伊藤計劃の呪い

 伊藤計劃の「ハーモニー」が星雲賞を受賞したという。


2009年星雲賞


ハーモニー (ハヤカワSFシリーズ Jコレクション)
伊藤 計劃
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 おお、めでたい。だが、やはりこういうのは存命中に贈られるべきものだよな、とも思う。
 星雲賞日本SF大会というコンベンション参加者による投票によって選ばれる賞だ。SF界にはもう一つ、日本SF大賞というのがあって、星雲賞の審査方式をS-1とするなら、こちらはM-1方式なのだな。2007年度に「虐殺器官」がノミネートされつつも、受賞を逃していたりもする。こちらに「ハーモニー」はノミネートされるのか。されるのだろうなぁ。


 ただ、どれだけ大きな賞を受賞しても、伊藤計劃の存在のデカさというのが自分の中で大きく変化するものでは無い。自分にとっては、そりゃ星雲賞くらいとるだろう、という感じだ。
 多分それは、ずっと伊藤計劃のブログというか、Projectitohのはてなダイアリーの読者であり続けていたせいだろう。

 伊藤計劃といえば、受賞云々よりも気になることがある。もし彼が生きていたら、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」をどのように評価するのだろうか?という問いだ。


 伊藤計劃は1974年生まれ、私より一つ年上だ。TV版「エヴァ」本放送時は21才、大学生だ。この位から10歳ほど下までの層にとって、「エヴァンゲリオン」というアニメの存在は重い。
 いや、「重い」とか「重要」とか「大ヒット」とか、単純に一語では表せない。「エヴァ」というアニメの内容と、青春期に陥りがちなあれやこれやが、放送当時にシンクロしがちだった世代なのだな。滝本竜彦やオリラジのあっちゃんが、なぜ「エヴァ」について顔を真っ赤にしてまで語りたがるか、もの凄くよく分かる、いや、分かるというよりも分かりすぎてイタい。


 もう一つ、近代に対する抵抗の一つとして「成長を拒絶する」という態度がある。あの時、東浩紀とか宮台真司とか宮崎哲弥とかが「エヴァ」について大いに語っていたが、そういう文脈での切り口が多かったように記憶している。で、現在、ポストモダン的文脈で語られることの多い「虐殺器官」や「ハーモニー」の著者は、「ヱヴァ:破」についてどう語るのか、気になる。


 更にもう一つ。伊藤計劃というかProjectitohは、映画についての信頼できる語り手の一人であった。彼の書いた映画評はどれも傑作だ、私にとっては。


 以上のような理由から、伊藤計劃が「ヱヴァ:破」をどのように評価するか、もの凄い気になるのだな。


 例えば「ヱヴァ:序」について、伊藤計劃はこう書いていた。

個人的にはちょいノレなかったエヴァとか(いや、ビルにょきにょき、とかヤシマの準備で運ばれてくる初号機とかは良かったんですけど)、

ストレンヂア・ザン・パラダイス・ナウ - 伊藤計劃:第弐位相

エヴァはまあ、予告編、ですな。

テッドちゃんねる - 伊藤計劃:第弐位相


 映画作家にとっての「成長に対する拒絶」や、「子供」であることや幼稚であることの映画的意味合いについては、こう書いていた。

いや、正直「チャーリー〜」よりずっと好きだね。少なくとも、バートンと違ってこいつだけは、ギリアムだけは、ぼくらを置いて大人になることなんか間違ってもありえない。物語は現実より強い、といういつものネタを、この歳になっても信じて、繰り返している男だ。

トランスナショナル - 伊藤計劃:第弐位相

つまり、この映画は根本において、政治的な映画ではぜんぜんない。右も左もアナキズムも関係ない。それはむしろ、思春期の青年が抱く名付けられぬ違和感のようなものだ。それを青臭いという言葉でくくってもよいだろう。人は世界に合わせることを学び、そうしてしまうからだ。
 けれど、ウォシャウスキーはそれを持ち続ける(オタクであるとか、性転換したとか、そういうことが関係あるかどうかは、わからない)。それによって映画を作り続ける。世界に居場所がないと感じる人々のひとりとして、世界に居場所がないと叫び続ける。この世界はなにかおかしいと叫び続ける。幼稚で、青臭い、それゆえに原初の、反抗の意志として。
 とてもとても青臭い物語。ぼくはその青臭さにちょっと感動してしまったのだけれど。

静かなるソクーロフ - 伊藤計劃:第弐位相


 さて、最近、ネット上における伊藤計劃の活動目録を作った方がおられて、
一斗缶 - FC2 BLOG パスワード認証
それで知ったのだが、TV版「エヴァ」について、エロゲーにひっかけて*1、下記のようなことを書いていた。

 「エヴァンゲリオン」の物語に決定的に欠如していたのが、ほかならぬその肉体だったのは、決して偶然では無い。エヴァは徹頭徹尾自我の問題に拘泥する、典型的な心身二元論の物語だった。近代以降の文学を考えるならば、エヴァは極めてモラリスティックであるといってもよい。「私のモラル」、それが近代日本の知にとってのドミナントであるからだ。肉体にコミットしている側からすれば、他人のモラルなど知った事では無い(そして、其れ故にこそ他者の身体は尊重すべきである)のだが、「私」が重要な局面(すなわち現代)では肉体などお呼びでは無い。「自我など無い」と言ってみたところで、それを考えるのは脳である。そんな頭蓋骨を開いてみたところで、たかだか、脳みそ一つしか出てきはしない。その点で、自我を幻想と言い切れるような理論的な根拠を、エヴァは提出できていない。空虚なお題目である。何故なら、「自我など無い」予定調和的な結末を目指すのは、ほかならぬこの「私」なのだから。
 エヴァでは、身体が「表現するものである」という認識が決定的に忘却されている。押井守が自我の問題から敷衍し、「攻殻機動隊」で身体論に向かったのは、表現としての身体が、現代を描く上でどうしようもなく立ち現れてくることに気が付いたからだろう。エヴァの劇場版に於いて人類が思考停止的に肉体を捨てたのは、エヴァという物語の構造を考えれば当然だったろう。コミュニケーションを問題にしつつ、そこで問題にされているのは実は自我をいかに押し付けるかという、政治的な問題だったからだ。首を締めて殺せる程度の他者の存在をもって、庵野秀明ニヒリズムとする意見は決定的に甘ったれた解釈に過ぎない。その意味でエヴァは思考停止的なオプティミズムに満ちている。祝福されないアダムとイブにした時点で、エヴァの結末は白々しい予定調和と化してしまった。あるいは生き残ったのが3人ならば、エヴァは他者を物語に取り込むことに成功したであろう。「首を締めて殺せる程度の他者」をもって、闘争や価値の交換といったコミュニケーションの発生を予感させることは不可能だ。「あなた」と「わたし」のみでは、関わらざるを得ない「社会」の問題が発生しないからだ。「第3者」、その可能性を排除した事で、エヴァはまさに「自我」の中のみの世界に後退してしまった。それでもいいのかもしれないが。

Wayback Machine

 伊藤計劃は「ヱヴァ:破」についてどう語るのか。他者を物語に取り込み、コミュニケーションを発生させ、このままいけば、おそらく人類が肉体を捨てない結末に辿りつくであろう「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」。「大人」になった「エヴァ」について違和を表明するのか、「成長した子供」としての「エヴァ」を礼賛するのか。もの凄く気になる。
 しかし、それが判明することは、今後永久に無いだろう。


 もっといえば、この前「ウォッチメン*2」を観た時、伊藤計劃ならこの映画をどう観るのかという問いが頭に浮かんだりした。「トランスフォマー:リベンジ」の時も、伊藤計劃ならこれをネタにどのような映画評を書くのかということについて、考えたりもした。
 きっとこの先、押井守黒沢清スピルバーグリドリー・スコットやデイビッド・フィンチャーウォシャウスキー兄弟やティム・バートンテリー・ギリアムやクローネンバーグやクリストファー・ノーランや007の新作を観るたびごとに、そのようなことに思いが至るのだろう。
 これは伊藤計劃の呪いだ。だが、自分がそのような呪いに感染したことが、それを勝手に内在化できたような気になっていることが、誇らしくもあるのです。

*1:いや、逆なのだが

*2:勿論、映画の方