非実在青少年は本当に実在しないのか?

今、twitterブロゴスフィアで最もホットな話題といえば東京都青少年保護条例改正案──「非実在青少年」規制だ。
子供を持つ親が送ると効果的というので、私も民主党系の都議会議員に反対のメールを送ろうかどうか迷っているのだが、埼玉県民が送っても効果あるものなのかどうか、迷う。


ただ、それはそれとして、この件に関してはなんだかなーという思いが強い。
や、民主国家において政治権力を監視したり暴走を止めたりするのが市民の義務だってのはよく分かる。けどさ、だって「非実在青少年」だぜ? 思わずプッ(笑)と吹き出しちゃうよな。
この脱力と失笑と面白さの原因は、やはり「非実在」という前置きをわざわざつけている点にあるだろう。


この条例が想定している「非実在青少年」というものの実態は、エロゲーエロマンガやエロアニメに出てくるキャラのことであるわけだ。果たして彼らは本当に「非実在」なのか。
確かに現実には、この世に肉体を持って存在しているわけでは無いだろう。しかし、本当に「非実在」と言い切れるのか。少なくとも、読者やプレイヤーの頭の中には存在している──というか存在している瞬間があるわけだ。


ラブプラス
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たとえば『ラブプラス』というゲームは、本当にそのキャラが存在しているという体でないと楽しめない。凛子や寧々といったキャラは現実に肉体を持ってるわけじゃないが、ゲームを進めてゆくに連れて、それまでゲームに干渉していたプレイヤーが、逆にゲームに影響されるようになっていく、プレイヤーの生活が干渉されるという形で。
それはつまり、「非実在」のキャラに「実在」の我々が影響されるということだ。


一方、我々は本当に実在しているのか? という根源的疑問もある。実は、この世は全て幻で、長い長い胡蝶の夢をみているだけなのかもしれない。ある朝目を覚ましたら病院のベッドで何十年も寝たきりになっていた自分を発見するのかもしれない。地球はコンピュータに支配されていて、人間は機械に電力を供給するだけの存在かもしれない。自分が実在していると断定できる根拠はどこにあるのか。


実在しないといえば実在しない。実在するといえば実在する。確実に存在すると思えるのは己の意識、そしてその意識で感知可能な肉体(と思えるもの)だけだ。だから我々は非実在青少年でオナニーするわけだ……という論理展開は半分冗談なのだが、こういう狂った思考を表に引き出してしまう欺瞞を感じるわけだ、「非実在」という前置きには。


ただ、こうも思う。法律や憲法といったもの*1には「非実在」を「実在」させることができる力がある。
良い例が「カネ」、特に「紙幣」だ。基本的には紙切れでしかないものに価値があるのは、それが富やエネルギーを代替するものであるという共同幻想を皆が信じ込んでいるからだ。これは共同幻想であるから、国家が崩壊したら共同幻想が成立しなくなって価値が無くなるし、幻想の度合いによって──インフレやデフレで価値が増減する。
「国家」や「民族」や「自我」や「善悪」といった概念も同様だ。近大国家という概念はフランス革命以前は存在しなかった。日本人や中国人や朝鮮(韓国)人という概念は数百年にわたって同じものを意味しているわけではにあ。近大的自我が誕生したのはニーチェが神は死んだと宣言して以降だ。そして、善悪とは、つきつめれば偶然の産物だ。
民族とナショナリズム
Ernest Gellner
4000021966


誰かがわざわざ「非実在」と前置きしたせいで、それまで実在しなかったものが「実在」するかのように扱われる。「実在」の度合いが上がる。なんだか痛快ではないか。


や、今回は、昨日まで実在しなかった規制が、明日からは実行力を持った権力として実在するかもしれないので、皆大騒ぎしてるわけだけどもさ。昨日まで険悪そうだったマンガ界のあの人やこの人たちが仲良く抗議声明を出している姿をみると、なんだかほわっとするのです。

*1:今回は条例だけれども