ピクサーにとってのディケイド:「カールじいさんの空飛ぶ家」

私はピクサーという会社に絶対的な信頼を寄せていて、ピクサーの作るアニメなら何でも観ることにしているのだが、今回の「カールじいさんの空飛ぶ家」も良い意味で予想を裏切る面白さだった。告白すると、泣いたりしちゃったよ。
最近のピクサーが信用できる理由、それは「いい年こいて子供向けアニメを作るおれ達」という要素を物語の根底に必ず入れ込んでいるからではなかろうか。その結果、映画は魂を獲得する。子供の付き添いで来た大人たちが号泣する。これぞアニメ映画の鑑ではなかろうか。



まず、映画本編の前に「トイ・ストーリー3」の予告が流れる。

ウッディが作ったやつよりも出来の良い看板を作るバズ。その時の台詞がシビれる。


「皆と同じ材料で作ったんだよ。ただ、他より余計に手間暇をかけただけさ」(うろ覚え)


などと言うんだよね。


これはさ、当初「トイ・ストーリー3」の製作にピクサーがノータッチであったことと、無関係じゃないと思うんだ。2004年、経済的自立を求めていたピクサーとディズニーとの関係は悪化しており、なかなか新しい契約に合意しないピクサーに対して当時のCEOであったマイケル・D・アイズナーが嫌がらせ的に独自企画したのが「トイ・ストーリー3」であった。
その後、アイズナーはCEOを退任し、ピクサーはディズニーの完全子会社となるものの、ジョン・ラセターをはじめとするピクサー社員がディズニーを乗っ取るような形で事態が終息する。鬼子であった「トイ・ストーリー3」の企画はポシャるかと思いきや、どうせなら作っちまえ!みたいな感じで晴れてピクサー純正の続編が作られることとなった。
……バズの台詞は、そのような製作背景を踏まえた上でのものだと思うんだよね。同じ金とCG技術で作るけど、アイズナーの下で駄目駄目だったディズニーが作るよりも、余計に手間暇かけるんだよ、と。



次に、ピクサーの劇場公開作品では御馴染みの、台詞無し短編アニメが上映される。

「晴れ ときどき くもり」と名づけられた作品なのだが、これがまた凄い。
登場人物はドラクエに出てきそうな擬人化された雲とコウノトリだ。雲は赤ちゃんや犬やら猫やらといった可愛い可愛い小動物を作る。コウノトリはそれを運ぶのだが、主人公である灰色雲男はワニやらヤマアラシやらサメとやらといった、凶暴で危なっかしいヤツばっかり作るんだよね。コウノトリは内心嫌なのだけれど、顔だけは笑顔でそれを運ぶ……といった話だ。
これまでピクサーが作ってきた映画とその映画に出演するキャラクターは、冷静に考えてみれば子供向けとしては危なっかしいものばかりだった。キャラクターのほとんどは精神的に屈折していたし、コンプレックスやルサンチマンが行動原理だった。車やロボットやスーパーヒーローといった、ディズニー作品としてはふさわしくないものも積極的に題材にしていし、「いつかは玩具を捨てなきゃならない」「親は子供を見守るしかない」「なりふり構わず一位になっても価値はない」「家でパソコンばっかやってる人生に意味は無い」といった、玩具大好きなオトナ達が子供を抱えつつ現代アメリカでパソコン使いまくって作る映画にしては、身も蓋も無い結論を用意したりもしていた。
で、危なっかしい動物たちを泣きながら作り続ける灰色雲男は、ピクサーの製作姿勢に通じるんだよね。おれ達が作れるモノは決して可愛くもないし、行儀良くも無いし、危なっかしいけれども、魂込めて泣きながら作ってるんだぜ!という。



そして、いよいよ本編である「カールじいさんの空飛ぶ家」が上映される。

これがまた、ピクサーの演出力と脚本力はどうかしてるぜ!と叫びたくなるような出来であった。勿論、良い意味でだ。


映画はまず主人公であるカールの少年時代をちょこっと描いた後、少年がじいさんになるまでを十分ほどで描くのだが、これが凄い。愛しい人と結婚して、一緒に夢を追うんだけど日々のつまらない雑事に忙殺されて、結局夢はかなわなかったのだけれど、それなりに幸せな日々を過ごしたよね、僕たちは……というのを、台詞無しのモンタージュで描くのだ。十数年に渡って作り続けてきたモンタージュの短編、一時間に渡って台詞無しのシーンが続く「WALL・E」、これまでピクサーがやってきたことの集大成がこの十数分には詰まっている。
映画というのは映像で語るメディアだ。だからその映画にとって重要なパートを、台詞無しのモンタージュでやられると、とても印象深いシーンとなる。雲や風船といった小道具の使い方も上手い。なにより、この映画は絵に描いた餅をそのまま動かせるCG映画だ。完璧な構図で、完璧なカット割りで、完璧なライティングで、このモンタージュは描かれる。
しかも、ここで描かれるのは「愛」と「死」、人生の喜びと悲しみ、どの文化圏に属するどの民族にとっても普遍的な事柄だ。私はさ、ここで泣いちゃったよ。私は映画観て泣くというのはある種の敗北だと考えているので、20年ぶりの涙だ。確か前回映画館で泣いたのは「ナイトメア・ビフォア・クリスマス」の時だったか。


以下ネタバレ。


一つドキりとするのは、エミーが子供が出来ない体だと判明するシーンだ。一応この映画は「子供向け」であるわけじゃん。いや、ピクサーの映画が全くもって子供向けでないことは承知しているよ。でも、体裁としては「子供向け」であるわけじゃん。そういう映画において、主人公に子供がいない理由は「二人は良い夫婦だけど子供がいませんでした」で済むわけじゃん。でも、この映画はそこいら辺を誤魔化さないわけよ。「雲を赤ちゃんに見立てて二人で笑いあう」というシーンの後に、「婦人科で嫁が泣く」というシーンを入れるわけよ。
私は嫁の出産の付き添いで何度か産婦人科に行ったことがあるのだけれど、産婦人科の待合室で、お腹を大きくして育児の本読んでる人に混じって、暗い顔してうつむきながら座っている女性を何人かみかけたのだよね。そういう人たちにとってこのシーンはたまらないものがあると想像する。
でも、ピクサーはそこら辺を、甘いお菓子で誤魔化さない。ディズニー映画だからどんな悪者でも死ぬシーンは描かれないし、人体破壊も首チョンパも無いけれど、婦人科で子供が出来ない体であるという現実を突きつけられるシーンはきっちり描かれる。これは完全なる邪推なのだけれど、この映画の作り手の中に不妊で悩んだ人物がいたんじゃなかろうか。そういう人にとって、「二人は良い夫婦だけど子供がいませんでした」で誤魔化されるのはムカつくことだ。薄ら寒い。人生には、悲しみがあった上で、喜びがある。だからこのシーン、物語の作り手としてのピクサーの、一つの誠意の顕れだと感じた。


もう一つこのモンタージュのパートで重要なのは、カールの仕事が動物園での風船売りだったという事実だ。カールは風船を売ることで、子供たちを笑顔にする。当然、これはアニメを作ることで子供たちを笑顔にするピクサーという会社、或いは集団に対応する。そう、カールとはピクサーだったのだ。


だからカールじいさんは老人ではない。CG映画界という業界で大きな仕事を成し遂げ、それなりの幸せも得た、ベテランだ。老舗ともいう。だから老人だてらにアクションもガンガンこなす。もうこのアクションは古いかもしれな。もうこのストーリーテリングは古いかもしれない。でも、カールはそこにこそ魂があると信じて、やるわけだ。
そんなカールが、自らと同じ傷を傍らにいる少年が持っていることを知る。しかもそれが「ああ、そうか」という一語で表現される。最初の十数分のモンタージュに涙した我々は、「ああ、そうか」の一語にどれだけの思いが込められているかを理解できる。


多分この映画は、ピクサーという会社にとっての「仮面ライダーディケイド」だと思うんだよね。
勿論、カールが「トイ・ストーリー」や「バグズライフ」の世界を旅するという意味じゃないよ。これまで自分たちがやってきたことを総括しつつ、新しい冒険に、それも自分たちと同じような傷をもつ子供たちを救うような冒険に、重い荷物を捨てて旅立つ決意を表明する作品、という意味だ。そういう節目の作品だと思う。
そういえば「カールじいさん」は十年目の作品ではないが、「トイ・ストーリー」から数えて十番目の長編作品だ*1次作も、「“次の10年”に向けた、新たなるシリーズの第1作」である「仮面ライダーW」ならぬ「トイ・ストーリー3」だ。



ただ、納得いかなかったのは、ダグがカールのことを「ご主人様」と慕う理由がどうしても分からなかったことだ。なんかさ、理由ゼロでカールを助けるのは、製作者にとって都合の良い展開に思えてしまうんだよね。
でも、Wikipediaでちょっと調べてみたら、理由が分かった。


カールじいさんの空飛ぶ家 - Wikipedia


ダグの声を担当しているのは共同監督のボブ・ピーターソンじゃないか!これはスタッフによる、「ピクサー愛」「アニメ愛」「アニメの世界愛」等々の顕れだったのだな。

*1:トイ・ストーリー2」を長編に含めるか含めないかで議論する必要も、最早無い