イーストウッドにとっての生者:『ヒア アフター』

ヒア アフター』鑑賞。
世間では「クリント・イーストウッドも遂に『大霊界』を撮るようになったか」というようないわれ方をしてるこの映画だが、自分はとても面白く感じたよ。
この映画、確かに「あの世」が映像として写るし、「あの世」にアクセスした人間が主人公なのだけれども、実のところ本当のテーマは「コミュニケーション」と「物語」なんじゃないかと思ったよ。

硫黄島二部作』や『グラントリノ』で勘違いされてるかもしれないけれど、クリント・イーストウッドは、実は最も過激な映画監督の一人だ。いや、「過激」というよりも「変態」という単語の方が相応しいかもしれない――ある程度の年代以上のシネフィルなら「イーストウッド変態説」に覚えのある方も多いことだろう。

何ゆえイーストウッドは変態と呼ばれている/いたのか? それは、必要以上に主人公が追い詰められるからだ。
イーストウッドが監督した映画に出てくる主人公は、必ずといっていいほど肉体と精神に傷を負っている。主人公達は誰も彼も過去に何らかの罪を犯しており、心の底では贖罪を望んでいる。そこが物語のスタートとなるのだが、お話が進むに従って、体の一部が欠損し、家族が強姦され、友人は殺害され、主人公は闇に包まれた自室で慟哭し嗚咽する。まるで傷を負えば負うほど主人公は主人公たる資格を――映画の中の聖人たる資格を手に入れるかのようだ。
つまり、イーストウッドは主人公が苦しみ悶えるさまを真摯すぎるほど真摯に映画の中で描こうとしているのだが、それがあまりにも強烈なので、変態性を感じるのだ。或いは、苦しみ悶えるさまを描くことに全精力を傾ける、映画作家的変態ともいえる。


本作もその例に漏れない。
たとえば冒頭。なんかワケありっぽいカップルがリゾート地でバカンスを過ごしていて、どういう話かと注意深くみていると、いきなり巻き起こるとんでもないクオリティの津波シーンに目を奪われる。まるで、一皮剥けば世界には死や絶望が溢れかえっていることの証拠のようだ。

たとえば料理教室のシーンだ。
マット・ディモン演じるジョージは霊能者だ。宜保愛子も裸足で逃げ出すスキルを持っているのだが、自分の霊能力を嫌悪し、平凡な人間として生きたいと願っている。霊能力が無ければジョージは単なる独身の冴えない中年男――喪男なので、孤独な生活を送っている。
で、何かのきっかけになればと料理教室に行くと、ロン・ハワード演じる若い娘が何故か好感を寄せてくる。ここで描かれる試食のシーンがとんでもなくエロい。霊視という才能を自ら捨て去ろうとした結果、無味乾燥な人生を歩かざるを得ないジョージの前に偶然という神が遣わせた天使……という役割は分かるのだが、このエロさはただごとではない。絶対にイーストウッドはまだ嫁さん(もしくは愛人)とセックスしてるにちがいない。
しかし、興味本意で霊視をせがむ娘の求めに応じ、過去のトラウマを暴いてしまったが故に、その娘は二度と姿を現さなくなる。
普通の映画なら二人でそのトラウマを乗り越えようみたいな話になる筈なのだが、この映画は違う。セックスを連想させられる程濃密なやりとりを交わした異性が自分を拒絶し、未来永劫二度と目の前に姿を現さなくなるのだ。この絶望。この孤独。

この映画に溢れているのは肉体的な痛みや欠損だけではない。それ以上に、周囲からの無理解や共感できる人物の死、精神的な苦痛や喪失に溢れかえっている。
何故か。それはイーストウッドが変態であるからだ。周囲からの理解や共感の大切さを伝えるために、イーストウッドが選んだ方法であるからだ、変態であるが故に。

もともとイーストウッドの映画に出てくる登場人物は、絶対に他人に依存しない人間ばかりだった。完全に自分の意思と責任で運命というわけのわからないものに対抗し、人生を切り開いていく人間ばかりだった。ここいら辺、イーストウッドの映画がハリウッドの映画の作り方から遠く離れているにも関わらず、アメリカ映画的というか、アメリカ市民的と言われる所以だと思う。
で、王や宗教が存在せず、凄まじい悪意や天変地異でいつ死ぬかわからない現・近代社会において、完全に独立した自我を持つ彼ら彼女らは孤独にならざるを得ない。だが、だからといって彼ら彼女ら他人に対する敬意や優しさを持ってないわけではないし、他人を拒絶しているわけではない。むしろ、だからこそ他人を求めているのだ。

だから、この映画の主人公達にとっての救いはコミュニケーションだ。この映画には三人の主人公が出てくるが、やっと心の底からコミュニケーションがとれ、価値観を共有できる相手に出会えた幸せこそが、それぞれの物語のクライマックスとなるのだ。

物語。そう、物語だ。
ジョージの持つ霊能力は、言い換えれば死人の物語を語る能力といえる。ジョージはこれまで死者の世界ばかりに顔を向け、死者の物語ばかり語ってきた。いくら自分の能力を「呪い」と呼び、霊視から遠ざかろうとも、ジョージの心は死者の世界に囚われていたのだ。
しかし、一念発起して海を渡った異国の地で、ジョージはブックフェアに参加する。ブックフェアとは即ち、物語の集まる場所だ。
そこでジョージは双子の兄を亡くした少年マーカスに出会い、マーカスの為にちょっとした嘘をつく。本当にちょっとした嘘なのだが、それはジョージが始めて死者の世界から生者の世界に目を向けた瞬間だ。
その瞬間、ジョージは死者の物語ではなく、生者の物語を語る能力を得る。死者の世界ではなく、生者の世界を視る能力を得たのだ。

だからジョージがマリーと出会った時、ああいう物語をジョージが視たのは、必然なのだと思った。