『マッドマックス:フュリオサ』わざと盛り上がらないように作ってる説

 ニコニコがダウンしているため、またこちらで更新します。
 ブロマガの代わりとお考え下さい。

 さて、先日「『マッドマックス:フュリオサ』とジョージ・ミラーのデス・ロード」というテーマで生放送を行いました。
https://www.youtube.com/watch?v=FWqDb6RkMBU
 こちらの内容について補足しつつ、文章としてまとめることにします。

『怒りのデス・ロード』とは全然違う

 『マッドマックス:フュリオサ』、前評判に反して全米では大コケ、日本ではそれなりにヒットしていますが、SNSを観ると賛否両論、というかそれなりの反応です。自分のみたところ、だいたい前作『怒りのデス・ロード』と比べていて、「決してつまらなくないけど神作だった『デス・ロード』と比べると……」とか、「前日譚である『フュリオサ』鑑賞直後に『デス・ロード』を観ると最高!」とかいった評価です。
自分も一回目の鑑賞では大いに戸惑いました。『デス・ロード』は世紀の傑作といって良い映画でした。しかし、『デス・ロード』と比較して、『フュリオサ』はあまり盛り上がらない映画です。落ち着いて再度鑑賞し、これは全く違う映画を作ろうとして結果そのようになったのだと思いなおしました。
 本作の5章から成る章立てとヒストリーマンが語る物語という枠物語の形式は、この映画で描かれた物語が現実そのものではなく神話や伝説に近い抽象的なもの――虚構性を強調させます。5章それぞれにアクションシーンがありますが、音楽はアクションを盛り上げるように使われていません(同じくジャンキーXLが担当した前作や『ゴジラvsコング』、『デッドプール』等と比べると分かりやすいです)。最終章で描かれるディメンタス軍とイモータン軍による「ウェイストランド40日戦争」は、ヒストリーマンによる語りとダイジェスト版のような映像で淡々と語られます。キリストが40日間悪魔の誘惑に苛まれたり、ノアの洪水が40日間続いたり、イスラエル人がカナンを求めて40年間彷徨ったりするのを聖職者が語るのと同じ淡々さです。そしてなによりも後述するラストです。本作はフュリオサの復讐譚ですが、仇敵を残酷に殺して観客が留飲を下げるラストではありません。
――これらは全て、前作『デス・ロード』とは異なる映画であること、単純に観客が盛り上がる映画であることを拒否した作りにしていることを意味しています。

フュリオサのヒーローズ・ジャーニー映画として丁寧な作り

 ジョージ・ミラーは『マッドマックス2』を作る際にジョーゼフ・キャンベルの『千の顔を持つ英雄』とそこに描かれた「英雄の旅(ヒーローズ・ジャーニー)」理論――から刺激を受け、その後自作を現代の神話や英雄物語として作るようになりました。

 ヒーローズ・ジャーニー理論とは、世界中の多くの神話や民話には「英雄が日常から非日常に遷移し、最大の試練を乗り越え宝を持って再び日常へ帰還する」という通過儀礼の構造があるという理論です。その過程でメンターに出会ったり、最大の試練で死に近づいた後成長を遂げたり、敵対者が現れこれを倒したりします。
 『フュリオサ』と時系列的に続く『デス・ロード』を一つの物語として考えると――言い換えれば、『フュリオサ』の6章目が『デス・ロード』と考えると、本作はよくできています。メンター的役割を果たすジャックという男が現れ、後に出会うことになるマックスとフュリオサがなぜあんなにもしっくりと共働できたかの伏線になります。最も死に近づいた後、左腕を犠牲とすることで成長し、我々の知る「フュリオサ」が誕生します。
 映画としての伏線の貼り方も巧みです。
 第3章で描かれるウォーリグVSオクトボス戦は15分のアクションシーンの撮影に78日間かかったという本作の見どころの一つですが、ここで出てくるオクトボスのバイクを飛行させる黒い蛸のような凧、というかグライダーは、第1章でディメンタス軍がキャンプしてるシーンで既に登場しているのでした。
 第4章のバレットファーム戦は、フュリオサとジャックがほとんど会話しないにも関わらず「おれを見捨てて緑の地へ行け」というジャックの指示をフュリオサが無視することが伝わってくるオクトボス戦以上の熱いアクションシーンです。この冒頭で『用心棒』よろしく人間の足を咥えてうろつく義足の犬は、ガスタウンの領主部屋(前領主が『ヒュラスとニンフたち』を壁に模写したあの部屋です)をディメンタスが占拠して我が物顔で使ってるシーンで伏線として出てくるのでした(義足なのでコツコツと地面を叩く音が印象的になるように作られています)。
 このような例を挙げればきりがありませんが、本作は台詞に頼らず物語やアクションシーンを盛り上げる演出が実に丁寧で、西部劇や黒沢時代劇に親しんだジョージ・ミラー79歳の匠の技が光っていました。『ロレンツォのオイル』以降、発表作品のほとんどが何らかの形でアカデミー賞に絡んでいますが、その理由も分かろうというものです。

レイプ・リベンジ・ムービーにはしない

 ただ、本作を『デス・ロード』の前日譚とした場合、幾つかの矛盾があります。
最大のそれは、フュリオサとイモータン・ジョーの関係性です。
 『デス・ロード』公開時のインタビューで、シャーリーズ・セロンは自身が演じたフュリオサについて「元イモータン・ジョーの子産み女の一人」「子供ができなかったので棄てられたが、ウォーボーイズに入隊し、執念で大隊長に上り詰めた」と語っていました。
 本作において、確かに幼いフュリオサはディメンタスとジョーの取引の結果、子産み女の一人となりました。しかし幼さ故にまだジョーにレイプされることはなく、(おそらく小児性愛者であろう)息子のリクタスにレイプされることもなく、強制的に妊娠させられる前にシタデルを抜け出します。そして生き延びるため、ディメンタスに復讐を果たすためにシタデル内部に留まり、男の扮装をしてイモータン軍のクレーン作業員となり、ディメンタスを打ち取るという戦果を上げて大隊長となったのでした。
 この展開は明らかに『デス・ロード』と矛盾していますが、しかしなぜこうしたのかという理由は想像できるし、理解できます。いわゆるレイプ・リベンジ・ムービーにはしたくなかったのでしょう。
レイプ・リベンジ・ムービーというのは古くからあるエクスプロイテーション映画内のサブジャンルの一つです。レイプされた主人公もしくはその関係者(99%が観目麗しい女性)が、友人や親族や恋人の力を借りて、あるいは独力で、性行為を強要された時よりもすさまじい暴力を用いて犯人に対してリベンジする……というのがクラシックなレイプ・リベンジ・ムービーのあらすじです。
 観客はほとんどが男で、まずは犯人側にある程度感情移入して男としてレイプシーンを楽しみ、次に主人公に感情移入することでガールズバイオレンスによるリベンジを楽しむ、一粒で二度美味しい映画となっているのが最大の魅力です。特にクラシックなそれは、話としては「レイプなんて絶対許さん!」というものなのですが、冒頭にあるレイプシーンは「けしからんなあ」という顔をして楽しむ、戦争映画にも似た魅力がありました。というか、この二粒のバランスを調整し、視点を変えることで無限のバリエーションを作ることができたのです。
 なので、『発情アニマル』『ゼイ・コール・ハー・ワン・アイ』『ヒッチハイク』等々、次々と同ジャンル作が作られ続けました。放送でなかなか名前を出せなかった『狼よさらば』シリーズもレイプ・リベンジ・ムービーの一つです。
 一方で、レイプ・リベンジ・ムービーには「描いているストーリーとは裏腹に、作り手も観客もレイプを消費しているのではないか?」という批判が常にありました。戦争映画における暴力が苛烈になればなるほど反戦的になるのと対照的です。
 故に近年、特に女性クリエイターによって作られたそれは、絶対にレイプを消費させないぞという気合に満ちたものになりました。気合が入りまくったが故に、『プロミシング・ヤング・ウーマン』や『REVENGE リベンジ』等の名作・傑作も生まれることになりました。
 しかし、それでもこのジャンルには根本的な問題がある、とジョージ・ミラーは考えたのでしょう。だから本作ではフュリオサもレイプされません。フュリオサの母メリー・ジャバサも、まるでジャンヌ・ダルクイエス・キリストが処刑されるように殺されます。ジョージ・ミラーの神話的・象徴的語り口が光る描き方でした。

ディメンタスのグルーミング

 その結果として、本作はイモータン・ジョーではなくディメンタスに対するリベンジムービーとなりました。
 このディメンタス、きっちりとカルト宗教を土台とした搾取システムを構築しているジョーと比べると、大人数を統治するリーダーとしてかなりいい加減です。それなりのカリスマ性を自己演出しているので、数十人程度のバイカー軍団ならなんとかなるのでしょうが、ガスタウンのような数百~数千人規模の都市だと、統治に失敗して反乱を起こしてしまいます。オクトボスの部下をいい加減に使い棄てたことが離反の原因にもなりました。
 そんなディメンタスは、偶然捕まえた幼少期のフュリオサを飼い殺しにします。拷問にかけて故郷である「緑の地」の所在地を口にさせる、なんてことはしません。檻に入れて自由を奪いつつ、ちょっとだけ特別扱いすることで意のままにしようとするのです。
 ここで自分はジャニーズや吉本といった、最近日本の芸能界で起こったあれやこれやを連想してしまいました。いわゆるグルーミングです。24時間犯罪者や独裁者でいることはできません。それらは個人が持つ沢山の顔のうちの一つだからです。だからジャニーさんにも松本人志にも尊敬すべき、仲間や家族から愛されるべき顔があるし、権力に座に乗っかって気ままに振舞う犯罪者の顔もあるのです。
 ディメンタスも同様なのですが、その中の顔の一つに、独裁者としての顔に疲れた中年男という顔があるのが小物っぷりを際立たせていました。捕らえたフュリオサとジャックを時間をかけて処刑しようとする最中、「飽きた」と呟くのは衝撃的でした。絶対にイモータン・ジョーが呟かない台詞です。強大な権力と責任を掌中にしつつそれに振り回されている男の悲哀。「私は寝ていないんだよ!!」と逆ギレした雪印社長を連想してしまいました。本作の名シーンの一つになるのではないでしょうか。
 また、「最初は優しくて魅力的なのだけれど、都合が悪くなるにつれていい加減になり、DVすらふるう男」についてジョージ・ミラーは『イーストウィックの魔女たち』で既に描いています。

イモータン・ジョーのスリーストライクス法

 では、きちんとシタデルと統治し、ガスタウンやバレットファームと交易し、ウェイストランドの経済を回しているイモータン・ジョーを支持したくなるかというと、全くそんなことはありません。
 ジョーはカルト宗教と家父長制を軸としたガチガチの搾取システムを構築し、自分たちだけの生存を目的とした支配者に収まっているからです。死体からウジを育てて食料を生産する下層民、自爆攻撃することで人命を兵器に変えたウォーボーイズ、自分の血をひいた子供や母乳を「生産」する子産み女……このような搾取システムを作り上げ、ほとんど何もしなくても権力や富や資源が自分の周りに集まってくる優れた独裁者としての嫌らしさがイモータン・ジョーにはあります。しかもそれは、少なくとも下層民よりは高いある程度の地位があり、カルト宗教に洗脳された故の生き甲斐があるウォーボーイズたちにとっては、心地いい世界なのです。ISIS、福音派、Qアノン、統一教会……神話化され抽象化されているが故に、世界でいま起こっている様々なことに当て嵌め可能なのが秀逸です。
 特にイモータン・ジョーが、奇形児を産んだ子産み女に対して「スリーストライクだ」と言い放つシーンはオエっとする位秀逸でした。健康な子供を産むことに三度失敗した為、清潔で安全なハーレムから追い出さないでくれと泣き喚く子産み女。彼女に、医者ならぬ人間メカニックのオーガニック・メカニックは「安心しろ、母乳で貢献してくれ」と声をかけます。一見温かいように聞こえるけれども、これからずっと搾取は続いていくという、ゾッとする台詞でした。『マッドマックス2』でヒューマンガスの銃収納箱に貼り付けられた家族の写真とか、とか、ジョージ・ミラーは僅かな尺で世界観やキャラクターの奥行きを表現するの演出が相変わらず上手いです。
 しかもこの「スリーストライク」は、現実にアメリカで施行されているスリーストライクス法(三振法)を強烈に連想させます。重罪の前科を持つ人が3度目に有罪判決を受けた場合、25年以上の懲役あるいは終身刑がほぼ自動的に課されるという法律ですが、三度目の罪が軽犯罪でも、問答無用で25年以上の懲役です。また、「重罪」には殺人、放火、強盗、誘拐以外に、過失致死や家庭内暴力、酒酔いあるいは麻薬使用時の運転、麻薬絡みの犯罪なども含まれます。この「スリーストライク」に死産や障害児出産が含まれる……「女性が子供を産む機械」と発言して辞任した厚労相がいましたが、現実を照射する上手さがありました。

 本作を踏まえると、時系列的に後日譚になる『デス・ロード』でのフュリオサとイモータン・ジョーの関係性が薄くなり、フュリオサの行動原理が弱くなるという意見もありますが、自分は決してそうは思いません。イモータン・ジョーは女性や弱者を搾取するガチガチのシステムを作り上げ、その支配者に収まっています。彼の治めるシタデルから子産み女たちを連れて逃げ出すこと、あるいは「革命」を起こすことが『フュリオサ』の次の物語となることは当然です。ディメンタスに対しての個人的な動機に基づく復讐(revenge)を果たしたフュリオサが、次に社会正義に基づく復讐(avenge)を行うという流れには、前述したレイプ・リベンジ・ムービーの回避も含めて、納得しかありません。

単純なカタルシスを拒否した結末

 もしかするとジョージ・ミラーとしては、前作と同じことをやりたくないという理由の他に、単純に観客が盛り上がって楽しめる映画にはしたくないという思いがあったのかもしれません。
『デス・ロード』は、凶悪な権力者と彼が作り上げたシステムに身体と再生産能力を搾取される女性たちを女性が助け出す、フェミニズム映画です。コンサルタントとして『ヴァギナ・モノローグス』等の代表作があるフェミニズム劇作家イヴ・エンスラーが参加し、女性に対する暴力に関する助言を行ったこと、性奴隷であることへの演技指導のワークショップを開催したことは有名です。
同時に、『デス・ロード』は言語に頼らず生理的アクション映画としてあまりにも良く出来すぎているために、「単純に観客が盛り上がって楽しめる映画」にもなってしまいました。鑑賞後、頭の上で指を組んでV型8気筒エンジンを模した形を作る「V8ポーズ」で盛り上がり、イモータン・ジョーを称えるファンが続出しました。
 成熟したオトナが「遊び」としてやる分にはなんの問題も無いでしょう。しかしそのうち何割かは、イモータン・ジョーの思想にそれなりに理があると考え、それなりに共鳴しているのかもしれません。独裁者と家父長制のコンボは、たとえ搾取されていたとしても「大きな物語」を提供してくれるという意味で、男にとってはそれなりに居心地いいのかもしれません。
 これは大袈裟なことではありません。MCUのサノスや『ザ・ボーイズ』のホームランダーといった独裁者のメタファーにそれなりに共感したり、『ファインディング・ニモ』を観てカクレクマノミを飼ったりする人もいるのですから。映画が訴えるメッセージと、映画をポップカルチャーとして消費することは全く別の話になりえます。最初は冗談や悪ノリではじまった風習が、後にシャレにならない陰謀論に繋がる可能性もあります。米議会議事堂に乱入したバッファロー男は、どことなくマッドマックスの登場キャラのようでもありました。
 もしかするとジョージ・ミラーは、独裁者に対する反抗と闘争と革命の話として『デス・ロード』を作ったにも関わらず、嬉々として独裁者に隷属してカルト宗教の一員であるウォーボーイズになろうとする観客を観て、複雑な思いを抱いたのではないでしょうか。
 ここまで書いてきたように、『フュリオサ』は『デス・ロード』と比較して、章立て・枠物語・控えめな音楽と、「単純に観客が盛り上がって楽しめる映画」にはならないように作られています。戦争映画であれば最大の見せ場となる「ウェイストランド40日戦争」はダイジェスト版のような映像で淡々と語られ、主人公は仇敵を残酷に殺してある種の爽快感と殺伐さをもって終わる『マッドマックス』一作目と同じラストになることを明確に拒否します。
 ディメンタスは、自分も家族を無理やり奪われたという点でフュリオサを同じであること、復讐を遂げても虚無しかないことをフュリオサに告げます。おそらく『マッドマックス』でマックスが復讐を遂げた後に味わったであろう虚無です。考え込んだフュリオサは、なんと「仇敵を生きたまま樹の養分とする」というハイヌウェレ神話的な選択をするのです。
 勿論、意識と生命を保ったまま人間を樹の苗床とするのは不可能です。もしかすると殺した後に死体を肥料としただけなのかもしれません。しかしそこから育った樹についた果実は、次世代の同胞の糧となるという意味で個人的な復讐を越えたものなる、少なくともヒストリーマンを通じてこの物語を知った子供たちにはそう解釈して欲しい――という意味合いのシーンです。
 『デス・ロード』公開後、世界は新しい戦争の時代を迎えました。ロシアはウクライナに侵攻し、ガザでは民間人が虐殺されています。ウォーボーイズやバイカーたちは政府や独裁者に「洗脳」された市民であり、子産み女やシタデルやガスタウンの下層民たちは戦場でレイプされ虐殺される民間人の別の姿なのかもしれません。
 このような時代に、「戦争」や「復讐(revenge)」でカタルシスを得るような映画は作りたくない――ジョージ・ミラーはそう考えたのではないでしょうか
 『マッドマックス』シリーズの続編が待ち遠しくてたまらない今日この頃です。