宮崎駿のことは許してあげる:『思い出のマーニー』

思い出のマーニー』観賞。結局『かぐや姫の物語』はDVDでいいやとスルーしてしまったのだが、『思い出のマーニー』は公開翌日に観賞だ。
借りぐらしのアリエッティ』以降、戦艦大和みたいな高畑・宮崎 両巨匠の長編映画よりも、浸水してる伊号潜水艦で必死こいて戦っているような米林・吾朗ら「残された人々」の作品に注目せざるを得ないのだが、いや『思い出のマーニー』は面白かったよ。普通に観ても夏休みに文系女子の卵みたいな小中学生が観るのに適した、丁寧に作られたよくできた作品だし、すべてのジブリ作品にはスタジオジブリ内のあれやこれやが詰め込まれているという「スタジオジブリ原理主義視点」で観ても大変面白い映画だった。
2014/06/27の『鈴木敏夫のジブリ汗まみれ』によると、本作はスタジオジブリが製作する最後の作品になるかもしれないそうだ。『アリエッティ』といい『マーニー』といい、米林監督は「滅びを運命づけられしもの」を宮崎駿とは別の意味で扱う手つきが特徴的だと思うのだが、本作がスタジオジブリ最終作になるかもしれないというのは意味深なのではなかろうか。
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思い出のマーニー』は、コミュニケーションや成長の物語のように思える。原作から受け継いだ「線の内側と外側……」という台詞が象徴するように、主人公の杏奈は家族や友人とコミュニケーションの点で問題を抱えている。杏奈は自分の書いた絵(全てを画で表現するアニメ作品においてはアイデンティティそのものだ)をみることなく立ち去った教師を許すことができないし、「線の内側」のやりかた――自分勝手なコミュニケーション手法を押し付けてくる義母や親戚のおばさんや「太っちょデブ」に苛々する。中盤、杏奈が義母を許せない理由が語られるが、自分のような中年のおっさんにとっては、ほとんどどうでも良いようなことだったりする。しかし、思春期にある少年少女にとっては切実な問題だ。
これはジブリ作品では珍しい。ジブリ作品はこれまで、主人公の自分勝手なエゴや欲望をこのように深刻な問題として描かなかった。ナウシカもバズーも理想的な少女であり少年だった。ポルコロッソや二郎のエゴや欲望はロマンとして描かれたし、キキや千が社会で居場所を探す際に抱える問題はコミュニケーションではなかった。
そんな杏奈がマーニーと触れ合い、他人を許すことを知り、社会とのつきあい方を学び、成長する……そんな物語のように思える。杏奈がボートに飛び乗ろうとしてバランスを崩したり、トマトやスイカが瑞々しい切り口をみせたり、この世の終わりのような嵐がサイロを襲ったりと、丁寧で迫力充分な描写がそれを支える。まさにジブリ作品だ。



だが、違和感を感じる部分もある。
まず、原作との違いだ。なぜ舞台をイギリスから現代日本*1へと移したのだろうか。『ラピュタ』や『魔女の宅急便』を作ったジブリの実力なら、原作通り60年代のイギリスを舞台に、当時の風俗や背景をきっちり描きつつ映像化できた筈だし、ジブリのブランド力なら、海外を舞台にしたから日本人の観客が減るということも無いだろう。監督が宮崎駿だったら、回想シーンとして第二次大戦に参加する英国軍をノリノリで描いた筈だ。
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おそらく、『借りぐらしのアリエッティ』と同じく、日本を舞台にすることで本作を他人事ではなく自分事としなくてはならない理由があったのだ。それも、観客にとってではなく作り手にとっての理由が。


また、杏奈がことあるごとに意識を失うのも不自然だ。一回や二回ならたいていの映画にあるだろう。だが本作では、マーニーと分かれたらベッドで目を覚ますとか道端に寝転んでいるとかいったシーンを10回近くも繰り返すのだ。ある程度映画を見慣れた観客なら、夢と現実の交錯がこの映画のテーマの一つだと気づく筈だ。



以下ネタバレ。



更に、これが重要だと思うのだが、マーニーやその家族の存在が自分の想像であると主人公が気づくタイミングが違う。原作では最後の最後までマーニーが実在すると思い込んでいたのだが、映画では中盤で自覚する。湿地屋敷で行われたパーティーの翌日に荒れ果てた屋敷を訪問させたり、駄目押しに「私の部屋に来ない?」と言わせて確認までさせている。にも関わらず、杏奈はマーニーとの友人関係を維持するのだ。
おかげで、マーニーが自分の祖母だと気づくラストにもの凄いダンドリ感が漂ってしまうこととなる。大半の観客は途中で気づいてるし、杏奈がマーニーに「あなたが好きよ!」と言った瞬間、ドラマは終わっている。そういうつくりになっているのだ。


だが、全ての(特に『もののけ姫』でやりたいことをやりきってしまった後の)ジブリ作品には、その時々のスタジオジブリの状況やら業界での立ち位置やら監督のリアルな思いやらが込められているという「スタジオジブリ原理主義」視点を持ち込めば、この違和感は解消される。
参考
パヤオ勃ちぬ:『風立ちぬ』 - 冒険野郎マクガイヤー@はてな
カルチェラタン、トップクラフト……そしてスタジオジブリ:『コクリコ坂から』 - 冒険野郎マクガイヤー@はてな
名も無きジブリの民:『仮りぐらしのアリエッティ』 - 冒険野郎マクガイヤー@はてな


かつて繁栄していたが今や廃墟となり、自分の想像のような幽霊のような存在が、定期的に決まりきったパーティやボーイ・ミーツ・ガールなイベントが繰り広げる湿地屋敷――これは、かつて巨匠たちが作るセルアニメスのおかげで繁栄していたが、今や廃墟同然となってしまったスタジオジブリの象徴なのではなかろうか。


そういう見方をすると、コミュニケーションの問題を抱える杏奈は、監督である米林宏昌の分身ということになる。宮崎駿高畑勲といった天才達や鈴木敏男という食えないジジィと同じ屋根の下で自分の作品を作らざるをえず、無表情で少女に援交を迫る妖怪のようなカオナシのモデルとなった(つまり宮崎駿にそうみられている)ことでも有名な米林宏昌が、組織という地域社会におけるコミュニケーションという点で問題を抱えていないはずが無い。監督とほぼ同年代の自分は生理的によく分かる。


そしてそして、主人公よりも年長で、様々なことを教えてくれ、「置いていかれた」ことを裏切りと感じるものの、最終的に「許してあげる」ことになるマーニーは、米林にとっての宮崎駿の象徴なのだ。米林宏昌ジブリの社員であり、ジブリ生え抜きの監督だ。宮崎駿高畑勲に憧れてスタジオジブリに入社したことは間違いない。
駿がくれた花――アニメを配るだけで、周囲にいる幽霊のような大人たちは喜び、カネをくれた。「魔女」とよばれ、いつも遊んでばかりいるマーニーの母や父――いつも遊んでばかりいる高畑勲も喜んだ。
だが、その宮崎駿は引退した。宮崎や高畑がアニメを作ることが存在理由だったスタジオジブリは半ば解散し、版権管理会社に成り果てようとしている……これは裏切りだ。
それでも、「許してあげる」。何故なら、マーニーも駿も自分に自信を与えてくれたから。周囲と上手くやっていく力をくれたから。そろそろ廃墟となった屋敷を離れ、自分の道を歩む時かもしれない……
誰が鈴木敏男で誰が宮崎吾郎で誰が川上量生なのかはこの際いうまい。


結局、この映画は華やかりし過去の夢や狂気や想像を覗き見した監督が「宮崎駿のことは許してあげる。あなたが好きよ!」と言いながら去ってゆく話なのだと思う。ジブリは夢と狂気と創造の王国だったのだから。
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*1:スマホいじってる同級生とか出てくる