菌塚探訪 その2


……というわけで折角の京都、生の菌塚をこの目でしかと見届ける良い機会と思いたったわけだ。学会会場である国際会館から菌塚のある曼殊院まで徒歩で約一時間、当初はブラブラと歩きながら京都情緒を楽しむかという心積もりだったのだが、意外に京の町は住宅地化されていて、私の住む埼玉とそう変わりなかった。


 しかし、拝観料600円を支払って見学した曼殊院は、流石JRのCMやポスター撮影に使用されただけのことはあるというか、紅葉の美しさといい庭園の見事さといい、そして展示されていた幽霊の絵の妖幻さといい、これぞ我々が頭の中で思い浮かべる京都の姿と呼ぶべきものだった。いや〜、やっぱ京都って良いな。そうだ 京都、行こう!1年なんて、あっという間に過ぎていくって言いますけれど、もう少しゆっくり過ぎて行ってくれるといいな!

……だが、境内を幾ら探しても菌塚らしきものは無い。受付で尋ねてみると記帳を求められ、境外(でも敷地内っぽい)を指示された。
 いってみる。するとありましたよ、お目当ての菌塚が。

 どうも先客がいたらしく、ワンカップと培養液らしきものが収められた小瓶がお供えしてあった。菌塚だからお菓子を備えるのは不適当なんだろうな。

 しばし手を合わせ、自身がこの十数年に渡る研究生活の中で殺傷してきた細菌の数々に黙祷を捧げた後、写真撮影したのだが、途中でなんだか可笑しくなってきて、笑えてきた。自分がこうやって殺してきた細菌の霊を弔うことが。
 だってさ、死を悼む相手は細菌なんだよ?供養する対象が人間なら、その感情は当然と思えるだろう。同じ仲間だからだ。ペットとして飼っていた犬猫でも、まぁその感情を受け入れるだろうし、他人にも受け入れて貰えるだろう。ペットというのはある程度人間と対等の相手として付き合う部分があるものだし、長年の生活を通して感情移入するものだからだ。でも、この場合の相手は細菌だ。クレイジーだと思われても仕方が無い。

 だがその一方で、細菌に対してもその死を悼む気持ちを持つのが当然だという考えも自分の中にはあるんだよね。大袈裟にいえば、この十数年に渡る研究生活を通して自分の中にそういう価値観が芽生えてきたと表現しても良い。そしてここに“菌塚”があり、見も知らぬ誰かがお供え物をしている。菌塚の後ろにはこう書いてあった。「人類生存に大きく貢献し犠牲となれる無数億の菌の霊に対し至心に恭敬して茲に供養の愖を捧ぐるものなり」この価値観を持った者は私一人ではないということだ。それが心強い。
 だがこの二つの価値観を両立できる自分という存在が、なんだかとても可笑しかった。

 それにしても、帰宅してから気づいたのだが、菌塚建立者として世に知られていたのは元大和化成株式会社の社長である笠坊武夫であった。勿論この人は私の大学院の時の教授などではない。……きっと、ちょこっと寄付とかしただけなのに「仲間と作った」なんていってたんだろうなぁ。