おれは戦争が大好きだ!:『ハート・ロッカー』

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アカデミー賞を獲ったわりには公開館数の少ない『ハート・ロッカー』を観たのだが、とんでもない映画だった。
「私は戦争が大好きだ!」を大マジでやるというか、21世紀のキルゴア中佐というか、戦争しながらこの作品を監督賞や作品賞に選ぶアメリカという国は天晴れだと思う。


先月末、チリ地震の影響で日本に大津波が来る! いや、来ない!みたいな時があった。そんな時、沿岸住民が高台に避難したり、漁師が養殖業者が対応に大わらわする中、周囲の制止を無視して喜々として海にはいるサーファー達がいた。
もう一つ。ちょっと前のことだ。車や運転が好きというよりも、生と死の間にあるぎりぎりの緊張感が好きという男がいた。レーサーを引退した彼は、当り前のように登山家になって一文の得にもならない冬の富士山登山に「練習」の名目で挑み、事故を起こした。
何故、そんな無謀なことを──危険で、リスキーで、一文の得にもならないことをするのか? そう問われたとき、彼らは答える。
「反省してマース」
しかし、絶対に反省などしていないことは、誰の眼からも明らかだ。心の中で、人の世というのはなんてつまらない所だろうと絶望しているのだ。安全に、安心に、汗をかかずに、効率の良いことだけをやり続ける人生なぞ無価値だと、自分の信念を新たにしているのだ。
それは、「男の浪漫」とか「男の世界」とか呼ばれているものの本質で、世間一般の眼からすれば幼稚でグロテスクで不条理なものなのだが、ある者たちにとっては字義通り命を賭けるに価するものとなる。


ハート・ロッカー』の主人公ジェームズ軍曹もそんな人間の一人だ。一般人と敵の区別をつけ難いイラクの市街で、仲間を危険に巻き込むことを厭わず、チームワークを無視して勝手に爆弾に近づき、限界までスリルを楽しんで爆弾を解体する。そんな新班長の姿に、部下であるサンボーンやエルドリッジは苛立ちを隠せない。一時は事故にみせかけてジェームズを殺すことまで考える。
だが、映画史上最も美しく描かれるスナイパー戦で、サンボーンやエルドリッジも「男の浪漫」の虜となってしまう。陽炎で像がブれるに構わず必死で目標を捉えようと試みるサスペンス、観測手が射手に自分より先に飲めとジュースを差し出す演出、夕暮れで血の様に赤く染まった荒野の美しさ、排出された薬莢が土や砂を跳ね上げるさまをスローモーションで捉えた描写等々が素晴らしすぎる。その後の兵員宿舎で裸で腹パンチしあうさまはどうみてもベッドシーンで、騎上位のごとく馬乗りになってくるジェームズにサンボーンが「これはおかしい」とキレるシーンまである。


ジェームズにとっての爆弾処理は、まるでエクストリーム・スポーツかなにかのようにみえる。政治も、イデオロギーも、善悪も、ジェームズには関係ない。ただ、無意味なことに命を賭けるのがどうしようも無く楽しいのだ。
子供を作ろうかどうか迷ってるサンボーンに対して、戦争のスリルを楽しむジェームズは、いつ自分が死んでも良いように離婚している。家庭を省みないどころか、予め責任を放棄しているわけだ。なのに、帰国すれば妻や子供と団欒するという。養育という責任をとらず、団欒というリターンを享受しているわけで、これはジェームズが社会的に幼稚で甘えているだけの人間である証なのだが、「男の浪漫」というのはそもそも幼稚であるものなのだ。
だから、上官であるリード大佐に賞賛されても、ジェームズには褒められる意味が分からない。俺は好きでやってんだ。爆弾処理の秘訣を尋ねられ、「死なないことです」と適当に返すも、逆に深読みされて感心されるシーンは乾いた笑いの漂う名シーンだ。おそらく、モース以外の上官が描かれず、上官から命令を下されたり服務規程違反を咎められたりするシーンが無いのは意図的だろう。


以下ネタバレ


だが、そんなジェームズも、イデオロギーに脚を絡めとられる。海賊版DVD売りのベッカム少年が人間爆弾に改造されるのだ。それまで、単に限界のスリルを楽しむだけだったジェームズに、イデオロギーが宿る。「イラクの虐げられし民を救う為に戦うアメリカ」「民主主義を守る為に戦うアメリカ」これこそ究極のイデオロギー──ヒロイズム、アメリカという国が考える「男の浪漫」そのものだ。
だが、それはアメリカという国の「男の浪漫」であって、ジェームズの考える「男の浪漫」ではない。イデオロギーに染まるということは、それだけ純粋でなくなるということだ。無断で基地を抜け出し民間人の家に乗り込むジェームズ。不必要に爆弾犯を捜索するジェームズ。それは、それまでのジェームズ的「男の浪漫」とは別種の狂気だ。
映画的に考えれば、それは主人公が強さを失うということでもある。故に、悲劇的な展開を迎える。一時は心が通じ合ったかにみえた仲間も、ジェームズの元を離れる。映画的には、どう考えてもこの爆弾を解体してハッピーエンドだろうという第三幕のクライマックスで、ジェームズは失敗する。


だから、帰国して離婚した妻の飯を喰い、養育義務の無い子供を抱きながら、ジェームズは思い直す。この年になると好きなものは一つだけしか残らない。だから、イデオロギーとか、正義感とか、ヒロイズムとか、そういったくだらないものではなく、自分の好きなそれ一つだけに注力しよう、純粋に命を賭けよう。



この映画の素晴らしいところは、ジェームズの「男の浪漫」的狂気を否定も肯定もしないことだ。ジェームズは良い。しかし、ジェームズの勝手な「男の浪漫」──生と死の狭間に存在するぎりぎりの緊張感を楽しもうという狂った価値観に付き合わされる部下や同僚はたまったものではない。それと同じ理由で、アメリカの「男の浪漫」──ヒロイズムに付き合わされるイラク市民もたまったものではない。だから、常にアメリカ兵を敵視し、隙あらば寝首をかこうというイラク国民の姿もしっかり描かれる。
と同時に、安易なニヒリズムアイロニーに落ち込むのを避けてもいる。この映画を観て、汗を流して、体を張って、爆弾を解体するジェームズを即座に否定する者は少数派だろう。


また、ジェームズの「男の浪漫」は、戦争という巨大な狂気にオリジナルな狂気で必死に対抗している結果のようにもみえる。全てを前向きに楽しんでやろうというポジティブな狂人こそがアメリカという価値観のアーリー・アダプターなのだと。『フルメタル・ジャケット』や『プラトーン』とは違った形で表現したのだ。


更にもう一つ。全ての映画が作り手の自己表現である、やむにやまれぬ思いを表現するものだとするのならば、我々は監督のキャスリン・ビグローの周辺に、一文の得にもならないと思えることに狂気的な熱意と時間と情熱を注ぎ込む前夫──しかも、家庭を省みない前夫がいることを知っている。いや、『アバター』は結果的に大ヒットしたけれどもさ。