「岡田斗司夫のひとり夜話3」感想

(前回の続きです)


というわけで、前回より短時間だったにも関わらず、濃厚な回であった。

ブログの書き方

まず最初の、ブログを書く際は感情のカミングアウトを大切にという話は成程と思った。自分も、ノリノリで書いた場合ははてブがつきまくる一方で、半分義務感のような場合で書いた場合は何もレスポンスが無かったりするんだよね。
でも、感情だけで書いたようなブログ、常に愚痴ってたり、いつも怒ってたり、というのは読む価値無しとも思うので、それなりの内容があった上での話だとも思う。三つに分割した上での一要素としていたように。

 「ブログに感情を盛り込む」というのは、実は簡単。
 笑いながら書けばいい。

岡田斗司夫のゼネラル・プロダクツ:魁!ブログ塾

そう考えると、「笑いながら書けばいい」というのは具体的なアドバイスだと思った。そこまでテンションをどうやって上げるのか?という話もあるけれど。
たとえば映画の感想なり批評なりを書くとして、熱の冷めないうちにエイヤ!と書かないと永久に書けない、みたいなことがあるじゃん。でも、映画を観た後にじっくり考えないと書く「内容」について固まってこない。自分の場合、映画を観つつ考え考えしたりもするのだけれど。

恋愛の経済学

次に「恋愛の経済学」なのだけれど、多分、岡田斗司夫は議論を活性化する目的で、一つの笑い話としてこういう話をしてると思うんだよね。
実際面白かったし、笑えたけれども、さて自分はどうか?と考えた時に、あんまり笑えなくなるわけですよ。
我が家の嫁は私とほぼ同じ年齢で、私を同じ位年収があって、子供の面倒も私以上にみているのだな。で、岡田斗司夫の言うように、女性にとって男性とのセックスとか男性の炊事能力なんかは魅力無いわけよ。
まぁ、子供がいるので家事全般ということになると話は変わってくるけどね。だから私も洗濯物干したり、子供を風呂に入れたり、皿洗いしてるわけなのだが、同世代なら男性より女性の方が市場価値が高いという話に基づくのならば、離婚話が出るのも当然だなと思った。
いや、私も馬鹿で元気で金に困っている若い女子を探しますよ。

人生の意味

最後に「人生の意味」についてなのだが、本当に「文明」という上位構造の勝敗が個人の幸せ・不幸せに影響を与えないか、疑問があった。座る位置が悪かったのか質疑応答の際に質問できなかったのだが、「その1」で前述した公開打ち合わせの時間を利用して聞いてみた。
たとえば、一ヒト意識としての岡田斗司夫も「岡田斗司夫文明」の他に「アニメ文明」とか「特撮文明」がシェア争いをしてるわけだと想像する。で、その中には「オタク文明」があった筈なのだが、それが滅んで、つまり「オタク・イズ・デッド」して、岡田斗司夫は悲しさや寂しさを感じなかったのか?と聞いてみた。確かあの本にはそういうことが書かれていたと思ったので。
オタクはすでに死んでいる (新潮新書)
4106102587


一個人のヒト意識は様々な「文明」がシェアしているので、その中の一つの「文明」が滅んだとしても、他が補償するので全体への影響は少ないんじゃないか、というのが岡田斗司夫の返答だった。確かに、「レコーディング・ダイエット」も「遺言」イベントも「オタク・イズ・デッド」というイベント後だったわけで、岡田斗司夫の活動を振り返るとそうかもしれないなぁ、と思った。
また、20世紀の「文明」は、ある意味弱肉強食の自然状態にあったわけだ。それが21世紀になり、シェアを争う生存競争に移行すると、様々な「文明」の総体としてのヒト意識は、部分的・段階的に変化してゆくので、一夜にして幸福になったり、不幸になったりということが起こりにくくなったのかもしれない。


ジーンに対するミームという概念を提唱したのはリチャード・ドーキンスだ。
まず、ドーキンスは利己的遺伝子説という仮説を提唱した。ちょっと前に書いた記事をコピペすると、生物とは遺伝子の乗り物に過ぎず、遺伝子はより多くの複製を遺す為に生物という乗り物を利用している、という考え方だ。この仮説に基づけば、突然変異によって生まれた「脚の速さ」や「警戒心の強さ」というような形質を決定する遺伝子は、「脚が速い」とか「警戒心が強い」という形質を生物に与えることにより、個体としての生存確率や繁殖効率を上げ、自身の複製を増やしている、ということになる。


このような科学的仮説を社会学に適用したのが「ミーム」という概念だ。たとえば、「宗教」は最も有名で強力なミームの一つだ。ある日、誰かの頭の中で「神」や「死後の世界」といった概念が生まれる。それらを受け入れることに精神的な安定や死への恐怖の低下に繋がる効果があることから、他の誰かに伝わり、どんどん複製され、継承されてゆく。継承や複製に連れてそれらは様式化され、明文化され、権威化し、継承や複製の効率が加速度的に増加してゆく。この時、「宗教」は強力なミームであるといえる。
最近だと、エコロジー=格好良いという価値観や、のりピー=重犯罪人で人間のクズという評価も、急速に複製を増やしたという意味でミームとみなせるかもしれない。


ぶっちゃけミームという概念は、複製と突然変異と選択が存在する系ならばどれでも、無理矢理ながら当てはめることができる。自分は生物系の大学で学んだのだけれども、講師が半笑いで「まぁ、一つの知的ジョークとして考えて下さい」とニヤニヤしつつミームの解説をしていたのが印象深い。


ミーム・マシーンとしての私〈上〉
Susan Blackmore
4794209851


さて、ミームという概念の誕生と発展には、遺伝子の水平伝播の発見が大きい。
たとえば、O157の毒素産生遺伝子の一部は赤痢菌の遺伝子から取り込まれたと推測されている。生殖による親から子への遺伝子情報伝達を「垂直伝播」とすると、このようなある生物から他種の生物への遺伝子情報伝達を「水平伝播」と呼ぶ。で、遺伝子の水平伝播を媒介するのがウイルスだと考えられているのだが、これをミームに応用した場合、ミームを媒介するウイルスのような存在が必要となる。


ミーム―心を操るウイルス
Richard Brodie
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そういうわけで、ミームという概念の発明以来、ヒトの意識をウイルスにたとえるアナロジーはよく行われてきた。ウイルスはそれ単独では増殖できず、細胞に寄生する必要があるので、肉体という乗り物を必要とする意識のアナロジーに適していたのだな。


それを踏まえて岡田斗司夫の話に戻ると、人生の意味にまで言及したのがスゲーと思った。普通、哲学者が「人生の意味」みたいな超個人的かつ普遍的事項に言及するのは躊躇う筈なのだが。
一方、科学者はどうか。生物が生殖その他でジーンを媒介することを快楽だと感じるように、ヒト意識は、ミームを媒介することを快楽だと感じるのだな。だからそれは「人生の意味」になりうる。そういう感じの説明になるのだが、まぁ、それでは味気ないよね。
そういえば、「恋愛経済学」で名前が出た本田透は「世界の電波男」で最後に「火の鳥 鳳凰編」を例に挙げ、同様のことを語っていた。

世界の電波男 ― 喪男の文学史
4861991323

無意味な三次元の生に何らかの意味を与えるために二次元の「物語」を作り続けることで、大勢の読者を癒し救うことができるはずだ、と手塚は結論したのだった。

岡田斗司夫の話の新しさは、ここに「文明」という上部構造を設定したことではなかろうか。個人個人が「受け取って」「考えて」「真似して」「伝える」ことの総体が「文明」となるわけだ。ここは山本弘の「神は沈黙せず」を連想したりもした。これを一種のオープンアーキテクチャーと一語でまとめたのは上手い。
神は沈黙せず
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あと、「一つのヒト意識を多数の文明を共有する」というモデルだと、裏返せばそれは「多数の文明が同じ構成成分を共有する」こととなる。他の「文明」を攻撃する際、自分の「文明」も傷つく可能性があるわけだ。大規模な戦争が起こらない理由の一つはそこだろうと思う。


質疑応答で東浩紀の名前が出たのだが、分かったようなことを書くと、ネタとベタとメタを使い分ける最近の東浩樹と、「オタク・イズ・デッド」後の岡田斗司夫の言説は、確かに対立しないんだよね。「オタク・イズ・デッド」と「動物化」、「レコーディングダイエット」におけるキャラ化とデータベース消費、岡田斗司夫2.0と民主主義2.0。似ているとは思わないし、共闘できるかどうかも分からないが、共存はできると思う。
つまり、「岡田斗司夫文明」と「東浩樹文明」は構成要素を共有しているので、お互い不用意に争わないよう、気を使っているかもしれないな、などと妄想したり。



もう一つ。「一つのヒト意識を多数の文明を共有する」というのは、それが心の豊かさということだと思う。つまり我々21世紀のヒト意識は20世紀に比べてより多様な「文明」にアクセスし、「文明」を通じて他のヒト意識とも交流できるわけだ。

一粒の砂に世界を見、一輪の野の花に天国を見る
君の手のひらに無限をつかみ、一瞬のうちに永遠を握る


イリアム・ブレイクの詩を、何とはなしに思い出したりした。