーたらとかいった説教をかましつつ、無難に終わる映画だと思ったんだよね……映画の中盤にクマが登場するまでは。


このクマ、何が凄いかって、着ぐるみであることがバレバレなんだよね。カット割りや構図でなんとか誤魔化そうとしているものの、誰の目からみても中に人が入ってることが明らかだ。
これだけでも驚きなのだが、真に驚いたのはここからだ。映画の後半はデンデラのババァ軍団VSクマの死闘になるのだが、これがまた面白いんだよ! しかも、チープで面白いとか、サイテー映画として面白いとか、そういう意味じゃなくて、真っ当な映画として面白いのだ。ババァVS着ぐるみのクマなのに!!



エイリアン2 完全版 アルティメット・エディション [DVD]
ジェームズ・キャメロン
B0001FX9NY
エイリアン2』の面白さは、人間とエイリアンという種族との戦争であったと同時に、リプリーとエイリアンクイーン――子を守ろうとする母同士の対決という構図であったことにもあると思う。エイリアンと戦うことは人類がその歴史において繰り返してきた「異種族の殲滅」の反復であった。エイリアンクイーンというモンスターに「異民族」とか「母」とか様々なものが象徴されていた。そのような意味やメタファーを見出せるアクション映画は、単なるアクション映画を越える、映画的魅力があると考える。


で、『デンデラ』にも『エイリアン2』と同じ魅力があると思う。このクマの襲撃に、きちんと意味があると思うんだよね。



たとえばクマによる最初の襲撃の後、手負いのクマを誘き出して確実に殺すために、メイはカユの親友である黒井クラを囮として使う。メイはリーダーなので、これはお願いでも提案でもなく強制だ。もともと体が不自由だった黒井クラは、最初の襲撃でクマに脚を切断され、より一層デンデラの「お荷物」状態となった。それもあってか、クラ本人も囮の役割を拒まない。それどころか「皆の役に立つのが嬉しい」とまでいう。
これはさ、実のところ「皆の為に喜んで極楽浄土に行く」と自らお山に向かう、姥捨てのシステムそのものなんだよね。ババァという弱者を切り捨てることで成立していた村の生活――それを憎み憎悪するメイが、自分の作ったデンデラというユートピアを維持する為に弱者を切り捨てるというという、この皮肉。


このクマ、実はメスで、子供がいる。しかし、主人公とマサリ*1に子供は殺され、自身も右目を潰されてしまう。その復讐か、はたまた人間の味を忘れられないせいか、クマはまたもやデンデラの里を襲撃するのだが、その時村の長を務めるのはマサリだ。復讐に意味は無いというマサリだが、クマの襲撃から村を守るためには積極的に戦うし、トラップも仕掛ける。
対峙するクマとマサリ。ここでマサリが、何故かアイパッチを外す。潰された片目でにらみ合う一人と一匹。復讐を否定しつつも復讐の原因を作ってしまったマサリが、生きようとする人間の犠牲者であるクマを見つめるわけなのだけれども、復讐とか因果とか影法師とか、様々な意味やニュアンスが折り重なり合って、この映画で一番はっとさせられるシーンだった。『13人〜』の「みなごろし」シーンにも通じる映画的興奮を強く強く感じて、思わず興奮してしまったよ。
十三人の刺客<Blu-ray>通常版
B004O0THH4


で、クライマックスはいよいよカユとクマとの対決が用意されてるわけなのだけれども、最終的にカユがとる「策」に唸ってしまったし、その合間合間にインサートされるシーン――花畑の中で小娘のようにはしゃいだり、魚の骨で髪をといたりするメイのシーンにも感じ入ってしまった。
クマと戦うことを諦めたババァたちが雪の中に地蔵の如く座り込み、「もう、おれらは木や草みたいなもんだから」と呟くのは象徴的だ。クマとの生きるか死ぬかの闘争こそ、ババァに活力を漲らせる根源だったのだ。メイやマサリやカユといったババァたちが、まるで少女の如くみえる秘密がここにある。



年のいった名女優が何人も出演しているせいか、劇場は高齢者でいっぱいだったのだが、実は黒いTシャツに短パン着て毎月映画秘宝読んでるような客こそが観るべき映画だと思ったよ。どの劇場でも千円で観られるらしいので、『コクリコ坂』を観るくらいだったら『デンデラ』を観ろと言いたいねぇ。

*1:弓で射る姿がステキすぎる